神を恐れる人は神を信じる人を恐れるのである。
今日は、神を機能的な側面から語ってみましょう。
そして、人生の意味をまた今までの文脈に照らして、別に解釈してみましょう。
難しく考えなくても、神への信仰などは機能的かどうかで判断してもいいのだ。つまり信仰した方が得か信仰した方が損かでいい。もっとも神とは何であるかという問題が最初に来る。だいたいが、神を信仰すると損だと考えている人間は神を誤解している。
なぜおまえごときが神を語れるのだ?と言われれば、その通りなのだが、それでも私は形而上学者であるし、深層心理学の使い手でもあるし、それなりに自然科学についても理解しているわけで、人間たちの社会にさえ巻き込まれなければ、孤高で生きることが可能な魔法使いである。
つまり、宇宙についても、地球についても、人間についても、生活しているだけの人に比べれば、圧倒的な情報量と理解力がある。そして無神論者が神を絶対に追究しないだろうことに比べれば、誠実に神とは何かについては探求もしてきたわけで、試論を述べるくらいの仮説はあるに決まってる。
そして、なぜ、その仮説を現在まで棄却してないかと言えば、十分に利用目的に適っていたからでもあるだから、それなりの機能性や有用性についても自負するところはあるのである。つまりぶっちゃけて言えば、正しいなんて主張するつもりはないが、使えると言っているのである。
神は何もしない。単なる秩序に過ぎない。願ったからと言って何かを叶えるわけでもなく、祈ったからと褒めてくれるわけでも守ってくれるわけでもない。信仰の篤さとかもほとんど関係ない。あるとしたら機能的な側面であり、神に対しての理解の度合いだけである。
神は神を理解していればしているほど、信じることができる。なぜなら、ああ、なるほどそういう神なら間違いなくいるだろうな、と脳が理解するようになるからだ。そして、信じることの機能面と言えば、一番大きいのは恐怖に耐えることだろう。
人間が怖いと思うことで、いかに自分の可能性を閉じ込めるか、いかに自分の判断力を制限してしまうか、は観察してみればよく分かるはずである。この足かせさえなければ、安易に神ならぬ人なんぞに、自分の命を左右するような判断を任せたりはしないし、何事も自分の判断を信じることで、その自由と責任のバランスにも目覚めていられるだろう。
神は恐怖の対象などではない。逆だ、恐怖からひたすら自分を守ってくれるだけだ。それに神に多くを期待するのもおかしい。神は本当に単に宇宙の秩序に過ぎない。そこに可視化出来るような実体はない。あえていえば、自らが人間として、心理世界の住人を自覚するのであれば、地上の混沌を天上の秩序を実現するための材料として、エントロピー増大則に抗って生命としてのネゲントロピーを体現するとき、己の中に神を感じる人はいるだろう。
少し話は変わるが、混沌を秩序へと変更していくことは、概念世界の必然である。そして、地上とはそもそも混沌である。だから、人間が生きる意味とはネゲントロピーなのである。地上の混沌を宇宙の秩序へと変化させていくこと。それが本来の文明の目指すところであり、文化はその先導をするはずなのだ。
これが科学が理解を伴わない単なる技術として使われることになったことから、文明は地球の自然のためではなく、人間のための営みになった。残念ながら、これは概念世界の予定ではない。なのでこの部分の調整は引き続き行われていくだろう。場合によっては、人類は心理世界の主として、混沌を秩序へと変換するネゲントロピーの体現たる霊長の役割を解雇される可能性はある。
神を恐怖するとしたら、この概念世界の秩序の必然を否定したい場合だろう。つまり、人類が歴史的に進展することを拒否し、文明化とは機械的な機能の卓越であると、勘違いしたい場合は、神を否定したいだろうと思う。人間として、人工知能に負ける存在であることを自覚する人間は、その人工知能を制御する立場に固執せざるを得ない。
だが、人間は本質的に人工知能などを凌駕する。人間は生活することが機能なのではなく、人生に意味を見出し、物語として自らを歩むことが機能なのである。そして、物語とは秩序そのものであり、それを構築していくためには混沌を解釈するなりして、それを秩序化する営みが必要になる。
ゆえに、人生とは混沌から秩序を形成するところに意味があるのである。この意味を自覚した場合に、その最大の敵は生活を脅かす恐怖である。この恐怖を打ち払う手段として、単なる秩序である神が存在する。神は単に理解の対象であり、神そのものに天罰の機能などない。神は恐れる対象などではない。神を恐れる人は、神を信じる人を恐れるだけである。
神ははっきり言って、理解してしまった方が楽に生きられます。
神は本質的に妄信の対象ではありません。
世界は存在する、という地点から思索していけば、
必ず辿り着く地点です。
思索を途中でやめなければ。
神なんかいない、という結論には私も何度か達していますが、
そのたびに、神は実在はしないにもかかわらず、存在するという思考になります。
神は存在する、も最終的な結論ではないのですが、
存在しないものは思考しえず、存在するから思考しえるので、
存在として思考する方が、哲学としては有意義だという視点も成立します。
自然界には神は場やエネルギーとして存在するかもしれないし、
心理的には人間は神の分身です。
そして、概念世界は神そのもの、
こんな想定も成立しそうですが、これは与太話に属するかもしれません。
(もっとも魔法使いとしてはこれを原イメージとして、魔法発現させますけど。)
哲学の最初としてはパルメニデスでしょう。
科学は特に技術は生活しか面倒を見ません。
人間の生活がどれだけ薄っぺらいものであるかは、
死を間近にする人間ほど実感していきます。