黒々
第四章【黒々】
止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばいい。
孔子
昔々、とても貧しい国がありました。
どうにかして国を守りたかった国王は、考えました。
そうだ!良い方法がある!
まず初めに、脳にダメージを与え壊し、幻覚を見せる薬を飲ませ、麻痺させていきました。
各家には監視カメラを設置し、さらには国全体にも小型カメラを至る所につけることで、国民の行動を監視し、また、薬による変化を観察することにしました。
薬の量を徐々に増やして行くと、だんだんと変化がみられてきました。
薬の毒性は身体に蓄積されていき、国民たちはさほどない、スズメの涙ほどの賃金でも、大金だと思い込んで喜ぶようになりました。
質素な食事にしても、御馳走を食べているかのようになったのです。
これは節約になるのではないかと、国王は次の手段に出ました。
それは、国民の家の壁や家具、生活水などにも薬を塗り込ませ、薬を口にしなくても身体に蓄積されるようにしたのです。
食事を食べられない赤子や寝たきりの老人にも、その成果が出るようにと。
気化することで身体に取りこまれた薬の成分は、思った以上の効果を見せはじめ、国王はとても喜びました。
国は、経済的に復活しました。
脳の異常により、病気も完治したと思いこみ、毎日豪勢な食事をしていると思いこみ、こんなに幸せな国は他にはないと思いこみ、国民達は国王の思うがままになったのです。
そして、国は、最も幸福な国であるとして認定されました。
「いよいよ、これからだ」
そして、国王は最後の目的を開始します。
それは、他の国にも、同じようにこの薬を使わせようとしたのです。
もちろん、無償ではありません。
この薬はこの国でしか作られていないものであることや、他の国では暴動や戦争、貧困の差が激しいと批判を受けていたため、そのような国に売りこもうと思っていたのです。
特に王族、貴族などという階級が存在している国からしてみれば、国民から税金を絞れるだけ絞り取りたいのが実情であることも分かっているため、儲けられるという自信もあったのです。
国王は、そういった国の国王を呼び寄せて、実験の成果を見せました。
最初こそみな驚いていたものの、こんなに貧しい生活をさせていても、国民が幸せだと感じているのであれば問題ないと言われ、その通りだと思ったのです。
薬はとても高価なものでしたが、それを何十倍もの値段で売り飛ばし、国はさらに栄え、見事な復活を遂げたのです。
そしてそれ以外にも、有効な使い道があることに気付きました。
例えば、痛みなどの感覚が麻痺していることから、過酷な労働者として、別の実験台として、性的処理道具として、見世物としてなどなど。
非人道的な使い道のみ、である。
「とても素晴らしい、愚かな人間の有効活用方法である」
そんな昔の話を載せた、武勇伝を読み終えた覇天呀は、眠そうに目を細めながら、しっかりとした声で言う。
「一体何が不満なんだろうね。錯覚でも、幸せだと思えるなら、それが幸せになるのにねぇ」
覇天呀はうとうとしそうになりながらも、何かを思い出したのか、急に目を見開く。
「そういえば、なんだったっけ?あいつらの名前。聞いたのに忘れちゃった」
自分に、国に、刃向かってきた者の名前を、確か聞いたはずであったが。
しかし、それを必死に思い出そうともせず、覇天呀は次の瞬間には、平然とこう言った。
「まあいいか。どうせ死ぬんだし」
夜明けになれば、いつも通りの朝がきて、いつも通りの生活になるだけだと、覇天呀は大きな欠伸をする。
ふかふかのベッドで寝るのは当然大好きであるが、こうして、いつもとは違う光景を眺めながら寝てしまうのもまた、楽しい夢が見られそうだと思うのだ。
「おやすみ、愚者共」
研究所では、優は向き合っていた朱槍に対して叫ぶ。
「あなただって!!この国に酷い目に遭わされたはずです!!どうしてこんな国の味方をするんですか!?私達とともに戦う気はないのですか!?」
見覚えのあったその顔に反応した優は、想いの丈をぶつけてみたものの、朱槍は何を感じているのかさえわからないような、機械のような顔のままだ。
それでも、優は自分の中にあるこの気持ちを吐きだそうと、朱槍に向かって言葉を投げかける。
「この国を変えて、あなたもみなも、普通の、生まれてきて得るはずだった普通の生活を手に入れましょう!!あの男についていく理由なんて、あなたにもないはずです!」
国や時代のせいにするのはお門違いなど、一体誰が言ったのだろう。
こんな国に生まれ、人間としての尊厳を奪われ、人間としての心も失われ、偽りだらけの日常を送るだけなど、空しい。
その数秒後、優の耳に届いてきた声は、先程聞いたものとは全く異なるほど、低い、明らかに男性のものだった。
「戦ってどうなる」
そして冷たく、凍りつきそうだ。
「死ぬだけだ」
そこには生気など感じられないはずなのに、眼光があまりに鋭くて、優は思わず呼吸を忘れそうになる。
「お前のように」
気がつけば、周りを取り囲まれていた。
気配を消していたのか、それとも到着したばかりなのかはわからないが、窮地であることに変わりはない。
しかし、このような状況になっても、優は決して慌てることはなく、すうっと目を開けて息を整える。
「あなたとなら、分かり合えると思っていたのですが、残念です」
まるで嵐の前の静けさのように、穏やかな口調でそう言った優に対し、朱槍は穏やかとも物静かとも言えない、そこには感情の無い声だけが響く。
「意思など無い」
それが一体誰のことなのか、優には分かる。
あまりにもその言葉は悲しく、切ないものに感じた優の表情は、朱槍からしてみればわけのわからないものなのだろう。
朱槍の顔を見ると、ますます心の奥底にある悔しさも混じった複雑な感情が入り混じり、優は奥歯を噛みしめる。
ギュッと拳を握りしめると、周りにいる男たちが少しずつ近づいてくる気配を感じる。
少し大きめの撫子色の瞳が朱槍をとらえると、優は腰の刀の柄を握り締め、左足を後ろへ一歩退かせる。
そして、目の前にいる朱槍に対して、真っ直ぐにこう告げる。
「私は最期まで戦い続ける。例え、この命が燃え尽きようとも・・・!!」
「さすがに、国を相手にするということがどういうことかが、わかったんじゃないのか?」
武功の言葉に、大は歯を食いしばる。
「恐ろしいだろう?なあ、クズ。これでもまだお前は戻ってこないんだろう?」
視線を護に移すと、武功は平然とそう言ってのけた。
護はすでに言われ慣れているからなのか、それとも、他の理由からなのかはわからないが、大よりも冷静にしていた。
それから、武功の口からは、次々と護への侮辱の言葉や批判、批評、否定する言葉がずらずらと並ぶ。
さらに武功が続けようとしたため、それを阻止するかのように大が口を開いたとき、護が先に話し出す。
「ずっと、考えてた」
荒々しい戦場には似合わないほど、護の声は優しかった。
大だけではなく、その場にいるほとんどの者が、その声に耳を傾けているだろう。
「俺が見てる世界の奴らは、なんであんな死んだような生活をしているのに、幸せだと言っているのか」
小さい頃は、身近にいる大人たちが何を考えているのかなんてわからなかった。
国に住んでいる奴らはきっと、“生きていること”を“幸せ”だと言っているんだと、そう思っていた。
しかし、それが違うと分かると、この国はどうしてこんなにおかしいのかと思う様になった。
いや、それも違った。
おかしいのはこの国だけじゃない。
「このまま、俺達だけがのうのうと生きてていいわけがない」
護の言葉に乗せるようにして、大が叫ぶ。
「俺の親も妹も・・・!!この国のせいでめちゃくちゃだ!!せめて、一緒に、普通に笑っていたかった・・・!!」
護と大の悲痛な胸の内のことなど、この男はなんとも思っていないようだ。
闘矛は鼻で一度笑ったかと思うと、顔を手で覆う様にしながら笑いだした。
口元、しかも端のほうしか見えないが、随分と綺麗に口角をあげて笑っているようだ。
「普通普通って、お前ら下民にとって、僕らの肥やしになることが、普通なんだよ。それが何よりの幸せだろ?家族と一緒に狂ってりゃあ良かったものを」
続くように、闘矛が言う。
「国の再建は今後も続く。そのために、邪魔になる者はここで排除する。周りを見ろ。もう終わりだ」
周りには、何百、何千という男たち。
普通であれば、こんな数え切れないほどの男たちに、しかも武器を持った男たちに囲まれた状態では、そうそう通常の精神ではいられないだろう。
しかし、それよりも何よりも、護の中にはなんとも言えない感情が沸き上がる。
身近な家族よりも、血のつながりのない者との飯の方が美味いだなんて、滑稽であって不可思議な話だ。
例えそれが事実だとしても、やはり、心のどこかでは、家族団欒の光景を嫌でも思い浮かべてしまう。
それは決して叶わないことだと分かっていたとしても。
「護?どうした?」
隣にいる護が下を向いたまま黙ってしまったため、心配した大が声をかける。
闘矛は、やっとこの状況を見て怖気づいたのではないかと挑発してみるが、それに乗ったのは大だけで、護は何を言われても下を向いたままだった。
いよいよ心配が頂点に達した大は、護の肩に手をかけようとしたとき、護の顔があがる。
その目つきは先程までとはまた違う、憤怒も悲壮も喪失も混じったような、そんなものだった。
「どうした?怖いなら怖いって言えよ。あ?臆病なクズ野郎が」
「てめぇ!!それ以上護に何か言ったら!」
そこまで大が言ったところで、護が「大」と静かに名前を呼んだため、大は言いたかった言葉をぐっと飲み込む。
「情けない」
「あ?」
「情けないって言ったんだ。こんな国を守る兄弟を持って・・・!!」
闘矛が言い返そうとしたのだが、それよりも先に大が叫ぶ。
「俺達が生きてきた証は俺が示す!!」
刀悟は、澪相手に少々手こずっていた。
素早い動きで澪から距離を取ろうと走っていると、近場に尊を見つけたため、思わず駆け寄って行く。
その場にいた男たちの首を次々に斬りつけていくと、颯爽と現れた刀悟に、尊は呆れたようにため息を吐く。
「やっほー、尊さん。僕、正直疲れちゃってね。休みたいんだよね」
「知るか」
「こんなことになるなんてね。巻き込まれちゃったもんね」
「お前に巻き込まれたようなもんだ」
そんな話をしていると、澪は刀悟を追ってやってきたらしく、後ろからは男たちもぞろぞろと付いてきている。
刕豪は、自分の邪魔をしないようにと澪に忠告をしているようだが、澪は澪で、刀悟に用があるだけだと説得していた。
それならいいかと、刕豪は尊たちの方を見る。
「この国に来なければ、普通に歳とって死ねたのにな」
澪も、同情するような目で尊と刀悟を見る。
「不運だね。同情するよ。ええと、誰だっけ?名前聞いたっけ?」
澪が、指を指しながら首を傾げていたのだが、刀悟はそれに対して答えようとしたため、勘づいた尊が先に口を開く。
「てめぇらに名乗るほど安い名前は持ち合わせてねぇんだ」
「そうなの?一応武士として名乗ればいいんじゃない?」
「刀悟、お前、武士って奴らは卑怯な真似はしねぇんだよ。この国には、武士も武士道も人道もありゃしねぇよ」
「確かにそうだね。あ、尊さん。聞きたかったことがあるんだけど」
「は?なんだこんな時に」
「尊さんって、好きな食べ物なに?」
唐突になんだと思っていると、刀悟はこう続ける。
「だって、ここで死んでしまうなら、尊さんのこともっと知っておかないとと思って」
その言葉にさえ、尊は首を傾げる。
「尊さんのことを憶えていられるのは、僕たちしかいないんだよ?」
以前にも話したことのあるそんな話だったが、この時ばかりは、尊は刀悟の言葉を素直に受け入れられるものだった。
別に、憶えていてほしいなんて思って生きていたわけじゃない。
自分が生きてからずっと、死ぬまで独りだと思っていたから、誰かのことを記憶したまま死ぬとも思っていなかったし、誰かが自分のことを憶えたまま死ぬとも思っていなかった。
特別、望んだわけでもなかった。
それでも。それでも。
急におかしくなって尊が小さく笑っていると、刀悟が不思議そうに尊を見る。
初めてみる尊の笑みは、なんとも普通の少年のようだった。
「尊さん?」
「いや、悪い・・・。そうだな。そうだよな」
久しぶりに腹筋を使って笑ったな、と思った尊は、手短にこう話す。
「好きなもんはおでんだ。あと歌舞伎を見るのが好きだな。前にも言ったが三味線が得意だ」
「いつも噛んでる飴の味は?」
「特に決まってねぇが、レモンが多いな」
「へー、てっきりイチゴかと思ってた」
「なんでだよ」
「こういうときって、大抵イチゴなのかなーって。僕はおはぎ味が好きなんだけど、なかなか売って無くてね」
「・・・なんだその摩訶不思議な味の飴は。お前の妄想の中の嗜好品か?」
「あれ?言ってなかったっけ?僕大福じゃ好きじゃない?だからおはぎも好きなんだよね。でもたまに生クリームを感じたくなるのはなんでだろうね。人間って不思議な生き物だね」
「お前を人間という括りに収めてしまっていいのか、俺には甚だ疑問なんだがな」
「それって褒めてる?照れるじゃない」
「褒めてねぇよ」
「おい、お前らいつまでくっちゃべってんだ?」
「早く串刺しにしようよ」
尊と刀悟が、今のこの状況とは全く関係のない話をし始めたため、刕豪と澪はなんとなくいらっとした。
自分たちに集中しないと死ぬというこの緊迫感が溢れている中、その空気が緩んだだけでも信じられない。
だがどういうわけか、通常の日常を過ごしているかのような2人の会話に、刕豪と澪はここが戦場であることを忘れそうになる。
刕豪は頭を軽く左右に振ると、目の前で繰り広げられている、楽しそうな平和的光景に、少なからず嫌悪感を示す。
「(戦場ってのは、常に血が流れ断末魔が聞こえる。そういう場所なんだよ。なのに、なんでてめぇら・・・・・・)」
今まで経験していた、とはいっても、国が国なだけに、対等な戦争というものはしたことがないが、どんな国だろうとどんな屈強な男たちだろうとも、国や自分を前にして、ましてや、すぐそこにある“死”をその身に感じとって、こんな奴らはいなかった。
走馬灯の中に逃げ込むわけでもなく、現実から目を背けているわけでもなく、絶望だけが見えているわけでもない。
そんな姿より、刕豪を苛立たせる。
「笑ってんじゃねぇよ」
ギリッ、と歯を噛みしめながらボソリと呟いた刕豪の言葉は、すぐ隣にいた澪だけに聞こえたようで、澪は目を丸くして隣で目つきを鋭くしている刕豪の横顔を見る。
その声は尊たちには聞こえていなかったものの、その後の刕豪の声で、ようやく尊と刀悟は2人に向き直る。
国の為などという理由などとは違うものを孕んだ刕豪の瞳に、さらに挑発をするかのようにして、尊と刀悟は笑う。
その笑みがどういう意味を示しているのかなど知る由もないが、刕豪の苛立ちを駆り立てるにはあまりに十分だった。
「いいか、よく聞けよ」
冥土の土産にでも持っていけと、刕豪が話しかける。
「この国は、不滅だ」
それに対して、へらっと笑った刀悟はこう答える。
「今から滅ぶのにね」
そして、同じように笑いながら尊も言う。
「ぶっ潰す」
「そして、国の英雄たちは、国を乗っ取ろうとした悪者を全員倒したのでしたー。めでたしめでたしー」
1人の男が、話を終わらせる。
子供たちからは、拍手ではないものの、それと同等の瞳の輝きを向けられる。
「すげー!やっぱ英雄ってかっこいいなー!!!俺も強い英雄になる!!」
「俺もなる!!」
「ちょー強い英雄になる!!」
「悪者はみんな殺しちゃえばいいんだ!!」
「はいはーい、今日はここまでー。さっさと帰った帰った」
男にシッシッとされ、子供たちは次々に文句を言いだす。
「なんだよー!このクソ野郎!」
「金払ってんだからもっと話せよ!!」
「悪者って誰なんだよ!どうやって死んだんだよ!!」
「見世物にして殺したんじゃないのか?」
「え!俺は火あぶりかと思った!」
「串刺しがお似合いだろ!そんな悪者!」
子供というのは、無知故に、なんと愚かで残酷なことを平気で口にするんだろうと思いながらも、男は早く帰れとだけ伝える。
「うるせえよ。こんなはした金じゃあこのくらいの話がお似合いなんだよ。早よ帰れ」
未だブーブーと文句を言っている子供が大多数だったが、大人しく帰って行く。
そんな中、1人残った少女が、男の顔をじーっと見ていた。
「なんだ?もう終わったって言ったろ?」
すると、少女は眉を下げながら口を開く。
「なんで?」
「ん?何がだ?」
「なんで戦ったの?負けるって、死んじゃうかもってわかってたのに、なんで戦ったの?なんで悪者になっちゃったの?」
「・・・・・・」
そんなこと、男も知りたいくらいだ。
答えなんて知らない男だが、このままにしておくのもどうかと思い、自分なりの考えを少女に伝えようかと思った。
少女に目線を合わせるようにして両膝を曲げると、少女の大きな目に溢れる涙に気付く。
「負けるってわかっててもな、自分の気持ちに嘘をつけねえ奴らってのがいるんだ。相手にぶつけたかったんだよ、気持ちをな」
「でも、戦争は悪いことだって、ママ言ってたもん」
「そうだな。それ以外の解決策がもしあったら、あんな馬鹿なことしなかったのかもな」
「なかったの?」
「・・・ああ、なかったんだろうな。難しい問題だ。大人になりゃわかることもあるだろうが、分からねえ方が幸せだろうよ」
少女は首を傾げ、男は笑いながら少女の頭に手を置きながら立ち上がる。
そして少女にも早く帰るように言うと、少女はまだ困った顔のまま、何度か男の方を振り返りながらも足を進める。
全員の姿が見えなくなると、男は自分も腰をあげて立ちあがり、紐のついた袋を持ちあげ、紐の部分を肩に乗せるようにして背負う。
幾年が過ぎようとも変わらないものがあるのだとすれば、それは一体なんだろうか。
時代が早足に歩いてしまうほど、取り残された者たちはどうやって生きて行けば良いというのだろう。
それを嘆くことも抗うことも出来ずに、ただただ、流れに逆らうことはせずとも、流れる川で微動だにしない岩のように、そこに立ちつくしているだけ。
それでも生きていたという証がほしいのなら、そのまま立ちつくしている方が良いのかもしれないと、誰かが言っていた。
男は、すっかり変わってしまったその風景を見て、良くも悪くも時代は進んでいくのだと、独り思う。
「賢く生きるか、信念を貫くか。ガキにゃまだわかんねーか」
その呟きは、急に吹いた風と共にどこかへ去っていく。
またこれからも変わりゆくのだろうとわかってはいても、語らずにはいられない物語もまた、必ず存在しているのだと。
「男の生き様は、本じゃ語れねえ。・・・って、女もか」
肩で小さく笑いながら、男は進んで行く。
「真の英雄は悪役として世に広まり、後世に伝えられる。いつの時代も、正義は名ばかりか。世知辛いねぇ・・・」
男は、鼻唄を奏でながら消えていく。
その歌声は、どこか寂しそうに聴こえた。
それは、昔々の物語である。
時代を超えて語り継がれることとなった、なんてことのない史実の1つであるが、幾つもあるその史実の中でも、事実とは異なると言われている個所が多い物語である。
なぜそんなことになってしまったのかは、誰にもわからない。
確実なことは、英雄とも悪とも記載されていないにも関わらず、読み手が勝手に解釈してしまっている点が多いということだ。
それはきっと、“敗北者”が“悪”であるという先入観のもと読まれているからであろうと、とある専門家は言っていた。
しかし、別の観点から指摘した人物もいた。
その指摘というのは、読み手の心が、物語の中の“英雄たち”のものと似ているからだろうということだ。
すなわち、読み手側の思考が、そこに書かれている“英雄“の行動や思考と同じであって、自分を正当化するために、物語の中の”英雄“とも”悪“とも言えぬ者たちを勝手に”英雄“と言い張っている、というものだ。
非道であろうとなかろうと、“英雄“に自己投影するのは、人間として一種の防衛本能なのかもしれない。
どれだけ時代が変わろうとも、人間の本質は変わらない。
「それでも俺は、俺達は、時代を生き抜く者として語り継ぐ義務がある」
主観的ではなく客観的に、全ての過去の事実を未来へと繋げていく役目であって、歴史という人間の過ちを警告する使命がある。
そして物語同様、歌も、永遠のものとして受け継がれていく。
男はふと立ち止まり、どこかの方角を見つめる。
何かを思い出しているのか、男は目を瞑って小さく笑ったあと、またすぐに歩き出した。
そしてまた、鼻唄を歌う。
どこかの国での、小さな物語。