2-1:中間テスト
ゴールデンウィークも終わると、いよいよ春は過ぎ去り、夏が近づいてくる。
濃く色づいてゆく桜の葉。梅雨の前ぶれのようなしとしととした長雨。
日本における一年のうちで過ごしやすい、さわやかな季節。
近づいてきたものは、夏だけではないようで。
「はぁ〜……」
ここは、とある市立高校の二年生の教室。
髪を教師に怒られない程度に染めた男子生徒が、鵜の鳴き声がつぶれたような音を吐き出した。
「明日から中間テストかよぉ。鬱だ〜……」
もう終業しており、教室内に人はまばらだ。いつ帰ってもいい。
だけど帰れば中間テスト前夜という現実が近づいてしまう。そんな気がして、男子生徒はなかなか椅子から立ち上がれないでいた。
「そうか? オレは結構楽しみだけど」
ひとつ後ろの席の少年が、ノートや筆箱をかばんにしまいながら、抗えない運命へのぼやきに反応した。
「はぁ⁉︎」
「だって、テスト期間って早く帰れんじゃん。昼から朝までゲームできるし」
「その超理論ほんと、碓冰クオリティあるわ」
「んじゃ帰る。また明日」
「おー」
碓冰、と呼ばれたテスト期間が楽しみだという少々奇妙な少年は、軽い足どりで教室をあとにした。下の名前は幸人という。
下足箱で靴を履き替えて。校門を出て二分も歩くと、大通りに面したスーパーがある。
巣ごもり用にスナック菓子や炭酸飲料をカゴに放り込んでの碓冰宅へのほがらかな帰宅。流れるように自室へ入り、昨日発売されたばかりのゲームを起動する。タイトルは『プレナイトの天秤』。天秤、という単語に表されるようにフィールド上での自由度はもちろん、各選択肢が非常に多いのが特長らしい(開発者インタビューによる)。
碓冰幸人という少年は、自他共に認める平凡、しいて特徴づけるならインドア寄りの平凡な高校生だ。
だが、彼には本人も自覚していない類稀なる能力があった。
それは、架空の物語への圧倒的な感情移入力。
とくに、自分のアバターを用意できるタイプのゲームともなると、その能力はいっそう研ぎ澄まされる。プレイしている間はゲームであることを理解しながらも、その作中世界のいち人物の目線で、物事を見て、感じて、体感することができるのだ。
「うーん。ま、明日は現代文と日本史だし、なんとかなるだろ」
などと呟きながら、昨晩は壮大なプロローグを見たあとの最初にセーブできるタイミングで止めてしまった世界へと再侵入する。幸人の意識は、中間テスト前日の高校二年生から王都郊外の町に住む中流家庭の次男坊へと転換された。
◇
「ここは……どこだ……?」
確かに昨日は、自宅のベッドで寝たはずなのだ。だとしたら、ここは夢の中なのかもしれない。なによりまだ朝ではない。暗い。それにしては、寒さがやけにリアルだ。目覚めた少年は、自分の置かれた状況を把握しようと思考を巡らせてゆく。
(おいおい、一晩でいきなりなんの説明もなしに雪降っちゃうか)
少年、碓冰幸人は頭を軽く左右に振った。雪の上から起き上がったため、ぱさりぱさりと、毛づくろいした鳥から出た羽毛のような雪が少年のまわりに飛び散った。白い雪の下から、工作バサミで適当に切られたかのような黒い髪が現れた。あまりの寒さに、背筋がぶるぶると震える。
「まじで寒い。早くウチ帰んねぇと話も進まねぇし」
幸人は立ち上がり、全身、とくに寝ている時下になっていた側に着いている雪をはたき落とした。王都はやわらかな陽光の下に木漏れ日のゆらめく温暖な町だ。花は歌い、鳥は笑う。たおやかに流れる時間。
しかし、ここはどうだ。視界の先は三百六十度雪以外なにもない。暗い。雪が降っていて視界が悪い。おまけに寒い。ひとえに寒い。
なぜだかはわからないが、どうやら一晩のうちに、相当遠くに来てしまったらしい。
(シナリオ荒削りすぎんだろ、大丈夫か?)
室内で床につき、起きたら雪原の上にいた。
現実的に考えればまずありえないことなのだが、『ゲームだから』という魔法の呪文で強引に納得にいたれるのはやはり、架空の物語の強みなのかもしれない。
うー寒い寒い、と胸の前で左右の腕を交差し、自分自身を抱きかかえながら、幸人は夜明け前の雪原を向かうべき先もわからないまま歩き始めた。
攻略サイトやSNSで同じゲームをプレイしている誰かに進めかたを聞くこともできる。だが、それでは面白味がない。そのためもあって、発売日にゲームを購入したのだ。
主人公というキャラクターを通してシナリオを楽しむのではなく、偶然にも数奇なる運命に巻き込まれ、後の世までも語り継がれる、どこかの世界のいち市民の人生を生きたい。生きられなくとも構わない。人生とはときにそういうものなのだから。
「うおおおおおお!」
幸人は吠えた。
止まない雪が頬を打つ。
予測不能。荒唐無稽。今度の人生は楽しめそうだ。