もののけ沼の殺人鬼
「ねぇ、聞いた? 今朝、刃物を持った不審者を見かけた人がいるらしいわよ」
「やだ、物騒ねぇ」
外にいると汗が噴き出してくるような、暑い夏の日。
道ばたの木陰で、近所に住む主婦が立ち話をしている。その声が偶然耳に入ってきたセナは、少し顔をしかめて、隣を歩いているツインテールの友だちに話しかけた。
「カオリちゃん、刃物だって。何だか怖いね」
「大丈夫だよ。それ、朝のお話でしょう? もうお昼だもん」
怖がるセナに対して、カオリは平気そうだった。落ちている小石をピンク色の運動靴で蹴飛ばしながら、スキップでもするように歩いている。
「そんなことより、今日はかくれんぼしようか?」
カオリは不審者のことなんて本当にどうでもいいらしく、ウキウキした表情で尋ねてくる。
セナとカオリは、仲良しの女子小学生コンビだった。今日に限らず、毎日のようにこうして一緒に遊んでいる。
「かくれんぼ……いいね」
カオリちゃんは勇気があるんだな、と感心していたセナも、目の前の楽しい話題に釣られるように、顔をほころばせた。
「じゃあ、もののけ沼のある林まで競争しよう! 負けた方が最初の鬼ね!」
ショートヘアーを揺らして、セナは駆け出す。「待ってー!」と、後ろからカオリもついてきた。
「はい! 私の勝ち!」
しばらくしてセナが辿り着いたのは、町外れにある竹林だった。肩で息をしながら後ろを振り向くと、ゼーゼー言いながら、カオリが追いついてきた。
「セナちゃん、やっぱり足、早いよ……」
カオリは額の汗を手のひらで拭いながら、その場にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、初めの鬼はあたしだね。十数えるから、隠れて!」
息を整えたカオリは、手のひらで目隠しをして、「いーち、にー」と数を数え始めた。
セナは、慌ててそこを離れる。
(どこに行こうかな……?)
竹林の中は日光が遮られているので案外涼しく、汗も少し引いてくる。それだけではなく、背の高い竹が一面に生えているためか、どこか守られているような安心感も覚えるので、セナはここが好きだった。
(うーん……やっぱり秘密基地かな?)
遠くの方に建物の影が見えたセナは、そちらへと足を進めた。
この竹林の中には、『もののけ沼』という沼があった。秘密基地というのは、その近くに建っているお社のことだ。古びた建物だったが、セナはカオリと一緒にここを掃除して、自分たちの秘密基地にしていたのである。
セナは、濁った水をいっぱいに湛えたもののけ沼の横を通り過ぎ、掠れて字の読めなくなった石碑の脇を抜けて、お社に辿り着く。そのまま、中に上がるための小さな階段に足を掛けた。
だが、室内で何かが動く気配がすることに気が付き、セナは足を止める。ぐちゃり、ぐちゃりという、湿った音と、低い呟き声も聞こえてきた。
変な匂いが鼻先をくすぐった気がして、不可解に思ったセナは、そっと中の様子をうかがった。
「何で……何でなんだよぅ……」
そこに広がっていた光景に、セナは息が止まりそうになった。
セナとカオリが虫を追い払ったり、段ボールで作ったテーブルを設置したりして一生懸命に綺麗にした室内。その部屋の中で、一人の男が女性の上に馬乗りになっている。
「あっち行って、なんて言って……。もう関わらないで、なんて言って……!」
まだ若い男性だ。その手には包丁が握られている。彼はそれで、女の体を刺していた。
刃物が振り下ろされる度に血が飛び散って、男の体が真っ赤に染まる。女性の方は、人形のようにピクリとも動いていない。その傍らには、レンズにクモの巣状にヒビが入った眼鏡が落ちていた。
「好きだったのに! 誰よりも大切だったのに! 君だってそう言ってたじゃないか! なのに、何で……!」
男が不意に顔を上げた。血走った目と視線が合って、セナはけたたましい悲鳴を上げる。
「待てっ!」
踵を返してその場を離れようとしたセナの背後から、声がする。振り返ると、男が包丁を片手に追いかけてくるところだった。
その返り血まみれの異様な容貌に、セナは戦慄した。
「助けて、誰かっ! 誰かぁ!」
セナは泣きじゃくりながら走った。床に横たわり、動かなくなった女性の姿が、頭の中に浮かび上がってくる。この男に捕まったら、自分もあんなふうに殺されてしまうに違いなかった。
「お願い、助けて!」
セナは叫びながら竹林の中を駆け抜ける。足がもつれそうになったが、止まるわけにはいかなかった。
だが、追いかけてくるのは大人の男性である。二人の距離はどんどん縮まっていった。セナは、浅い呼吸を繰り返しながら周りに目をやる。ふと、傍に大きな岩が転がっているのが目に入った。
セナは、とっさにその後ろに身を隠す。
「お嬢ちゃーん? どこ行ったのかなー?」
男の猫なで声が近くから聞こえてきたのは、そのすぐ後だった。
「鬼ごっこ……それとも、かくれんぼかい? 俺と遊びたいのかなー?」
心臓が耳元でうるさく鳴っている。物音を立てればおしまいだと分かっているのに、大声を上げて、この恐怖を紛らわせたくてたまらなかった。
「ここかな?」
男の声が至近距離から響いてきて、セナは凍り付いた。
だが彼は、岩の隣にあった草藪を覗いただけだった。それでも、血まみれの顔が一瞬見えて、セナは膝が震えた。
「隠れるのが上手いねぇ」
男は狂気を孕んだ明るい声を出しながら、セナが隠れている岩の真横を通り過ぎた。
「でも、すぐに見つけてあげるからね。それで、彼女と同じところへ送ってあげるよ。あの人も、一人じゃ寂しいだろうからねぇ」
男の声が遠ざかる。セナは止めていた息を大きく吐き出し、体の力を抜いた。だが、いつまでも脱力しているわけにはいかない。
(早く逃げないと……)
またあの男が戻ってくる前に、ここから脱出しないといけない。セナは、そっと足を動かそうとした。
その時だった。誰かが手のひらで、セナの口を塞いだのは。
「……!」
セナは頭が真っ白になった。そして、死に物狂いで抵抗しようとする。一瞬、あの殺人鬼が戻ってきたのかと思ったのだ。
「静かに」
だが、耳元で囁かれた声は、先ほどの男の不気味な猫なで声ではなかった。セナは、自分の体を後ろから抱きかかえるようにして密着してくる相手に、怖々と視線を向ける。
二十歳くらいの男の人だ。まるで作り物みたいな美貌の持ち主である。服装は黒の着流しで、長い髪は後ろで結んであった。どことなく浮世離れした容姿だ。
セナが釘付けとなったのは、彼の目だった。まるで、こちらを見守るような眼差しをしていたのである。その優しげな光に、セナは恐怖が和らぐのを感じた。
軽く頷いてみせると、青年がセナの口から手を離す。
「怪我はないか、セナ」
青年が尋ねてくる。どうして私の名前を知ってるんだろうと思いつつ、セナは「うん」と返事した。
「よし、それならいい。ここから逃げるぞ。歩けるか?」
青年は、辺りをうかがうようにゆっくりとした動作で立ち上がって、セナに手を伸ばした。セナはそれを取ろうとするが、あることを思い出して真っ青になった。
「カオリちゃ……!」
セナが大声を出しかけると、青年がまたしても口を塞いできた。
「刃物男が戻ってくるぞ」
青年が人差し指を自分の唇に当てて、静かにするように促した。セナは慌てて声を落とす。
「カオリちゃん……と、友だちが……!」
「カオリがどうした」
青年は、まるでカオリと顔見知りであるかのような反応を見せた。だが、そんなことにセナは気が付かない。
「一緒にここに来てるの! カ、カオリちゃんが鬼で、かくれんぼしてて……。でもカオリちゃんは、あいつのこと知らないから……!」
「放っておくと危ないな」
青年は眉をひそめた。
「来なさい、セナ。カオリを探して、安全なところへ行くんだ」
「う、うん」
セナは、青年が伸ばしてきた手を取る。しっとりと湿っていて温かい、不思議な感触のする手だった。
「お兄さん、名前は?」
「……アヤメだ。さあ、行くぞ」
(アヤメ……確かそんなお花、あったよね)
女の人みたいな名前だ、とセナは思ったけれど、この青年にはそれが似合っている気がした。
アヤメは、セナの手をつかんで歩き出す。セナの心臓の鼓動は、すっかり静まっていた。
殺人鬼に追われているという絶望的な状況なのに、次第に気分が落ち着いてくるのが分かり、セナは不思議な心地になる。
「アヤメさん、カオリちゃんのいるところ、分かるの?」
アヤメが自信満々に歩いているものだから、セナは思わず尋ねた。
「いや、まったく」
しかし、アヤメは首を横に振る。
「だが、検討くらいならつく。かくれんぼをしていたのなら、カオリは、お前が隠れそうなところを探すはずだろう? この竹林の中で人が身を潜められるのは、クマのお家とか、大落とし穴とか、秘密基地とか……」
セナは何だか変な気分になった。
『クマのお家』や、『大落とし穴』は、この竹林の中にある洞穴や窪地に、セナとカオリが勝手につけた名前である。他には誰にも話していないのに、どうしてこの青年は、そんなものを知っているのだろう。
しかし、そんな疑問を口にする前に、大きな悲鳴が聞こえてきた。カオリのものだ。
「青い小道の方だ!」
アヤメが叫び、セナの手を強く引いて駆け出す。せっかく静まっていた心臓が再びバクバクと音を立てるのを感じながら、セナも懸命についていった。
生い茂る草藪の間を抜けると、青い小道に辿り着く。
青く小さな花がたくさん咲いていることからセナがその名前をつけた坂道で、カオリは殺人鬼に追い詰められていた。
「カオリちゃん!」
カオリは、地面に大の字になっている。ツインテールがほどけ、靴は片方なくなっていた。そんな少女に、殺人鬼は、今まさに包丁を突き立てようとしているところだった。
セナの声に、殺人鬼は凶行に及ぼうとしていた手を止め、我に返ったようにこちらを向いた。
「カオリを離せ!」
アヤメは男の刃物にもまったく動じずに飛び出すと、殺人鬼に体当たりを食らわせた。油断していた殺人鬼は、そのまま急な坂道を転がっていく。セナはカオリに駆け寄った。
「カオリちゃん! カオリちゃん!」
セナはひざまずき、カオリの肩を揺さぶった。だが、反応がない。セナは背筋が冷たくなるのを感じた。
「カ、カオリちゃん、死……」
「落ち着け。まだ脈がある」
呆然とするセナに対し、アヤメがカオリの手首に指を当てながら冷静に呟く。
「気を失っただけだ。大した怪我もないようだし、心配するな」
アヤメがカオリを背負い上げる。
「そんなことより、行くぞ」
まだ、近くに殺人鬼がいるのだ。カオリが生きていたという事実に胸をなで下ろしつつも、セナは急いで立ち上がった。
「ここを出たら、真っ直ぐに警察のところへ行きなさい」
早歩きしながら、アヤメが話しかけてくる。
「そこで保護してもらうんだ。いいな?」
セナは時々後ろを振り返りながら、落ち着かない気持ちで「分かった」と言った。
「アヤメさんも来てくれるよね? 私、一人じゃ怖い……」
「……いや、私には、まだやることがある」
セナはアヤメと離れたくなかったのだが、彼は静かに首を振った。
「あの娘を助けなければ。ここでこれ以上、殺人を起こすわけには……」
「あの娘?」
「コトネだ。社にいただろう。時々、この竹林に清掃ボランティアで来る女子大生だ。もっと私が早く異変に気付いていればよかったんだが……」
「あの人……生きてたの?」
セナは目を見開いた。
「私、てっきり死んじゃったのかと……」
「死んでない。人間というのは、案外しぶといからな」
まるで他人事のような言い方だった。自分は人間じゃないとでも言いたげに聞こえてくる。
「それにしても……お前たちもコトネも、怖くないのか? ここにはもののけ沼があるんだぞ」
「怖い? 何で?」
セナが後ろを振り返りながら尋ねる。あの男が追ってくる気配は、今のところはなかった。
「何で、と言われてもな……」
アヤメは困ったように唸った。
「怖いだろう、普通。『もののけ』なんて名前がついているんだから」
「何なの? 『もののけ』って」
あの沼が『もののけ沼』と呼ばれていたことは前から知っていたが、その意味なんて、セナは気にしたこともなかった。
「まあ、現代風に言えば『お化け』だな」
アヤメが解説する。
「あの沼の底には、もののけが封じられているんだ。怖いお化けだぞ。沼の横に設置されている石碑に、そう書いてあるだろう」
「あんなの、古くなって読めないよ」
セナは口を尖らせる。もう後ろを振り返る気にはならなかった。やはり、何故かアヤメといると安心するのだ。
「それに、お化けなんて怖くないよ。本当にいるのかも分かんないし」
「刃物を持った男は恐れるのに、もののけは怖くないのか。……現代人の価値観はよく分からないな」
アヤメは困惑しているようだった。『これだから最近の若い奴は』とか言い出す老人みたいだ。まだ若い人なのに、とセナは首を傾げる。
「アヤメさんは、こんなところで何やってたの?」
ふと気になって、セナが尋ねる。
セナはカオリとよくここに来るが、清掃ボランティア以外で、この竹林で、他の人と鉢合わせた試しなんかなかった。もしかして、彼もその一員なのだろうか。けれど、着流し姿では、清掃活動は難しそうだ。
「特に何も」
アヤメはカオリをしっかりと背負い直しながら、肩を竦めた。
「ずっとここにいるだけだ。たまに沼にゴミをポイ捨てしてくる不届き者がいるから、掃除くらいならしているが」
やっぱりボランティアの人だったのかな、とセナは思った。だから、あのコトネという女の人とも知り合いだったのだろう。
「まったく……あの沼はくずかごじゃないんだぞ。しかも食べ終わったファーストフードのゴミなんか置いていって……。どうせなら、中身も入れておけというんだ。私だって、ハンバーガーくらい食べてみたいのに……」
ハンバーガー、食べたことないんだ、とセナは驚いてしまった。やっぱり変な人だ。
アヤメの独り言が終わる頃に、視界が明るくなって、セナたちは外に出た。ギラギラした太陽が顔を覗かせ、セナは思わず目を細める。
「アヤメさん! 外に出られたよ!」
セナが笑顔になると、アヤメが「もう大丈夫だな」とショートヘアーを撫でてきた。
「さあ、行きなさい、セナ」
背中のカオリを下ろしてセナに渡すと、アヤメはその場から立ち去ろうとした。
「ど、どこ行くの!?」
セナがぎょっとして尋ねると、「コトネのところだ」とアヤメが返す。
「言っただろう。彼女を助けないと」
セナが止める間もなく、アヤメは瞬く間に竹林の中へ消えていった。
動かないカオリの体を抱きしめたまま、セナは呆然とする。アヤメと別れて、急に恐怖が戻ってきたみたいだった。
「どうしよう……」
額から汗が流れ落ち、心臓が大きな音を立てて鼓動するのをセナは聞いていた。
あの男の人は包丁を持ってるのに。もう、一人刺してしまったのに。それで、自分やカオリのことも殺そうとしたのに。
そんな人に、アヤメはたった一人で立ち向かおうとしているのだ。確かに英雄的な行為だが、無謀だと言わざるを得ない。もし逆上した男に、アヤメが殺されてしまったら……!
「おや、セナちゃんじゃないか。どうしたんだい?」
声を掛けられたセナが目を向けると、近くに、セナの家の向かいに住んでいるおじいさんが立っていた。
セナは、とっさに覚悟を決めた。カオリをおじいさんの腕に押しつけると、大声で叫ぶ。
「警察を呼んでください! 竹林の中に、刃物を持った男がいるんです! 刺された人もいます!」
セナは身を翻して、竹林の中へ戻った。後ろからおじいさんの声が聞こえるが、耳に入らない。
今のセナは、アヤメのことだけを考えていた。とにかく彼を助けなければ。自分が行ったって、何もできないかもしれないが、それでも、じっとしていると恐怖に押しつぶされてしまいそうだった。
何故会ったばかりの彼に、こんなにも心を砕いているのかセナには分からなかった。
いや、本当に会ったばかりなのだろうか。何となく、彼とは初対面のような気がしなかった。一緒にいるときのあの守られているような感覚。どこかで感じたことがあったかもしれない。
しかし、アヤメの安否で頭がいっぱいだったために、それ以上は深く考える余裕などなかった。セナは、小さな足を精一杯に動かしながら、竹林を疾走する。
やがて、セナはお社についた。アヤメもそこにいる。だが、刃物男も一緒だった。
もののけ沼の近くで、二人は向き合っている。坂道から落ちていった男は全身土まみれで、それが汗と混じって顔が泥だらけになっていた。
男の目は異様な光り方していて、ほとんど正気を失いかけているようだった。それでも、包丁握る手つきはしっかりとしていて、視線は真っ直ぐにアヤメに向けられている。
「もう俺は終わりだ……。終わりなんだよ……!」
男はブツブツと呟いていた。
「何もかもおしまいだ! もうこうなったら、一人殺したって二人殺したって同じだ! だから……あんたも、あの二人の子どもも、皆殺してやる! 俺の一番大切だったあの人と一緒に、あの世へ送ってやる……!」
「落ち着け、若いの」
アヤメは、自暴自棄になっている男を優しい声でなだめようとしていた。
「大丈夫だ。まだ誰も死んでいない。これ以上罪を重ねようとするな」
「慰めの言葉なんかかけるな!」
男が刃物を振り回した。
「俺の気持ちなんか分からないくせに!」
男がアヤメに向かって突進してくる。セナはアヤメを突き飛ばそうと、手を伸ばした。
だが、間に合わない。アヤメの体に、深々と包丁が突き刺さる。
「アヤメさん!」
セナは絶叫した。アヤメの体から包丁を抜いた男がこちらを見て、ケタケタと笑う。アヤメは地面に崩れ落ちた。
「おや、お嬢ちゃん。ダメだろう。かくれんぼなのに、出てきたら」
男が刃物を振り上げた。
「悪い子は、お仕置きしないとな!」
逃げようとしたが遅かった。飛び散った血が、セナの頬を濡らす。二の腕に小さな切り傷ができていた。
セナは傷ついた腕を強く握りしめた。傷は大して深くはない。だが、強い殺意を向けられた結果負傷したセナは、恐怖のあまり地べたに倒れた。
「おっと、失敗か」
男は、刃物片手に笑っている。
「動かないでくれよ。綺麗にすっぱりと切れないじゃないか」
「い、いや……」
セナは立ち上がることもできずに、にじり寄ってくる男から、這うようにして必死に逃げた。頭が真っ白になって、ろくに声も出ない。怪我した二の腕が、火であぶられたように痛んだ。
「やめて……」
「君を三人目にしてやるよ!」
男が飛びかかってこようとした。そこに、冷たい声が降ってくる。
「一人や二人殺したくらいで図に乗るなよ、下郎め」
倒れていたはずのアヤメが、いつの間にか立ち上がっていた。顔にかかった髪を、そっと横に払いのけている。
アヤメは男を睨んでいた。セナは、嫌な汗が噴き出すのを感じる。目の前にいるのが、いつものアヤメではないような気がしたのだ。まるで能面をつけているように表情がなく、目が冷たく光っているからだろうか。
アヤメがこちらへと近寄ってくる。セナは、奇妙なことに気が付いた。破れた服の隙間から覗くアヤメの白い肌。そのどこにも、刺されたときの傷跡が見当たらなかったのだ。
「ど、どうして……」
男も同じことを考えていたのか、口をパクパクさせている。アヤメは男が手にしている包丁を見て、あざ笑うような声を出した。
「そんなもので私に傷をつけられると思うのか。浅はかな奴め」
アヤメはゆっくりと目を閉じた。
「この沼には、その昔、何十人も人を殺した罪で、僧侶に封印されたもののけが沈められていた」
アヤメの顔が、ゆっくりと変わっていく。口が横に裂け、額からは長い角が生えてきた。
「そのもののけは、『アヤメ』と呼ばれていた。殺人を犯したから、『殺め』だ。これほどぴったりな名前もなかっただろうよ」
ギョロリとした目を見開いた彼は、すでに美貌の青年の容姿の面影がまったくなくなっていた。
三つに割れた口から杭のように鋭い牙が伸び、顔の筋肉が蠕動するように奇妙に蠢いている。体中に浮かび上がる大小の血管は、おぞましいほどの速度でドクドクと脈打っていた。
そこに立っていたのは、まさに、もののけと呼ぶしかない化け物だった。これがアヤメの本当の姿なのだと、セナは直感する。
「ひ、ひぃっ……!」
男は地面にへたり込んだ。あまりの恐怖に、立っていられなくなったのだろう。
セナも、もう少しで悲鳴を上げるところだった。だが、辛うじてそれを思いとどまる。
どんなに化け物のような外見でも、その中身はアヤメに変わりはしないのだ。怖がったりなんかしたら、きっと彼が悲しむだろうと、必死で平気な顔をしてみせた。
「もしそのもののけが、長い時を経て、沼の底から出られるようになっていたとしたらどうする?」
背後の沼で、何かが動いた。見れば、水面が沸騰しているかのように泡立っている。
「封印された際、『次にこの沼の近くで人殺しがあったら、お前の存在は消えてしまうだろう』と言われていたとしたら?」
水面から、何かが上がってきた。影のように真っ黒な人型だ。それも、一つや二つではない。恐ろしいほどの数が、次々と沼の底から這い出てきていた。
「それでも……どうしても許せない相手がいたとしたら?」
人型は、刃物男の体に絡みついた。男は引きつった声を出しながら、包丁をめちゃくちゃに振るったが、人型にはまるで効いていない。その内に、包丁は彼の手を離れ、遠くへと飛んでいった。
「嫌だ、助けてくれえ!」
人型は、男を沼に引きずり込もうとしていた。男は暴れたが、人型は意に介した様子もない。辺りに沼の汚い水が飛び散っていく。
その内に人型の頭部が割れ、口が出現した。それは人間のものだったが、真っ黒な影に突然そんなものが浮かび上がってくる様は、薄気味悪いと言う他なかった。
『お前、同類』
『仲良く、しよう。俺たち、下衆の集まりさ。生きてる価値なし』
人型は、歌うように囁いた。男の体は、すでに太ももの辺りまで沼に浸かっている。
「そう、お前みたいな利己的な輩は、『生きてる価値なし』だ」
アヤメが吐き捨てた。
手足をがっちりと捕まれた男は、もうろくな抵抗もできないでいた。涙を流しながら、ガタガタと震えている。そのぐっしょりと濡れた目と、セナの視線が交わった。
「た、助け……」
男が掠れた声を出す。呆気にとられながら起こったことを見ていたセナは、我に返った。
「捕まって!」
セナは男の方に手を伸ばし、こちらへと引っ張り上げようとした。それを見たアヤメが瞠目する。
「セナ! 何をしているんだ!」
「この人を助けるの!」
強い力で腕をつかんでくる男に、逆に自分が引きずり込まれそうになりながらも、セナは踏ん張った。
「何を考えてるんだ! この男は、セナを殺そうとしたんだぞ!」
「分かってるよ!」
セナは顔を真っ赤にしながら、腕に力を込める。
「確かに許せないよ! でも、助けてって言ってるんだよ!? それなのに、見捨てられないじゃん!」
セナの言葉に、刃物男が目を見開いた。
「それに、ここでこの人が死んじゃったら、アヤメさんが消えちゃうんでしょ!? 私、そんなの嫌だよ!」
「セナ、私はもののけだぞ!? お化けだ、化け物なんだ! それなのに、どうして……」
「そんなの分かんないよ! でも、とにかくアヤメさんがいなくなるのは嫌なの!」
セナは必死の思いで叫んだ。人型の力が強すぎる。このままでは、男を助けるどころか、自分まで沼の底に沈んでしまいそうだ。
「セナ……それでも、私は……」
アヤメが膝をついた。どうすればいいのか迷っているのだろう。セナは、「アヤメさん!」と呼びかけた。
「私、今なら分かるよ。何でアヤメさんが、私たちのこと、前から知ってるみたいに振る舞ってたのか。アヤメさん、ずっとどこかで見てたんでしょ? この竹林に来る人を。でも出てこようとしなかったのは……自分がもののけだってこと、気にしてたからなんじゃないの?」
セナがアヤメを前から知っているような気がしたのは、気のせいなんかじゃなかった。きっと彼は、この竹林で遊ぶ自分の姿を、どこかからひっそりと見ていたに違いない。セナはそれを、無意識の内に感じ取っていたのだ。
この竹林にいるときにいつも味わっていた、守られているような感覚。それは、アヤメが自分を見守ってくれていたという、何よりの証拠だった。
ズルズルと、体が引きずり込まれていく。沼の縁が近い。すでに男の体も、へその辺りまで浸かっている。
「ねえ、アヤメさん。これからは自分の正体なんか気にしないで、私たちと一緒にお話ししたりしようよ。……そうだ。今度一緒にハンバーガーも食べよう! 私、持ってきてあげるから! ね、だから……」
それ以上は言葉を続けられなかった。足にどろりとしたものが当たる感触がする。セナはいつの間にか、沼に浸かりかけていた。
『お前も、同胞?』
人型が首を傾げる。こちらに手を伸ばしかけた。アヤメがハッとした顔で、セナを後ろから抱きしめる。
「やめ……」
「その子は関係ない!」
アヤメは人型を制止しようとした。だが、先に大声を出したのは男の方だった。
それまでセナの腕を痛いほどつかんでいた手のひらが、離れていく。
「ああ……こんなはずじゃ……」
男の体が水の中に沈み、それ以上は聞こえなかった。
セナは水辺でアヤメに抱きかかえられたまま、呆然となった。とっさにアヤメの方を見ると、彼の容姿はすでに美しい青年のものに変わっている。だが、顔色が真っ青だ。
「引き揚げろ」
アヤメが一言呟いた。
バシャバシャと音がする。魚のように勢いよく水面から何かが飛び上がってきて、セナの横に転がった。
「ゲホッ、ゴホッ……」
男は無事だった。泥水を口から吐き出す様子を見て、アヤメが冷淡に言い放つ。
「お前が最後に手を離さなかったら……あのまま沈めていた」
遠くでパトカーのサイレンの音がした。アヤメがため息を吐く。
「後は……人間に任せよう。もののけの出番は、終わりだ」
そう言ってセナの頭を撫でたアヤメの顔は、どこか満足しているようにも見えた。
****
「アヤメさん! ハンバーガー、買ってきたよ!」
事件が終わってしばらく経った。学校から帰ってきたセナは、いつも通り竹林へと向かう。
「ありがとう、セナ」
洞窟の壁にもたれかかっていたアヤメが身を起こした。
事件の後、セナたちは秘密基地の場所を、『クマのお家』と名付けた洞窟に変更した。お社の床についた血が、どうしても取れなかったからだ。
あの後、竹林に駆けつけてきた警察によって、男は逮捕された。セナが人伝に聞いた話では、重い罪が科せられるだろうとのことだったが、本人もそれを受け入れる気でいるらしい。
刺された女性――コトネも病院に運ばれた。かなりの重体だったようだが、何とか一命は取り留めて、今ではすっかり元気になっているとのことだ。
何もかもが元通りに戻りつつあった。ただ一つ違うのは、セナに新しい友だちができたことだ。
「今日はカオリちゃん、委員会の活動があるから遅れてくるって」
セナがポテトを摘まみながら言う。アヤメは、片手にハンバーガーを持ちながら、ナプキンで口の周りのケチャップを拭いていた。
「小学生も大変なんだな。私は学校に通ったことがないから分からないが」
あの事件以来、アヤメが姿を隠すことはなくなっていた。だからセナたちは、竹林に来る度、しょっちゅうアヤメと遊んでいる。
セナは、警察にも自分の両親にも、アヤメのことを話していなかった。もののけなんて、誰も信じるはずがないと思ったからだ。
セナが唯一本当のことを打ち明けたのは、カオリだけだった。
男に襲われて気を失ってしまったカオリだったが、彼女も普段通りの生活に戻っていた。
そんなカオリも初めはセナの言うことを信じていなかったのだが、実際にアヤメに会わせてあげると考えを変えたらしく、今では彼の友人の一人になっていた。
「アヤメさんって、お化けになる前は何だったの?」
セナは、『学校に通ったことがない』というアヤメの台詞に興味を引かれて尋ねた。
「何と言われてもな……」
アヤメは困ったような顔になった。
「生まれたときから、私は今と同じ存在だったんだ。この辺り一帯を守る神……みたいなものだな」
「えっ、神様!?」
セナは目を丸くする。
だが、納得はできる気がした。
セナは、アヤメといると落ち着いた気分になれるのだ。それは彼の正体が、守り神だったからなのだろう。神が傍らにいるのだから、怖いものなんてあるはずがない。
「それって、もののけなんかよりも凄いんじゃないの?」
「どうだかな。封印されている間に、かなり力が弱ってしまったから、大したことはない気がするが……」
アヤメは首を傾げている。
意外な事実を知ったセナは、アヤメの経歴をあらためて思い返していた。
「でもアヤメさん、たくさんの人を殺したんでしょう? 神様がそんなことをするの?」
「……色々事情があったんだ」
ハンバーガーを食べ終えたアヤメは、包み紙を丁寧に四角に折っている。
「ずっと昔、この辺りには村があった。私はそこの村人たちから、信仰対象として祀られていたんだ。だが……ある日、どこからか山賊が流れ着いてきて……」
「村を襲ったの?」
「ああ。何人も殺された。私はそれを止めようとした。そして、山賊たちを片っ端から沼に沈めていったんだ」
アヤメがオレンジジュースをすする。
「事件の後、村人たちは、皆別の土地へ移っていった。そうして私は一人になった。そこへ、あの時の山賊の生き残りが、僧侶を連れてやってきたんだ」
アヤメが腕組みした。
「山賊たちは僧侶を騙していたらしい。自分たちの正体を隠して、私を人殺しのもののけだと偽っていたんだ。それを信じた僧侶は、私に呪いをかけ、沼に沈めた……」
その呪いというのは、『次に沼の近くで殺人があれば、存在を消す』というものだったのだろう。竹林にあったお社や石碑は、そのことを後世に伝えるために建てられたに違いない。
「何か……ひどい話だね」
真相を知ったセナは、モヤモヤした気分になった。
「それって、アヤメさんだけが悪いわけじゃないじゃん。なのに呪いをかけられて封印されちゃうなんて……」
しかも、その呪いの内容からして、アヤメ以外の者が殺人を犯しても、彼は消えてしまう運命にあるではないか。
「でも、変だね。そのお坊さん、アヤメさんを人殺しの化け物だって信じたんでしょう? だったらどうして、そんな危険な存在、倒さないで封印しておいたんだろうね?」
封印が解けたら、また暴れ回るとは考えなかったのだろうか。
セナの疑問に、アヤメは「そうだな……」と考え込む。
「私もずっとそのことは不思議に思っていた。だが……先日の事件で、やっとその答えが分かった気がする」
アヤメはセナの方を見て笑った。
「僧侶はきっと、私に自分のしたことを悔い改める機会を与えようとしたんだ。自分の罪を認めて、今度からはこんなことは絶対にしないように、と」
「反省してほしかったってこと? ……余計なお世話! だってそれ、アヤメさんが悪者って前提の話じゃん」
「……私が悪者ではなかったとは言い切れないんじゃないか? どんな事情があったにせよ、私は今風に言えば、殺人鬼だったんだから」
それでも……と続けながら、アヤメはかぶりを振った。
「極限状態になれば、心を入れ替えることもある。あの刃物男も、最後にお前のことを助けようとしただろう。私もそれを見て、男を殺すことを思いとどまったんだ。もののけだろうが、人間だろうが、改心することもあるんだとよく分かった」
「……そういうものなのかな?」
アヤメは意外とポジティブな考え方をするようだった。人間ではない存在というのは、皆こんな感じなのだろうか。
「お待たせー!」
セナとアヤメが雑談をしていると、やっと委員会活動が終わったカオリがやって来た。
「アヤメさんもいたんだね! せっかくだし、一緒に遊ぼうよ!」
「いいぞ。トランプでも鬼ごっこでもお絵描きでも、何でも付き合おう」
アヤメは何だか嬉しそうだった。
きっと彼は、人間が好きなのだろう。だからこそ、人を怖がらせたくなくて、今までは隠れるように過ごしてきたに違いない。でも、そんな生活は寂しかったはずだ。
「じゃあね……かくれんぼ!」
「よし、分かった。まずは私が鬼になろう」
カオリが提案すると、アヤメは壁際に手をついて数を数え始める。セナとカオリは外に出た。
「あたしはあっちへ行ってみるね」
「じゃあ、私は反対の方へ!」
二人は別れ、セナは駆け出す。その視界に、お社の屋根が映った。
不意に、隠れ場所を探す内に、また変なものを見つけてしまうんじゃないだろうかと不安になってくる。
けれど、そんな心配も、秘密基地からアヤメの数を数える声が聞こえてきて霧消した。
アヤメがいれば、きっと大丈夫だ。
何せ彼は、守り神なのだから。それに何より、自分たちの友だちなのだ。また何かあったって、きっと一緒にいてくれるに違いない。
「もういいかい?」
十まで数え終わったアヤメが尋ねてくる。
「まぁだだよ!」
セナはそれに向かって返事をした。
明るい声が辺りに響く。葉の間から射し込む光の間を潜りながら、セナは笑顔で竹林の奥へと走っていった。