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1-1:辺境の宿屋はお客が少ない〜サーモンスープを添えて


 朝の、においがする。


 少女はすんすんと鼻を動かして、気怠けだるげな様子でまぶたを開く。質感も色もすすきの穂先を思わせる髪が寝台ベッドいっぱいに広がるさまは、まるで見頃を迎えたすすき野原だ。暖炉にくべたまきからは、ぱちり、ぱちりと火花のはじける音がする。まだ寝てたいよと抱きしめたのは、綿雲のようにふわふわな、毛布代わりの羊の毛皮。今日も今日とて窓の外は夜さえ明けない濃鼠こいねず色だ。においだけが、少女に朝を告げていた。


 この少女、ルミ・オルヴォッキ・トーコ・テュッキュはなにも、特別鼻が良いわけでもなんでもない。どこにでもいる、剣も魔法も知らずに育った齢十一の女の子だ。生まれた土地柄か、年の割に背丈は高い。

 ルミは、かかとを上げて鏡をのぞきこみながら、猪毛のブラシで髪をかした。

 この鏡は、部屋の主の身長に合わせて置かれている。


 朝のにおいが、よりいっそう濃くなった。


 夜明けや朝焼けに、においなどない。当然のことだ。もしかしたらあるのかもしれないが、そうだとして、もう何十日前のことだったろう。

 ルミのいう『朝のにおい』とは、もっと即物的なものだ。

 

 とっぷり、こっくりといった表現が似合う芳醇な乳脂肪バターが、大鍋のなかで骨と野菜の出汁(スープストック)と混ざり合うことにより奏でるにおい。ときおり、大鍋の表面を軽快に跳ねる、遠くの海で育った極北鮭サーモンのにおい。木の器に盛り付けられた極北鮭のスープの上に散らされる、さわやかな香草ハーブのにおい。


 それから。


「まったく、すごいなルミは。いま丁度、パンが焼き上がったところだよ」


 ほのかな整髪剤のにおい。


 ぴゅう、と似合わない口笛を添えながら、調理場キッチンに立つ長身の男は、朝食を摂りにやってきたルミを迎えた。男の髪はぴったりと後ろに撫でつけられており、ブラシを入れてもほわほわとしたルミのものとは対照的だ。


「ミカは、タイミングぴったりにパンをやいてくれるまほう使いだもんね」

「そりゃまた、ずいぶんとスケールの小さい魔法使いにされたなぁ」

 顔を見合わせて、二人はくすくすと笑った。


 事実、ミカーーちなみに、彼もまた、ルミほどではないがミカ・ヘンリック・ヒルヴィというやたらと長い名前を持っているーーはルミの身支度の音からパンを焼く頃合いをはかっているのだ。

 

 ミカは魔法使い。


 恋や愛といった文字をあてはめるにはあまりに清く幼い感情。それを言い表すのにこれ以上の言葉があるだろうか。


   ◇


 食後のお茶を淹れるのはルミの役目だ。


 色こそ何種類かあるが、同じ形のマグばかりがずらりと並ぶ戸棚。

 そのなかから、欠けのあるものを二つ選んで熱々のお茶を注ぎ入れる。


「これ飲んだら、プラデッラさんたちを起こしてくるね」

 灰色と濃い桃色のマグのうち、灰色のほうをミカに渡しながらルミが言った。


 マグからは湯気が立ちのぼっている。

 こいつはまだ熱そうだな、と判断したミカは、卓上にある硝子ガラス容器ジャーに手を入れると、焼き菓子を取り出し口にした。まずいといってルミは食べてくれないのだが、異国の香辛料をふんだんに練り込んだ自信作だ。


「その必要はないよ」

 ミカはそう答えて、かじりさしの焼き菓子を向かいに座るルミの前に置いた。すかさず、待ってましたとばかりにすすき野原のあいだから、青いとかげが顔を出す。森の果実(ビルベリー)のようにぽてっと平面的な青色をしたこのとかげは、二人から愛情をこめて『ムスティ』と呼ばれていた。


 ムスティはおはようの挨拶代わりに舌をちょろりと出して、いそいそと焼き菓子にかじりつく。

 嬉々として焼き菓子を食べる生き物がとかげなのかは疑問の残るところだが、ムスティを十人に見せれば七人が「とかげ」、残りの三人は「やもり」と答えるだろう。それくらいのとかげ度合いの生きものである。


「そっか……」


 マグをぎゅっと両手で包むと、眉根を寄せて、ルミはうつむく。

 あどけない顔が、お茶に映ってくにゃりとゆがんだ。


「また、すぐに出発したんだ」

「うん」


「ミカ、昨日もあんなに夜おそくまで料理つくってたのに」


「はは」ミカはつとめて優しく笑ってみせると、手をのばしてムスティの頭をなでた。「昨日“も”って……。プラデッラご一行様が、二十二日ぶりのお客様だったじゃないか」


 二十二日ぶりのお客様、という言葉ワードは、ルミの涙腺を決壊させるには十分だった。

「うっ、うぅ〜……」

 朝食後の卓上で、だいぶん早めの雪解けがおきる。


「どうして、どうしてなの……ミカはいつだって完ぺきで、どんなときにだって優しいのに。だれよりも後にねむって、だれよりも先に起きて。百種類よりもずっと多くのお話を知っていて、おねだりしたら、面白おかしく……ときにはこわく……いつでも聞かせてくれるのに」


「ルミ、」


「ねえ神さま。私、ミカが大好きよ。とかげ……とかげしか、連れていなかった私に、世界のすべてを与えてくれた。温かい部屋、温かい食事。このセーターも、ミカが編んでくれたのよ……。なのに私、なんの見返りを求められたことだってない。それなのに、神さまはミカのどこが気に入らないの……どうして……」


 四つもの食卓が備わった、広々とした食堂ダイニングに、大泣きがわんわんと響く。


「大丈夫だ、ルミ、大丈夫だよ。このくらい、ヴェッティが遊びに来たら一人でぜんぶたいらげちまう」

「…………」

 小刻みにルミの肩が震える。

 違う、そうじゃない。神は、宿泊客は、心からのミカの歓待に、果たしてどれだけの見返りを与えたもうたのか。焦点はそこなのだ。それなのに。

「なんにも、なんにも大丈夫じゃないじゃない……」

 

 こうなってしまったルミは、ミカにはもうどうすることもできない。

 ミカはおもむろに立ち上がり、大鍋にふたをした。


(ほかの魔法も、使えるようになれたらなぁ)


 調理場の換気用につくられた窓から外を見る。

 ふだん通りの色。ぼた雪でどろりと濁ったなまり色。

 

 極夜の町の夜は明けない。



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