「きゅう、きゅう」
そんな《地》神を支えるのが、おなじ大地神であり、彼にとっては従神にあたる《火》神だった。
《火》神は誕生時より炎の結晶のような美しい鱗を持つ翼竜の姿で、ヒトの姿――人化を遂げている「竜の五神」たちとは異なり、まだ一度も人化に変じたことはない。
平素の《火》神は、《地》神の肩に乗って「きゅう」と鳴きながら甘えるしぐさを見せるほど小さく、傍らに侍っていることが多い。
一方で、「竜の五神」のなかでは唯一身体の大きさを変じさせることができ、《地》神が大陸創成時に必要とする膨大なエネルギーを放出させるときは、山のように大きく変じて、激しい火炎を咆哮する一面も持ち合わせている。
――もとより、竜族の本性は竜化。
――さらに厳密に言えば、竜族とは世界の自然そのもの。
人化も、竜化も。いわば可視化のようなものなので、それが一方だけという姿に疑問を持つ一族はいない。
反対に、《地》神が「竜の五神」の末席に誕生したとき、彼は最初から人化の姿だった。いまにいたるまで竜化に変ずることはほとんどなく、不都合も違和感も覚えたことはただの一度もない。
なので《火》神は永遠恒久翼竜の姿のまま、自分もよほどのことがなければ竜化することもなく、このままを過ごすのだろう。
――自分たちにとって姿とは、そのていどの感覚だ。
ただ、《地》神にとって《火》神の存在は大変重要で、戦争で大敗北し、そのたびに身体が崩壊する傷を癒し、再生を可能とするのが《火》神だけなので、そういった意味では《地》神は《火》神が傍らにいなければ何もできない。
その《火》神が、
「きゅう、きゅう」
と鳴いて、両の腕を失い、負傷した《地》神の服を咥えて引っぱり、パタパタと翼を動かしながら連れてきたのがここ。
《地》神がいま湯に浸かっている露天の泉源――温泉だった。
耳に聞こえる言葉は、この鳴き声だけ。彼は人化のようには話せない。
けれども、おなじ竜族。「きゅう」と鳴けば意思の疎通はできるので、
「……ええと、この湯に入ればいいのですか?」
「きゅう」
目の前で活発に蒸気を噴出させる噴気地帯に最初は目を丸めたが、言われたとおりに湯に浸かってみると、一瞬だけ全身に負った傷に酷くひびいたが、あとは不思議と心地がよかった。
《地》神は傷が癒されるような実感と、おなじように心がほんわりと癒されるような実感を覚えて、ここに身を浸すことがすっかり気に入ってしまった。
――本来なら、敗北したことを大いに反省しなければならないのに……。
こうして湯に浸かってしまうと不思議と心が軽くなって、普段であれば際限なく沈鬱になるというのに、つぎこそは、と奇妙な前向きに物事を捉えようとする自分がいて困惑してしまう。
――まともに大陸も創成できぬ「できそこない」のくせに……。
湯の心地よさに浮かれることだけは一端だなんて、何て情けないんだ。
そう思って自身を戒めたいのに、ここにいるとそれさえも緩和してしまう。何て不思議な湯なのだろうか。
「――ねぇ、《火》神。この湯の効能には、精神の楽天的作用もあるのでしょうか?」
つい尋ねてしまうと、そばの岩肌で腹ばいに寝そべっていた《火》神が顔を上げて、ひと声、
「きゅう」
やや困惑したように、長い首のその先をかしげただけ。
彼は何となくこの湯場に《地》神を連れてきただけなので、詳しい効能を知って湯浴みをすすめたわけではない。
それでも主神に物を問われたのだから、彼が納得できるように答えなければ……と、《火》神はがんばって「きゅう、きゅう」と鳴くが、理性知性が優先的に働く人化とは異なり、竜化は本性の感覚が強いため、知識も言葉も答えに見合うものが上手く浮かばない。
「ああ、大丈夫ですよ。ただ気になっただけで、どうしても知りたいというわけではないんです」
「きゅう、きゅう」
そんな《火》神の懸命な姿を見ていると、自分よりも年上のはずなのに、小さな竜の姿をしているせいか幼竜にも見えてしまって、何だかおかしくて、可愛らしくてたまらなくなる。
《地》神はつい、苦笑してしまう。
「そんなに気にしないでください。ただ、いつもと思考が……かなり異なっているので、不思議だなぁって思えただけなんです」
「きゅう」
「ええ? たまにはいい? だめですよ、そんな浮かれ調子では」
――自分はまだ、何も成していないのだから。
そういう気分が許されるのは、せめて……小さくてもいいから、自分たちが住むのに必要な大陸ではなく、世界創世期に力を注ぐ竜族の本懐である、数多の生命が誕生し、それらが幸福に満ち溢れた大陸を創成してからだと思う。
――それを成すまでは、自身に喜びを与えてはならない。
幼いころから、そう思って歯を食いしばってきた。
いつしかそれが自身を戒めの鎖で繋ぐことになり、とことん卑屈に捉えるようになってしまった。
この唯一困難の性格だけは、さすがの《火》神も手の打ちようがない。
そのように思わないでほしいと、「きゅう、きゅう」と鳴くしかなく、《地》神もわかっているからこそ苦く笑うしかなくて、口端をそうやってつり上げてしまう。
――いつもであれば……。
大丈夫です、ごめんなさい、と言って手を伸ばし、《火》神の頭を優しく撫でて、その小さな身体を抱きしめてやるのだが、何せいまは両の腕がない。
これでは自分を気づかってくれる彼を、労うこともできやしない。
反射的に手を伸ばそうとして動いた肩を見やって、何とも言えず口端が歪み、情けないな、と心中でつぶやく。
――そして……。
こういうときに、ふと、思うことがある。
もし《火》神が人化をしていて、あまりにも情けない自身を自嘲するしかない自分を見ていたら、何て言葉をかけるのだろうか、と。
気にするな、と優しく声をかけてくれるのだろうか。
それとも、いつまでもそのようなことばかり、と叱咤するのだろうか。
《地》神は、じっ、と《火》神を見やる。
――そうやって《火》神を思う自分はいま、どんな言葉がほしいのだろうか。
欲しいのは激励か、叱咤か。
それとももたれかかることができる、甘え、か。
「ねぇ、《火》神……」
何かを口にしようとして、《地》神は口を閉ざして頭を振る。
――だめだ、だめだ。
自分は大地主神なのだから、大地にあるすべてを慈愛で包みこまなくてはならないのに、その自分が自身の心根の弱さを理由に、誰かに寄りかかりたいだなんて。
「きゅう」
「ううん、何でもないです」
そんなときだった。
先ほどから、何かが目もとに貼りつくな、と思っていた違和感が濡れた前髪だとわかり、《地》神はそれをどうにか払おうと肩に顔を擦りつけるが、上手くいかない。
せめて片方の手だけでも残っていれば、このようなしぐさは容易いのに。
何度かやってみても払えぬそれに呆れたため息が漏れたとき、自分のしぐさを見て理解したのか、岩肌にいた《火》神が肩に乗って、長い首と面長の鼻先を使って器用に前髪を避けてくれた。
《地》神はわずかに目を丸くして、まばたく。
彼の優しさが嬉しく、鼻先に触れたところが妙にくすぐったい。
「おや、ありがとうございます。あなたは器用ですね」
「きゅう」
褒めると、満足げな顔をした――ようにも見えた――《火》神がそのまま頬に顔を擦りつけ、「きゅう、きゅう」と鳴いて甘えてくる。
「あはは、ご褒美に頭を撫でてほしいのですか?」
「きゅう」
「腕が再生したら、嫌っていうほど撫でてあげますよ」
「きゅう、きゅう」
「ええ、約束します」
――そう、《火》神はこれでいいのだ。
彼はこの姿でも充分に優しく、温かい。
言葉も意思も、こんなにも通じ合えるというのに、自分は他に何を望むというのだろうか。