人生の意味は最強である。
今の世界は神を知る人間にとっては非常に生きにくい。
それはまさに、人類がどれだけ神を理解せず、
神の廃絶を願っているかという、裏付けかもしれません。
人生の意味を取り戻すことで、人がどれくらい活力を取り戻すか、
予想できることを書いてみます。
なるほど、この世界のおかしさは被害者の方が加害者扱いされる構造にある。被害者の暴発は加害者の周到に用意された罠だ。ニーチェ先生ならこんなことを言えばルサンチマンと言うだろうが、深層心理学のエネルギー理論で言えばそう言わざるを得ない。
どちらにしてもこの世界は心理機能が劣った人間の方が社会的には成功する。人を支配して不当に図々しく依存する人間が、それに成功して上手くいっているように見える。本当に正当な優越があるなら社会がこんなに混乱するものか?
上に立つべき人間は明らかに聖人クラスだ。人の人生を導けるのは彼らの心理機能において他にあるものか? そう人は生活ではなく人生を送るべきという視点でのみ、あらゆる対立は言葉のやり取りで解決可能なレベルに落ち着くのだ。
生活であるなら、誰が自分の利益を譲るのだ? この場合に妥協するのは、妥協できる懐の広さ、つまり心理機能に優れた人間の方だ。そして妥協すればこの生活世界ではつけ込まれるのだ。つけ込んだ人間が成功しているのだ。
いい加減、人類は人生の視点に目覚めるべきだ。人生とは何か? それこそ自らの心理機能の向上を図ることに他ならない。心理機能の向上だけが人生が終わってからも引き継がれると言う理解こそ、今こそ必要なのだ。
それは確かに確認はできないだろう。宇宙が公正であり、対称性を有するという理解がなければ。つまり、目に見えているものだけで判断する狭窄からはこの視点は導出はできない。そう人生が分かれば当たり前のことが、生活からは絶対に見えない。
これはもういつか相転移が起こるはずだ。氷が溶けて水になる如く、或いは水が水蒸気になる如く。人類の一定の勢力が人生に目覚めれば、クリティカルマスに達すれば、それはいきなり起こる。
そうなった時、人類はようやく優れた心理機能の指導者、決して支配するのではなく、教え導くことによって自らも学ぶ人間を尊敬することの機能性に気がつくに違いない。
今の世にいる、そういう人たちは本当に限られているし、どうしても心理機能の劣った人間からは正しく警戒されて弾圧を受ける。場合によっては大衆は扇動すらされる。それでも立ち上がり苦節を乗り越えるから聖人である。
聖人が聖人たらんとすれば、おそらくそいつは聖人ではないだろう。それくらい聖人の心理機能は微妙だ。彼の本意は力への意志ではなく、真理への愛なのだと思う。
果たして、聖人に人を愛する力があるかは微妙かもしれない。聖人が見るのはその人の持つ内面奥の機能、魂の課題に違いないからである。聖人は生活の対立を人生の課題と言う視点から整理し、説明し合意を導いていくだろう。それはとても根気のいる迂遠な仕事になる。
だが、今後は聖人は増える。若い世代やこれまで虐げられた人にはその手の心理機能は備わっているから。誰もが人と人の間の調整は綿密な対話と、それに基づく合意や同意だと理解する日は近い。
そうなった時、人は人を心から信じられる。魂に目覚めた存在たちのもたらす安心感が世界を包む。そう人が目覚めるのは生活ではなく、人生の視点でいいのだ。生活機能に優れることではなく、心理機能に優れることを目指して、そのために人生を歩むべきなのだ。
人生は過程である。結果ではない。何を結果とするかはそれぞれの課題に関わるが、過程は単なる手段ではなく、それ自身にも意味がある。その選択肢を多く用意できると世界も随分、見通しが良くなるだろう。
ともかく本来の人間というのは各々完全に独立している。摩擦や葛藤は周囲の人間が引き起こすエネルギーによって起こる。依存や支配の強いところでは、優しい人間が病む。その構造に人類が理解を深めれば、いや、優しい人間が精神力学を理解すれば、暴発だけはなくなるだろう。
誰が悪いのかというより、心への理解のなさが罪である。心にだって可塑性はある。発達した心理機能は質の違うエネルギーを変換できるから、本来、社会はその理解の力で浄化される。エントロピー増大則はその変換によって克服可能になるのだ。しかし、その機能を有する人間が個人の生活にそれを充てざるを得ない社会では、社会全体が不幸になる。
人生を心理機能の発達に捧げればよい、という理解が浸透すれば生活はもっと向上するだろう。人間関係も楽しくなるだろう。内面が外面に強く影響を与えている構図の理解も進めば、外面を手術するなんて愚も起こすまい。
全てに意味はある。その課題が不条理に見えることはあるだろうが、向き合えば必ず理解出来る日が来る。だが課題から逃げれば、その分、いったん周りに投げて迷惑をかけ、嘘に染まった弱さのツケはいつか来る。他人の不条理を演出するのが役目だと、自覚しているならいいが、その場合ですらその責任は負うのだ。
宇宙は怖いくらいに公正なのである。理解すべきはこの一点だ。この理解が人間を生活からは人生の視点に押し上げる。公正さは面白い。この対称性に達すれば、自己愛と自尊感情はどんな不遇の元でも尽きない。生活に絶望しても人生に絶望しない。
人生に意味があるのに、生活が本質的に不可能になるなどは有り得ない。サバイバルの経験すら人生に必須の意味なら、その通りなのだから。人生は強い。ほとんど不死である。ただ、その視点で怠惰に陥れば、人生は無意味に転化しかねない。
人生は前進への意志によって支えられる。生活の向上という向上心ではなく、人生の向上という向上心が重要なのだ。人生には間違った選択がありえないことも重要である。人は向上するようにできているし、どんな境遇でも人生に利用することは出来る。
人生の視点なら、絶望こそチャンス。人生への絶望すら、さらにアウフヘーベンできるチャンス。人生への不屈の闘志は宇宙の公正さへの信頼から醸成される。生活機能や生活能力では、残念ながらこうはいかないのだ。真理への愛は超人にも必要とされてしまうのだ。
現代人は、この感覚を早く知るべきだ。
神は生活を支援しないのかもしれません。
逆に人生をこそ支援するのかもしれません。
神の復活は生活視点から、人生視点への転換によって、起こるかもしれません。
自己愛と自己尊厳の感覚は偉大です。
最終の文にある通り、現代人はこの感覚こそ掴むべきだと思います。
今後も慎重に、信仰などに陥ることなく、宇宙を理解していく道を歩みたいものです。