待雪草の女の子
私は誰にも、虐げられたことはおろか、傷つけられた記憶がほとんどない。ただひとり、鏡の向こうから私を睨みつける"あの子"を除いては。
そういえば、あの子を見ない。
私とそっくりな見た目をした少女だ。背丈も、体格も、顔つきも。
年齢だって私と同じくらいだろう。好きなものも、得意なものも、苦手なものも、知っていることも知らないことも、全部あの子と一緒だった。
ただ一点、本当に一点だけ、私と全く違うところがあった。
あの子は、私のことを誰よりも深く、深く憎んでいるのだ。
⭐︎
あの子には名前がない。
スノウドロップの花言葉がよく似合うあの子には、雪とでも名付けておこう。
雪の声が聞こえるようになったのは、中学生くらいの頃だろうか。それから高校生になって、大学に入って。初めての彼氏ができて、彼と別れて、研究室に入って。……ずっと、ずっと、雪は私とともにいた。
実に十年ほどだった。もはや、そこにいるのが当たり前になっていた。
子供にはありふれたことだが、意思薄弱で呑気な私はよく両親に叱られていた。宿題をしようと机に向かっても、気づいたときには集中力を切らせて遊んでいる。早く寝る約束を破り、スマホを開く時間の決まりを掻い潜り。学校では抜群に成績の良い優等生で通っていたものの、家ではただのぼんやりとした子供だった。
気の弱い私は、説教される折、いや、その雰囲気を肌で感じ取るだけで、石になってしまう。
身体が指一本動かない。ようやく手が動いても足が床に根を張っている。声が出ない。言葉という言葉が、頭の中から完全に消え去っている。私って誰だっけ、一体何を思っていたのだっけ。頭をノイズが駆け巡り、彼らの話など何も聴こえていない。
雪は音もなく私の背後に忍び寄った。そうして、耳もとで口を開く。
――愚か者。お前なんか生きているだけで恥だ。
――初めからお前なんか居なかったら、両親にこんな迷惑かけないで済んだのにね。
――ああ、お前は何もしていない。人間にすらなれない蝋人形。
そう。彼女は、口を開けば私を罵倒する。
家族にも、友達にも、先生にも、いや見知らぬ他人にだって、いかなる形の暴力をも受けたことのない私は、こうして雪からは毎日、言葉で罵られ、存在を否定されるのである。
――こんな親不孝、いなくなればいい。
――お前は間違えた。みんながお前に失望している。
――本当に愚かだ。お前はあの時何故あんなことを言った? 恥晒し。
雪は言葉の刃で私をじりじりと削り取る。けれども本物の刃を私の肌に突き立てたことはなかった。血が出てしまうのは都合が悪いらしい。そよ風のように小さな声で、絶え間なく私の生きる意味を否定する。けれども声を荒げて怒鳴ったことはなかった。声が誰かに聞かれてしまえば、彼女の存在が知られてしまうからだ。
――お前なんか死んでしまえ。
ああ、本当に死んでしまおうか。
私は、死後の世界を想像した。今世が終わる瞬間を。……途端に恐ろしくなって涙が溢れた。説教の最中、よくわからないタイミングで泣き出す娘に、父は「反省していそうなポーズはいらない。何も改善していないから怒っているんだ」と言い、母は「怒られて怖かったから泣いてるんだよ。ね?」とフォローを入れた。
雪は呆れ顔で言った。
――それは駄目だ。両親の割いたリソースを全て水の泡にする。お前は最後まで、ひとの期待を裏切るつもりか?
そうだ。私なんかに死を選ぶ権利なんてあるわけがない。両親に恥をかかせては駄目だ。ああ、誰にも気づかれずに消え去れたら良いのに。初めから、私なんて居なかったら。
優しい両親は、しゃくりあげながら泣く私を見かねて話を終えた。雪の声にかき消されるばかりで、両親の話など全く耳に入っていなかった。終わってからも、私の身体は石になったままだ。頭の中にだけは、ぐるぐるとノイズが駆け巡る。
かろうじて手を伸ばしてスマホを開き、意味のない空虚な情報に目を走らせる。その間だけ、雪の声を無視することができた。しかしそのさまは、誰がどう見ても時間の浪費。結局、火に油を注ぐかのように、両親と雪から再び責め立てられることになる。
また、雪の声ばかりが聞こえる。
――皆がお前に裏切られて、皆が疲れ切っている。
――お前はみんなに迷惑をかけるお荷物だ。
――こんなこともできないお前に価値があると思うな。
――早くいなくなってしまえ。
両親からドアに隔てられたこちらの物音が聞こえないのを確認して、私は近くのドライヤーをつかみ、雪の頭に振り下ろした。二度、三度と殴りつけたとき、ようやく雪は口をつぐむ。遅れて私の脳天に走る鈍い痛みは、頭の中で渦巻くノイズを堰き止めてくれる。
ある時は、鼻と口を少しの間だけ湯船の底に沈めた。またある時は、タオルで首を数秒だけ絞めた。あるいは爪を手の甲に強く押し付けた。しね、しね、と絶え間なく囁きながら。こんなやり方で我が身を傷つけても、肌には何の痕も残らない。それでも享受されるべき痛みは、雪を黙らせるに足るのである。
こうして私は、穏やかな眠りにつくのだった。
⭐︎
大学生になり、ひとり暮らしをするようになった。
ひとりでいるということは、良くも悪くも私の愚かさや醜さを映し出す鏡を持たないということだ。
雪の声は、少しずつ遠くなっていく。
やがて、私に彼氏ができた。
誰よりも成績優秀、コミュニケーション力も抜群、無邪気で自由で、行動力に満ちていて、自分の芯を貫き通す少年だった。そうして志す専門分野が同じで、議論も雑談もそれはよく弾んだ。
物知りな彼が語る学問の話は、いつも私を新鮮な驚きと喜びに誘ってくれる。――のちに彼の振る舞いに疲弊し、彼の声を聞くのが辛くなってからさえ、不思議と学びの話にだけは耳を傾けることができたほどだ。
私には彼が眩しく、同時に、その自由さを、芯を強く持つ生き方を、真似したいと思った。
かつての私から切っても切り離せなかった問い……
周りからどう見られているだろう。
こんな厚かましいことして恥ずかしくないのか。
でしゃばっていると思われたくない。
……そんな考えに蓋をすると、あるとき、雪の声が全く聞こえなくなっていた。少しぐらい思い切った行動をしてみても、周りの人々が私を非難することなどなかった。ひとというのは意外と優しいのだ。息がしやすくなった。私は私。生きていていいんだ。そう思った。
彼は私に、新しい生き方をくれた。私に、私の人生の舵を握る手助けをしてくれた。彼が私を生かしてくれた。ああ、私は彼と生きていくんだ――付き合って間もない頃は、心からそう思っていた。
彼は優秀だった。同時に、その優秀さを盾にして周りの声を無視し、見下していなければ、自分の心を保つことができない哀れな臆病者だった。自分の意思を通す大切さを説きながら、目の前にいる人間の意思は聞き入れない。周囲の手をいかに煩わそうとも自分の快と不快が最優先。欲しいモノは必ず手にいれる。――恋人という人形が手に入れば、それを望み通りに動かそうとする。そんな彼だった。
私は彼の期待に応えるように動かねばならなくなった。しかし彼の語る理想に、現実の私はどうしても追いつかなかった。そんな私を見るたび、彼は不服そうな顔をした。私の些細な間違いを、彼は論い嘲った。私が不安や恐れを訴えても、そんなことを気にするなんて子供のわがままみたいだ、と言って取り合わなかった。彼の言葉は、私に罪悪感を背負わせた。
私は、ひとりでいる時より、彼といる時のほうがよほど寂しいと感じるようになった。彼にとって私はなんなのだろう、彼は私の何を見ているのだろう。毎日のように、彼ほどには賢くない私を揶揄い、否定し、支配しようとする言動に、だんだんと疲れていた。
私の心はまんまと泥沼にはまっていく。
また、雪の声が聞こえ始めた。
――お前は彼を傷つけた。
――また間違えた。お前の目はどれほど歪んでいるのか。
――彼の望みにも応えられないお前など無能だ。
――彼の心を埋めることしか能のない愚か者のくせに、なんて向上心がないのか。
――彼がいなければ、お前にできることなど何もないだろう。
思い通りに行かぬ苛立ちに咆哮する彼の声が遠く聞こえる。私は何も考えられなくなって、「ごめんなさい、ごめんなさい」とただひたすら呟いた。
⭐︎
幼い頃より私の心を蝕み続けた雪は、彼の身勝手な言動に力を得て、いよいよその強さを存分に増していった。
とうとう私の身をも侵すようになった。心臓がぞわぞわと破裂せんばかりに騒ぎ、息が苦しくなる。頭から指先、つま先に至るまで、身体中から何かが飛び出しそうな感覚である。夜、彼の隣で寝床につきながら、ただひたすら、涙を滲ませ、その苦しさを押さえつけようと必死に悶えていた。
夜が更けても睡魔はやって来ず、招かれざる病魔が我が身を陣取る。声を出さぬよう気を配っているが、その息遣いが響いていたようで、彼は気だるげに「ねぇ、眠れないからそんなうるさくしないでよ」とため息をついた。
少しぐらい、私を支えてくれたっていいのに。
私は苦しんでいるのに。少しぐらい、その温かい手で私を安心させてくれてもいいのに。
――お前は、彼に何を求めている?
――お前は彼より遥かに無能だろうに、甘ったれたことを言うな。
雪の声を聞きながら、やがて、孤独な疲れが睡魔を強引に招き入れてくれる。
週の半分以上の夜、その正体不明の苦悶が、私にのしかかることとなった。
⭐︎
そんな彼と異国を旅した。
ある国から別の国での周遊を経て、夜には空港のある国へと移動しようという折、私はまた、あの息苦しさに襲われていた。彼はそんな私の様子を見て、呆れたように眉をひそめる。
「ねぇ、また? そんなふうにならないでよ。せっかくの旅行が台無しじゃないか」
「……ごめん、なさい」
「これから行くところはずっと楽しみにしていたから、そんなものでキャンセルしたくない。僕は予定通りに観光するから、君はふたり分の荷物を持って、自分で直接空港まで行ってよ。そこで合流するから」
私は、半ば絶望していた。けれども半ば、希望もあった。
彼がいなければ、雪の声が聞こえないから。
彼の言葉通り、ふたり分の荷物を持って空港へ向かった。道中、身が軽くなるのを感じた。ああ、やはり雪はいない。
高速列車を三度乗り継ぎ、七時間かけて目的地へと向かう。この乗り継ぎは、半年前の旅行で挑戦した時に失敗して、彼に「駄目じゃないか、僕がいなかったらどうするつもりだった?」と叱られたものだ。雪が後ろから、「ほら、やっぱり無能だ。彼がいなければ何もできない愚図め」と付け加えていた。
けれども今度は、要領がわかっていたから失敗しなかった。食堂車ではその地域で親しまれている料理を味わい、チップを渡す余裕もあった。空いている席を見つけて、その国の言葉で「ここ、座っても良いですか」と聞くこともできた。……そうして、何事もなく、目的地に着いたのだ。
あぁ、そっか。
私、ひとりで大丈夫なんだ。
彼がいなくても生きていける。私はちゃんと、その力を持ち合わせているんだ。
帰国して、私は「もう、終わりにしようか」と言った。
勇気が必要だった。この宣言で彼を傷つけることには、依然大きな罪悪感があった。だが、別れなかったとて、私が自刃するのが先か、彼をあやめるのが先か――どう足掻いても、一生付き合い続けるのは無理だろうと悟っていた。それが正しい選択だという自信を得たのは、この時からさらに半年ほど経ってからのことであった。
⭐︎
彼と別れて間もなく、研究室配属を迎えた。
数ヶ月のうちは、かつてないほど雪が暴れていた。彼が数日おきに「君と別れてから生きる意味がわからなくなった」とのメッセージを投げ入れるので、火の手は常にその強さを増し続けた。
――お前のせいで彼は苦しんでいる。
――お前のせいで彼が死んだらどう償うつもりだ。
――あれほど才能に満ちた彼を台無しにした。
――死ぬべきなのはお前だろうが。
――彼を捨てて生きようなど、どれほど身勝手で図々しいのか。
一人暮らしの部屋で、しね、しんでしまえ、と叫び続ける雪の声に怯え、私は毎晩、毎晩布団に籠って涙を流した。
研究室のゼミのために準備しているささやかな時間だけ、雪の声を無視することができた。けれどもそれ以外は勉強どころでなく、教科書に満ちる文字の海に目を走らせれば目眩がし、家ではあまり座ってすらいられなかった。
朝が来るのが怖い。四年目に入ろうとする大学生活で初めて、講義をサボってしまった。
……私、大学を出ても、何もできないままになりそう。
泣き疲れて空っぽになった頭で、ただ漠然と、淡々と、そう感じていた。
⭐︎
なんとか大学院入試を切り抜け、自分の研究が始まった。
彼が首席で合格したと聞いて、私は思いのほか素直に驚き祝った。
私は試験の一ヶ月前まで勉強に手をつけられなかったのに、彼もそのぐらいの時期までは「生きる意味がわからない」なんて嘆いていたはずなのに。その後気分転換の旅行まで楽しんでおいて首席とは。やはり天災的な天才は違うな。……この頃には、そう皮肉げに、しかし冷静に笑えるくらいには立ち直っていた。
……彼にはさっさと次のひとを見つけて、さっさと私を忘れてほしいね。
私は誰にともなく、淡々とそう呟いた。
研究室は、私にとって最高の居場所となった。学生同士はあまり干渉しあわず、けれども互いを尊重しあう、良い意味でひとに無関心な仲間の集まり。ひとりで居る心細さも、誰かと居る煩わしさもなく、心地よい温度で学びに打ち込むことができるのだ。
そんな環境にぬくぬくと甘えながらも、初めて成果を晴れて論文として発表できた頃、ふと気づいた。
雪の罵声を、もう長らく聞いていない。
彼女の気配すら、ほとんど感じられなくなっていたのだ。
言葉のナイフ。物理的な鈍器。もう、そんな凶器を手にして私を脅かす者などない。
時折、昔の私の失態失言を上演しては「しーね、しーね!」と嘲り囃し立てるが、遠巻きに聞こえるケラケラとした笑い声など、かつての彼女から考えればなんと可愛いことか。
あの絶え間なく続く重苦しい罵詈雑言に比べれば……よほど。
ああ、彼女はもう居ない。そう感じた。十年来、そばに居て当然だった彼女の空間がぽっかりと空いて、なんだか気が抜けたような心地だ。
稀に、雪の遺した症状が呼び出されて寝込むことが今もある。疲れている時や、悔しいことがあった日には特に。……それもまたご愛嬌とばかり受け流し、体調のアラート程度に受け取って前に進むのである。
⭐︎
雪は私だ。鏡の向こうから私のことを睨みつける、私自身だ。
ほんの少し前までの私にとっては、居るのが当たり前の存在だった。そういう声の聞こえぬ人々が多数派なのだと、どうやっても信じられなかった。それがいまでは、彼女のことを全く理解できない。なんであんな酷いことを言われ続けていたのだろう。どうしてそれを大人しく聞き入れていたのだろう。全く別の人間の、どこか遠くのお伽話に思える。憑き物が落ちたようだ、とはまさにこのことを言うのかもしれない。
また雪が戻ってくるかもしれない。そう思うと、もうパートナーを見つけようとは思われない。子供もいらない。自分をいじめてきた雪が、自分の分身たる我が子に何をしでかすかわからないから。……結局、まだ彼女の影響を受けてしまっている、とも言えるかもしれぬ。それでもいいや、気ままに独身貴族を謳歌しよう、と思えるくらい、私は生来ひとりが好きで、マイペースだし楽天的なのだ。
あの子は私だ。あの子の気配が感じられなくても、声が聞こえなくても、付かず離れずの距離で共に生きることは、多分避けられないのだろう。
けれども、もうあの子の声に惑わされることなどない。
断言する。私とて、あの子のことはよくわかっている。およそ十年の付き合いは、そんな浅いものではない。周りの助けに恵まれ自分の足で立ち上がったいまの私なら、あの子とうまく付き合える。もう、あの子の好きにはさせぬ。
私の人生の舵は、いつでも私の手にあるのだから。
病んでた時期の自分をモデルに小説書いてみたいなと思って、でも書いたことないからまずは習作として手記を綴ってみました。
当時の自分の思考回路と行動が理不尽すぎて、今の私には笑ってしまうぐらい理解できないのです。二重人格とかではなかったはずなのですが、別人だろうってぐらい他人事に感じます。本当に声が聞こえてたわけじゃなくて(つまり幻聴とか幻覚とかそういうのではない)、実際は全部私自身の思考なのだけど、いまの私と同一人物とは思えない、みたいな。で、いまの私は幼少期と似ていて、こっちが本当の私なのではないかなぁと。
そこで今回は別人格……というかイマジナリーフレンド?いやフレネミー?そもそもフレンドを装ってすらないからイマジナリーエネミー??である「雪」を仕立て上げてみました (スノウドロップの花言葉には「あなたの死を望む」があるそうです)。なんだかそれが一番しっくり来ます。
"雪"が健在だった頃は、それを誰かに知られるのを恥だと思っていました。少しでも誰かに気づかれたとあれば、幻滅される、失望される、と"雪"が暴れだすのです。加えて、誰かに心配かけると余計に罪悪感で潰されそうになるので、心配性の家族にすら言わないほうが楽でした。こうしてほぼ誰にも明かせず、つい最近まで矯正される機会を得ないまま、勤勉で天真爛漫な少女を演じ続けていました。小説にするなんてもってのほか!! いまでは他人事だからこそ、こうして形にできた次第です。
いまも、”雪”が完全に消えたわけではありません。けれどもまぁ、彼女の完璧主義や競争心、(半ば強迫的な)向上心は、なだめすかして上手い塩梅で利用すれば、良い仕事ができるので良いかなと。彼女の声を頑張って無視するのではなくて、楽観的な自分を見失わないようにしつつ彼女と共生する方針です。それが最適解だと思っています。
最後に、希死念慮に苛まれる人たちへ。生きる権利があるのと同様、死を選ぶ権利もあって然るべき……という言葉、確かにそれはそうかもしれないが、"雪"に死を"選ばされている"ようでは、それは権利とは言えないと、いまの私は思うのです。甘美な死後の世界に惹かれてもいい、けれどもそれは本当に素面の自由意志なのでしょうか。少しでも異なっているなら、あなたにその結末はもったいないと感じます。