1-2:ようこそ、極夜の町へ!
ミカは、涙が枯れると糸が切れた人形のように眠りこくってしまったルミを抱えて寝台へと運んだ。分厚い毛布をかけ、隙間のできないよう、端を内側にくるんでやる。薪は、起床時に余裕を持って暖炉にくべていたが、念のためにもう何本か足すことにした。
毛布の山が、ルミの寝息にあわせて上下する。
「……ふう。やっと落ち着いてくれたみたいだ」
しばらく起きないだろうと判断したミカは、外出の準備をすることにした。
まだ二十代ではあるが、いっぱしの宿屋の経営者たる者、ここ自室を出たならいつ何時でも客人を出迎えられるように、というのが彼の信条だ。昨晩の宿泊客は未明(もっとも、この時期ここでは一日の三分の一ほどが未明のようなものなのだが)に宿を発ったが、新たな客が訪れないとも限らない。調理場に立つ前に顔は洗っていたし、髪も整えていた。
立ち襟の上衣に、落ち葉や土の色を思わせる、落ち着いた色合いの毛糸の上着。体格にあわせて下衣は細身だ。
北国で生きる者は、外と内との激しい気温差と付き合っていかねばならない。
外に出る時は肌着から頭、足の先まで外出用の防寒衣服を。屋内で過ごす時ならそれなりの格好で。逆は、どちらの場合も、体調によくない。
なので出かけるまえ、帰ったあとに衣類をすべて着替えるのがここでは普通のことなのだが、それではミカの信条に反してしまう。
そこで思いついたのが下衣の上から片足ずつ毛皮を筒状に仕立てたものを履くという方法で、猟師をしている友人に頼み、白トナカイの毛皮で作ってもらった。これで、外から帰った時に受付に誰か来ていたとしても、覆いを外すだけで待たせることなくすぐに対応することができる。むろん、実際にそういった場面が起こりうるのかどうかは、また別の話である。
とにかく、足に白トナカイの毛皮を履き、いくつかの獣の毛皮で作られた帽子付外套をかぶったミカは、自宅兼仕事場をあとにした。
ミカとルミの暮らす町、イムサネッパの町はちいさな町だ。
全国的にみた相対的な人口からみても、実際の雰囲気からしても、村といったほうがしっくりくる規模感ではあるが、昔はもっと賑わっていたのかもしれない、はたまた単なる便宜上かもしれない、事実として、町と定義づけられている。
一年のうちほとんどにおいて太陽ののぼらない『極夜の町』。
そうたくさんいるわけではない、この町のことを知る人たちからは、そのように知られている。
ちいさな町だ、町人全体が家族のようなものである。
極夜のため、出歩いている住民はほとんどいないが、だからこそ、誰かとすれ違うことがあれば、どちらからともなく声がかかる。
「ようミカ、おはよう! いや、こんにちはか? ま、なんでもいいわな」
肉屋の店主はそう言って、腰に手を当てると、目を大げさにまるくしてみせた。
口元を毛皮で覆っているため、そのぶんを目玉で語ろうとしているようだ。
「おはようございます」
「ルミちゃんは? お留守番か?」
「まあ、そんなところです」
「こないだは俺ん家の雪かき、手伝ってくれて助かった。あのあと、もう少し続けたらよ、雪の下から、とんでもねぇお宝が出てきやがった」
「うん十年ものの酒樽でしたっけ? ヴェッティから聞かせてもらいました」
「美味かったぞぉ、天使にだいぶん持っていかれちまってたけどな。今度来たら飲ませてやるよ。お代は、雪かきでいいぞ」
「またですか。もー、勘弁してくださいよ」と、ミカはおどけてみせた。
たわいない会話の応酬をもう二、三ほどつづけたあと、肉屋の店主はそんじゃまたな、と片手を上げた。
ミカは、町はずれのほうへ歩いていく。
町なかよりも、町はずれのほうが、人に雪が踏み固められていないためか、意外と歩きやすかったりするものだ。辺りは、暗くこそあるが、雪は菓子作りの仕上げに慎重にぱら、ぱらと振られる程度の粉砂糖ほどにしかなく、風にいたってはまったくない。散歩にはぴったりの、いい天気の日だ。冒険にとっても、きっと。
いくつかある町の出入り口には、それぞれに立て看板がある。
片側の文句は統一されている。
『ようこそ、“極夜の町”イムサネッパへ!』
旅行者に向けた、お決まりの文句だ。
もう片側は境界の向こう側にあるものによってまちまちで、深い森へと通ずる箇所には気を付けたほうがいい獣や、おいしい果実の情報などがみっしりと。凍った川(ごくわずかだが、凍っていない時期もある)へ続く道には、川むこうの湖で行う、小魚釣りの指南絵が。だいたい、町を出た先で役立つであろう先人の知恵が書かれていた。
いま、ミカのいる、町のいちばん北側の出入り口にも看板はあった。
看板には簡潔にこう書かれていた。
『お気をつけて』