1−6:今宵の空は、どうやらいつもと違います
「そうだ。ミカ、屋根見ようか」
器を空にして、名残惜しそうに木匙をもてあそびながらヴェッティが言った。
極北のこの地において、家の屋根や外壁に欠陥が出るのは文字通りの死活問題だ。
今日は屋根に点検にはうってつけの、雪も風もほぼない日。こんな日は滅多にない。
思いつきで口にしただけだから材木はおろか、工具もろくに準備していないし、刻々と暮れどきも近づいているが、別日のために修繕が必要な箇所をあらかじめ見つけておくくらいはできるだろう。元々そこまで明るくもない世界、灯もあるので、暗くなるぶんには問題ないのだが、暮れてしまうと、気温ががくんと落ちるのだ。
白金の髪をいじるルミの頭を軽くなでてから、ミカは席を立つ。
「明かり、持ってくるね」
「頼むーーほれ、行くぞ。お嬢様」
差し出された手のひらは、弓だこが目立っていて、お世辞にもきれいなものとは言いがたかった。この人には敵わないなと思って、ルミはおずおずとその手を握った。
「……幼女誘拐よ、こんなの」
当分、素直にはなれそうもない。
◇
灯の準備は、ほんのすこしばかりではあるが、手間がかかる。
手元を照らしたい時には、ろうそくを使う。国が違っても、それはおおむね共通だそうだ。しかし、ここ極夜の町でろうそくは高級品だ。ろうそくの材料である蜜ろうは、みつばちから拝借することになる。そのため、養蜂は世界中のあらゆる場所で行われているが、どうやら、みつばちたちは寒いところが苦手らしい。
それでは、冬の長い地域ではろうそくの代わりになにを使うのかというと、あざらしの脂である。
あざらしの脂は、おもに海のほうの地域から来る行商人から手に入れることができる。肉は、彼らが獲れたてをすぐに食べてしまう。同じ北国に暮らす者でも、文化の違いはさまざまだ。
ほんのりばら色をした脂を、自分たちで絞って、芯を入れて明かりとして使う。絞るのに時間がかかるから、たいていの家には灯をすぐに使えるよう、小瓶にいれて、固まってしまわないよう暖炉の近くなど、常に暖かいところに置いておく。
植物の種子などから油を絞ることもできるが、どれもこの北の不毛な土地で育つような植物ではない。実は、トナカイの脂も灯に向いている。が、なにぶん普段は人の行き来などほとんどない小さな町、脂を買うという口実で、行商人からまだ見ぬ土地の話を聞かせてもらうのがイムサネッパの民は好きなのだった。
もちろんミカもその一人だ。
窪みのある容器に液状にした脂を流し入れ、芯をさして火をつける。
ぽわん、と橙色の火がともる。
容器の溝に火屋をはめこんで準備は終了。注ぎ足しの脂は外で冷え固まらないように腹にしまっておく。
灯火をかかげたミカが玄関を出て建物の横へとまわると、ヴェッティが雪をおろし用の専門の道具と円匙とを用意していた。壁にはすでに、はしごが立てかけられている。
「ルミは?」
「上だよ」
と言って、ヴェッティは屋根のほうを見上げた。
「ミカ! はやくはやく」
頭上からルミの声がした。全身の防寒具はすべてトナカイの毛皮でつくられているが、雪靴についた房や帽子の折り返しには、飾りとして、この地方ではなかなか手に入りにくい鹿の夏毛が使われている。こんがりとした褐色に散る、白のまだらが愛らしい。
ミカ、ヴェッティの順で二人も屋根の上にあがる。
この宿屋ーー極夜の町において唯一の宿であるため名前はないが、誰かに説明するときなどは看板から『すみれと竜の宿屋』と呼ばれることが多いーーは一階だけの建物だ。そう高い建物でもないのだが、周りの建物もほとんどが一階建てのため、屋根にあがるだけで空はぐんと広く、近くなる。
帰ってきたときに降っていた粉雪も止んでおり、常夜の空は晴れ渡っていた。
「ようし、さくさくやろう」
手順はおもに三段階。
まず、雪下ろし用の道具でざっくりと雪を落としてゆき、つぎに円匙で落とし残しを削ってゆく。最後がいちばん時間がかかり、灯を近づけて、注意深く屋根の剥がれや傷みがないかを確認していく。
なんとも地味な行程である。
作業に没頭する二人のかたわらで、民謡を鼻歌で歌いながら本人曰く雪うさぎを作っているルミだったが、目や耳につける植物がないのでどう見ても白パンや白大福の類にしか見えない。
「うさぎがひとつ、うさぎがふたつ……うーん。この子はなんか大きくなっちゃったから、くじらにするね」
朝あんなに泣いていた子が、いまはにこにこと一人遊びに興じているようすを見て、ミカはひとまず安心した。
口を閉じ、慎重に屋根を確かめていくヴェッティ。ミカもまた、無言のまま彼の手元を照らす。
先に沈黙を破ったのはミカだった。吐く息が氷の霧となる。
「出るかな」
「もしかしたらな」
ぼそりとした物言いに、ヴェッティも短く答える。
お互い、視線は手元においたまま、感情の起伏も感じとれないほどの淡々としたやり取りだったが、その主語は言わずともわかっていた。
進行は順調だが、やはり時間は要する作業だった。
外気も下がってきたのを肌で感じる。
自分たちはまだ構わないが、ルミのことを考えるとそろそろ限界か、とミカが少女に終わりを告げようと口を開きかけた、その時。
「ミカ! ヴェッティ! 見て」
顔を上げたミカが最初に見たものは、天頂色のルミの瞳が、朱くきらめく光景だった。
「北極光……」
極夜の町においてのオーロラの呼び方である。
暮れどきに、乾いた声が空へと消える。
たしかに朱いと感じた光は、いまはよりいっそう深く、紅いものとなっていた。