運命に誰もが抗えないままなら物語は生まれない
運命に誰もが抗えないままなら物語は生まれない、希望なんて残らない光なんて望まない (Anybody else.) だから誰だって信じてる…きっと (So we… We believe without fail.)
<cuddle/Choucho>
朝起きたとき、この曲を聴くことが多いです。歌詞もメロディも刺さります。第4チャクラ向けです。
ラプラスの悪魔的な視点で見れば、人間には自由意志などなく、全ては決定論で動いていることになる。現代の物理学はそこまで単純でないことを示しているし、さらには散逸系の構造もあるので、小さな意志が成し遂げる物語の存在は重要ではある。
だが、精神力学を考えたとき、そこにも因果関係は存在する。例えば、うつ病などは単純には病気ではなくエネルギーの停留と見なした方が理解しやすい。自分の問題を他者に責任転嫁するのを常とする人間のいる空間に、責任を感じやすい人間が存在すれば、そのエネルギーは責任感に蓄積して病むのである。エネルギーにはネガティブなものとポジティブなものがあり、悩みなどのネガティブエネルギーは防衛力の弱い他者や放散能力のない自己の存在を蝕むのだ。
また、例えばインスピレーション一つとっても、それが高次存在や神の声なのか、低次の悪霊のものなのかは人間には判別しがたい。その声は聞こえるときと聞こえないときがあり、何も考えないで生きていると自動反応のようにそれに従っているときもある。つまりネガティブとポジティブというのは時空間にあまねく存在し得る。(別にインスピレーションをそういう外なる声と解釈する必要はないし、その解釈に固定すればむしろ危険ですらある。)
そこで登場するのが意志なのである。意志にはエネルギーを解釈する力がある。受信したネガティブな(あるいはポジティブな)エネルギーを内に留めて分析するかそのまま開放するか、あるいはどのように(加工して、あるいは素材として)表現するかという選択は、意志にある。善なる意志は表現をポジティブエネルギーとなるように選択し、他者へ与える影響が好ましいものになるよう責任を持つ。善とはそのような性向(意志)に対して定義するのが一番もっともらしく、その現れの形式などに本質はないというべきだろう。そこには健全な強さへの意志こそを含むのである。
人間が意志を軽く見ている限りは世界は浄化されない。よく「光を求めよ」といわれるのは、このネガティブなエネルギーの発動を戒めるために、意志がエネルギーの質を分析する力に呼び掛けているのである。
そして、意志が光と闇を峻別できないということはあり得ない。そう装う理由として、光を選択するのは挑戦であり、闇に流されるのは安易なだけだ。こいつを認めてしまうと安易に闇に流されることの大義名分が立たないのである。
しかし、大義名分なんかは要らない。世界を自分の手で滅びしたければ闇に流されていけばいいし、救済したければ光を選択すればいい。世界の滅びは自身の死だというだけの話であるのだから。闇の選択も光の選択も、結局はその自由の責任は本人に還るだけの話であるし、その理解もできないとなれば、かなり深刻だね、と同情すら感じる。そもそも大義名分などに頼るのは甘えの構造である。
世界は矛盾に満ちている。太極である。なぜなら、そうすることが発展になるように構造化されているからだ。(この事情はヘーゲルの『大論理学』有論だけでも理解するといいと思う)。戦いも愛も基本的には克服の道である。そこに闇をもってあたれば、克服される側に役づけられ、光を信じて意志して臨めば、克服する側に役づけられる。
但し、勝負の結果は今生世界の関心ではないから、そこまでは期待しない方がいい。もっとも誰もがいずれは光となり、克服せねばならない。なぜなら、世界はずっと続くのだから。終わらせる道は光となり、次の宇宙へ脱皮することだけなのだ。もっともそれすら、単に学年が進級するにすぎず、闇に溺れていればずっと落第し続けるだけである。
言い換えるなら、本当に光であれば世界の滅び(自身の死)は納得であるから、納得できないなら光そのものではなかったということである。納得できないと未練となるので、忘却を伴うか伴わないかは別にして、納得できない世界が納得できるまで延長するだろう。つまり解脱はかなわない、進級できないということかもしれない。(こいつはあくまで自由連想、想像に過ぎない。)
でも、永遠の落第も楽しければいいんじゃない? って言うのが、宇宙のせいぜいの祝福だろうか。(落第するとより未成熟な魂たちとの生活になるかもだが…。)
想像がややぶっ飛んでしまった。話を少し戻そう。
実際問題として深層心理学を理解していれば、他者の行動を深いレベルでコントロールすることすら可能である。認知心理学や行動心理学程度の浅い理解の心理学ですら、人を操作することは可能なのだから、深層心理学のレベルに達すれば、むしろそんなことは容易だとも言える。
ゆえに人間は無意識のうちに操作されている存在である。それは深層心理学者で魔法使いである私ですら(その視点に自らを置くのであれば←ここは重要)例外ではない。人はある意味、駒なのである。その指示を出しているのも、人類の総意というか無意識に近い存在である。ただ、昨今そこに激しいノイズが混じっているのは感じとる。
私は過去の予言者と言った存在を基本的に懐疑を持つ。特に終末思想などはその時代に関係ない予言者などは確実に怪しい。エントロピー増大則に従っていけば、人類は必ず発展と滅亡のバランスに達するに決まっている。予言するのであれば、それを回避する「光の思想」こそ示せ。そうでなければ単なる空疎な呪いである。
自分は駒であり操作されている存在ではあるが、意志によってエネルギーの選択はできる。こういう視点に立てば、人を操作する黒い闇の意志は封印し、自分をコントロールする術を分かち合う道を選択するだろう。つまり、それが光の道であり、信頼と愛へと通じて次元上昇するのだと考えられる。
少なくとも私はそういう道を推進する。(この道の過程に自らの第1、第2チャクラの問題を位置づける、つもり。)
魔術分野でも意志というのは非常に大きな要素ですね。
希代の魔術師アレイスター・クロウリーの思想の根源も、<セレマ>、つまり意志です。
Do what thou wilt shall be the whole of the Law.
これは本来は魔術というより魔法の原理ですね。
ちなみに、心理学で他者の意志を操作するのは、黒魔術でしょう。
操作されたことは意識は知らずとも、魂は知悉します。
そして、魂こそ法を司るので、その法の公正さがその意志の性質を判断するでしょう。
法は意志よりも偉大です。
そういう意味では、私はクロウリーの見解を全面支持するわけではありません。
ただ、意志という形で法の根拠や在処を問うというのは、
魔法使いにも通じる原理ではあります。
ゆえに意志は非常に大事です。
なお、インスピレーションに関しては、
ポジティブ直観は理解や洞察に属する超意識(天:概念)
ネガティブ直観は力や本能に属する潜在意識(地:自然)
意志は制御や判断に属する意識(人:心理)
とすると、私の魔法体系と一致します。
どうでもいいですね、そうですね。