プロローグ:いわゆるひとつのエピローグ
世界は救われた。
一人の少年と、彼の四人の仲間によって。
夜空の星のまたたきは、人知れずこの大地の運命に変革をもたらした彼らを祝福しているかのようだった。すくなくとも少年、碓冰幸人はいまこの時、そう感じていた。
祝勝会と称して、町の酒場であーだこーだと旅の仲間になってからのあったことを、なかったことまでときどき交えて散々語って。おいしい食事をたらふく食べて、うまい酒をしこたま飲んで(もっとも、幸人は葡萄の果汁をシロップで割ったものばかりを好んで飲んでいたのだが)。いい具合に話すことも、口にするものもなくなった頃合いに、誰が言い出すことでもなく、五人そろって店を出た。
同じ宿屋に泊まるのだ、五人とも、同じ方向に足が向く。だが足どりは、五人それぞれが自由に選んだものだった。静けさのなか、虫たちの交響曲がいやに響いた。
身も心も火照った五人のからだを、ひんやりとした夜風がなでる。
頭の後ろで腕を組みつつ、幸人は空へ目をやった。
(みんな、一人の時間に浸りたいよな……わかるよ)
どうしてか、いつもより空は高い。今日この日まで背中にずっと、身の丈ほどある大剣をかついでいたのもあるだろう。宿屋に留守番させている相棒のことを思って、幸人の口元がわずかに弛む。
「あれれー? コート、なぁにニヤニヤしてるのー?」
静寂を破ったのは幸人より二つほど年下の少年、エゼキエルだった。
「んなっ!」幸人は声のしたほう、自分の右ななめ後ろを振り返る。「何言ってんだジーク! オレは別にーー」
「そういえばさぁ」
「なんだよ」
「はじめのころさ、コートはなかなか僕のコト、名前で呼んでくれなかったよね。従弟なのにさ。いまでこそ、あだ名で呼んでくれるけど」
「……まぁな」
元気がいいのは悪いことではない。現に、この旅路でジークの笑顔が歌が、何度彼らの苦境を救っただろう。
だが、幸人は十七歳だ。現実では高校二年生の彼にとっては、ときたまこうして、ジークの無邪気さを邪魔だな、と感じることもあった。
自分からのリアクションを待っているだろうジークを一瞥して、幸人は左ななめ前を歩く少女を盗み見た。
ただの草むらのあいだの小道さえ、ランウェイに見まごってしまうかのような歩き方。
葡萄酒の杯をいくつも空にしてもなお、まっすぐに伸びるしなやかな背筋。
一歩ごとに、肩甲骨のあたりで切り揃えられた髪がこまかく揺れる。
この世のどんな闇や深淵にも決して染めることのできなかった、漆黒の髪。
(やっぱ、きれいだな)
彼女に与えられた名前はジュニパー。幸人が数ヶ月貯めたおこづかいを全ツッパしてなお、お釣りが来るほどの運命の女性だった。
幸人の見るものに目ざとく気づいたジークが口を開く。
「あー! やっぱりジュニパーのコト考えてたでしょ」
「えっ!?」今度は図星だ。「ええと、それはだな……」
「あら、ほんとう?」
ジュニパーは足を止め、二人を向いてふんわり笑う。
こういった、すこしおとなのお姉さんに弱いのだ。幸人の耳は簡単に赤く染まった。
星灯りの下のほほえみに、幸人は続ける言葉も失う。
「…………」
「大丈夫だよ、コート。今晩僕、違う部屋で寝るから」
ジークはにやりと、意地の悪い顔をする。
「不潔だわ」
小さな声で吐き捨てたのは、メンバー中唯一の治癒術式の使い手であるリナリアだ。
その棘が幸人の耳に刺さることはなかった。
コンコン。
頭の中の妄想の扉を、やさしく叩く音がする。
(ジュニパーちゃん、ふだんの装備は厚いけど、そのぶん、いや、それだからこそ中はイイんだよなあ)
まんざらでもない幸人の口元がふたたび弛んだ、そのとき。
「おいおい。この先はまだ、幸人ぼっちゃんには早いだろ?」
パーティ最年長のアロイスが、芝居じみた物言いで五人の中心に躍り出た。こんな場面でも一人だけ警戒を解くことなく、用心棒のごとく刀の柄に手をかけている。
アロイスはジュニパーとの距離を詰めると、躊躇うことなくもう片方の手を使い、彼女の顔を上に向かせた。
「なあジュニパー。飲み直そうぜ、このあと二人で」
「いいけど、わたしお酒強いわよ?」
「もう! お姉さまはどうしてそう男ホイホイなのよ! 今日はこれから、リナリアと朝まで一緒に過ごすんだから!」
しっかとジュニパーの腰に腕を回して離さないリナリアを見て、女って役得だなあ、と幸人は思った。
(二周目は、女主人公で遊んでみるかな)
『しゅごしゅんだからぁー!』と、おおげさな口真似でからかうジークに、彼より一つ年上なのに、まるで幼子のように怒るリナリア。何度となく繰り返されてきたやり取りだ。
「ははっ、あははは!」
「? コート?」
真っ先に反応したのはジュニパーだった。
「いや、なんかさあ……オレ達こうして、世界中で馬鹿やってきたなあって思ってさ」
「そうだな」手持ち無沙汰になった中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、アロイスが同意する。「ま、俺がお前達と共に歩み始めたのは、弁柄の町からだったがな。それこそ、ジークやジュニパーとは同郷なんだろう?」
「ほんとだね」
「そうそう! まさかこの歳で、五大陸の土を踏んじゃうとはねー!」
五人の中でいちばん、旅行好きのジークが嬉しそうにはしゃぐ。彼の旅の相棒は、みっしりと手書きの洋墨文字が踊った世界地図であった。
幾つの月日を五十三時間で駆け抜けてきただろう。
幸人はふたたび感慨にふける。
もう一度沈黙が五人を、夜空ごと飲み込んで、包み込もうとしたその瞬間。
「ねえねえ! あれ見て!」
天に人差し指を向けながら、リナリアが興奮したようすで言った。
四人ははたと我に返り、目を凝らす(アロイスは、同時に柄を握り直した)。
指の先。遠く、木々の向こうの空が。
燃えている。
違う、そうではない。この現象は。
「オーロラ……」
恍惚とした五つの声が重なって、その現象の名を読み上げた。
リナリアが兆しに気付いた時はまだ薄白い一本の筋だったというのに。
オーロラの光線は、あれよあれよという間に天球をまばゆいばかりの極彩色で塗り替えていく。
常夏の国でくつろいでいた孔雀の尾羽のような緑色。もぎたてをかじってみたら、想像以上に酸っぱかった檸檬の皮に似た黄色。ようやくたどり着いた海に沈んでいった夕焼けよりも、ずっとずっと深い朱色。
夜空のキャンバスに新たな色がのるたびに、旅の思い出が五人のあいだを駆けてゆく。
「感動しちゃうなぁ! リナリア、見たの初めてかも!」
「すごいなぁ、図鑑と辞典で知識としては知っていたけど、まさかホンモノに出会えるとはね! コートも初めてでしょ?」
「いや……」
幸人は考えながら呟いた。
(オレは、知っている。この光そのものを。でもここでじゃない。どこでだ?……そうか!)
天を覆うヴェールに隠されていたのは記憶の奥底。
「ジーク、ジュニパー、リナリア、アロイス!」
大地を踏みしめ、幸人は腹の底から仲間を呼ぶ。
「一晩寝たら、出発するぞ!」
四人の顔には『どこへ?』と書いてあったが、異を唱えるものはいなかった。
ジュニパーが一歩、またもう一歩と幸人の元へと歩み寄る。彼女の瞳に、夜空を映した星と光がまたたいた。
「こんどは、どこへつれていってくれるの?」
「決まってんだろ?ーー世界の果てだ!」