誰でもない誰かは誰になりたいのか?
感情的な問題を、言葉で表現することで思考の訓練になる。
それが私の動機です。
ですが、この硬質で読みにくい文章に滲み出る思考から、
なんらかの感情を刺激できれば、とも正直願っています。
世界がこの場から変わっていけばいい。
まじめにそういう試みです。
善悪の問題を論じるにあたって、ニーチェだけは欠かすことはできない。
そもそもが善悪など言うのは幻想にすぎぬ、と言い切ってしまってもいいのだが、ヘーゲルですら『精神現象学』では主人と奴隷の関係に、死を恐れぬ者と死を恐れる者という分断を用意している。私が採用するのも基本的にはこの基準だが、しかし安易に死に飛び込んでしまうのもまた弱者である。
ゆえに宇宙の秘密を知るというのに、私は強者の基準を賭けているところがあり、それまでは死を恐れないことで自分を保つのである。だが、宇宙の秘密を知るためには自由意志を封じられ、精神活動が止まったら終わりである。いや、宇宙の秘密はわかってはいるが、これを実験するには死へ極限的に接近する必要もある。
ここで一番怖いのは、宇宙の秘密などない、という真実だった場合であり、私がわかった!と思っているものこそ幻であるときである。なによりこの宇宙の秘密に関しては、人類の誰一人として明確には理解していない。いや、信仰している者は多いと思うが、これを導出出来る存在は私はほとんど見ないのである。
ニーチェは宇宙の秘密に関しては、おそらく真っ向否定する。ゆえに彼の至った地点は人間としての最高峰ではあるが、それを奴隷身分から覆せるような超人の誕生は保証しない。私の課題は、超人を超えなくてはいけないのであり、これを為し遂げるには宇宙の秘密なくしてはほぼあり得ないという直観がある。
奴隷身分からの善の達成には、一つには価値軸、あるいはゲームルールの変更がある。多くの社会問題に興味を持つ人が、この可能性を見ていると思う。すなわち社会革命である。そして、もう一つが、個人レベルにおける賢人化である。地球人をやめ、宇宙人になることである。
私は他者を動かす力(どうしようもない嫌悪感を持つが良心とかとは違う)にも乏しい上に、若き日の過ち(とは思ってないが)ゆえに完全に奴隷に堕とされ、さらに監視までついている。監視の存在が、宇宙の秘密に接近させたのであるから皮肉というべきだし、監視が幻想であれば壮大な人生の喜劇であるかなのだが、どちらにしても自力で回復を図る道は尋常な手段ではあり得ない。
私のストーリーには私と世界しか登場しない。こいつと分断すれば敗北であり、統合すれば勝利である。全ての外的な問題は、私の内面の処理機能の性能に関わってくる。実は、ニーチェは司牧という存在に、明確ではないにせよ、この地位を与えてはいる。ただし、司牧における精神力学の存在は語られない。
他者を動かす力を持たぬ私に、果たして世界と同調していく機能があるかどうかは未知数だ。この人生で世界と対等になる野望はあるが、それが達成できなければ奴隷以下の弱者として野垂れ死ぬことを意味する。
宇宙の秘密というからには、死の意味も含んでいる。私が体験した死はそれほど深くはない。だから、今の私には世界と対等になるほどの力はないだろう。野垂れ死ぬのも確かに選択ではあるが、宇宙の秘密は死だけではなく、当然、生も語るわけである。
生の意味を最大限にする方法は、あらゆる心理機能を開放することなのである。心理機能を全て発揮できる地点が全知全能なのだから、そこを目指すのだ。これがニーチェの言う司牧の理解した宇宙だったりする。超人が地上から強者を超えて誕生する可能性を見るとすれば、司牧は宇宙から降ってきた存在である。
私のゲームは、地球人をやめ、宇宙人となることで、超人を超える、なのだと思う。
ニーチェの『道徳の系譜学』は傑作だと思う。この過程を辿って、超人は歴史的に誕生するかもしれない。この文脈で行けば、私は歴史性を根源から無視し、自身を宇宙から定義することになる。地上にはない賢さによって、ただ一人だけの強者への道を開く。
賢さが頭脳や意志だけではなく全体的な心理機能を指す、というのが、フロイト以前(正確にはユング以前)のニーチェには得られなかっただろう視点でもある。だからと言って、有効とは限らない。証拠に私はずっと狂気の手前でのたうち回っている。ただ、この狂気こそが世界からのプレゼントなのだ。
成し遂げることが私の課題なのです。
本当は途中になっている作品を完結させる必要があるのです。
でも、前の話とのつながりが維持できないほど、
私の思考内容は日々変わっていきます。
作品が追い付かないのです。
ならば…、と書き始めました。
※ 現実的(外向思考、内向感覚)に、かつ理念的(内向感情、外向直観)でありたいかもしれない。生き様としては活力と希望(外向感情)がいいのかもだが。
※ 宇宙の秘密に関しては分析としては様々な『悟り』が語られたりするが、総合としてはヘーゲルに勝るものはないと考えてはいる。分析は全て組み合わせてなお、総合に達しないところがあるので、最初に総合から始めるヘーゲルの試みは私の趣味と一致する。(神へ至る道の説話ではなく、神自身の語りなのである。)