動き出す悪
「カーティス」
「はい」
「情報共有の徹底を。この際、多少の誤解が生じても仕方ありません。死者か生きている人間か、それがわからなければ縛るくらいの勢いで。それから決して噛まれないよう、目の前の人間が死者かもしれないことを念頭に置いて行動させるように」
「承知しました」
ティアが命じると、カーティスは部屋から飛び出していった。
「少年」
「は、はい!」
ティアは領主の娘である。街の子どもにとっては、天上の人にも等しい。少年は背筋を正し、がちがちの『気をつけ』をする。
「あなたは、噛まれないよう気をつけろと。ただそれだけ触れ回りなさい。いいですね。とても重要な役割です。さ、行きなさい」
「わ、わかりました!」
少年もまた部屋を飛び出していく。
残ったのは、ウォルターとティアだけだ。
「あの、オレも何かをだな」
「あなたは……何もしないことです」
まさかの戦力外通告に、ウォルターは肩から力が抜けた。
「オレはあの子ども以下か?」
「以下とか以上とかいう話でなく。いいえ、以下ですわね」
「ひどくないか!?」
「よそものが混乱時に動き回ってもさらなる混乱と悲劇を生むだけですわ。あなたが風聞で濡れ衣を着せられてることを思い出しなさい。暴徒に嬲られてもおかしくないんですのよ?」
「あ」
ようやく、ウォルターも得心が行く。
「わたくしは屋敷の者や、早馬など……とにかく、事態を沈静化させなければ。いいですか。くれぐれも、くれっぐれも、何もしないように」
入念に釘を刺され、ウォルターはなんとかうなずいた。
それでティアは満足したようだった。
「この部屋にいなさい。出てはなりませんわよ」
ティアは部屋から出ていき、彼女もまた事態収束に動き出した。
ウォルターは、なんとも歯がゆいものがあったが、待っていることしかできなかった。
ティアの言うとおり、ウォルターが外に出ていいことなど、できることなどない。どこまでもウォルターはよそものであり、何なら容疑者であるのだ。
歯がゆいままに、夜になった。
満月がぽっかりと浮かぶ、日付変更前のこと。
疲れきったティアが、屋敷の客間に戻ってきた。
魔導具の笛をいじっていたウォルターは、おかえり、と迎える。
「つ・か・れ・ましたわ……」
「うん、みたいだな」
だらしなく、ティアはソファに寝そべる。
すっかり脱力し、ソファに溶けるのではないか、というほどだ。
「自らの足で走り回り、指示をこなし、なけなしの魔力で暴れる人間や暴動を鎮圧したり……動く死者は結局、8名だけに留まりましたが、そこから派生した混乱の多さときたら……」
「えーと、おつかれさま、だったな」
「まだ終わっていませんわ!」
ずびし、とティアはウォルターを指差す。
「いわば今は小休止。少し休んだらまた動かねば」
「貴族なのにか?」
「貴族だからですわ」
「……立派だな」
「何を」
「立派だ」
ティアは体を起こし、横髪を払って得意げに笑う。
「当然のことですが、ええ、受け取っておきましょう」
「やっぱり、オレにできることはないか?」
「ありません」
「オレも何かできないか考えたんだけど、取り押さえる手伝いくらいは」
「今のところ、あなたには、邪魔することしかできません」
「そっ……こまで言うか?」
「いえ、失礼しました。申し訳ありません。わたくしも、疲れきっているのですわ。心から謝罪を」
「いや」
礼儀にうるさいティアが、見栄を重んじるティアが、こうまであけすけになっているのだ。
仕方がない、と受け入れる度量は、ウォルターにもあった。
「あなたの逸る気持ちはわかります。むしろ何もしないでいてくれて、助かりました。何もしない、それが助けになることもあるのです」
「こっちとしては、情けない限りだよ」
困った状況を目の前にして、助けになれない。
10歳の子ども以下だ。
「助けが必要になったら、必ずあなたを呼びます。決して、あなたを役立たずとか、そういうふうに見ているわけではありません。ただ、どうしたってあなたは今、濡れ衣を着せられたよそもの。それが、揺らがない事実で、あなたが外に出ればさらなる混乱が生まれます。わかってくださいますか?」
「悔しいが、わかるよ。ただ、言ったな? 助けが必要になったら」
「ええ、必ずあなたを呼びます」
ウォルターは小指を差し出した。
ティアは苦笑して、それに応じた。
指切りを交わした——その瞬間。
——鐘が鳴る。
本来は刻を知らせる鐘だが、夜には鳴らさないものだ。もし鳴らされるとすれば、
「何か緊急の事態が!」
ティアは部屋から出て行く直前、ウォルターに向かって言った。
「部屋からは」
「呼ばれない限り出ない」
「よろしい」
ティアは部屋から出ると、「何事です」と大声を上げた。
状況を確かめようと言うのだろう。
ウォルターは、ただ、待った。
悔しいのは変わらない。それでも、自分が出て行っても、混乱を招くだけ。
ただ、呼ばれた時にすぐ動けるよう、備えた。
気力は高まる一方だった。
* * *
夜更けに鐘が響き渡るより、15分は前のこと。
牢の見張りはいなくなっていた。
街の騒ぎは、地下にまで聞こえてきている。オーロックの仕掛けたものであり、予想通りでもあった。
オーロックは、本当ならもっと時機を見計らい、もっと手の打ちようのないよう工作をしていくつもりだった。
「あの男の妙な薬のことさえなければ……」
ある不測の事態——あの錬金術師の薬を調べている最中、街の男に飲ませていた魔術薬の効き目が急に消えうせるなんてことがなければ。
そうすれば、もっと派手に、取り返しのつかない事態にできた。
「そろそろ出てきたらどうだ?」
柵の向こうには、街の若者に扮した帝国の間者がいつの間にか現れていた。
魔術薬を作る手伝いをしてくれた男でもある。
「逃げるならいまが絶好の機会だろうに」
「処刑の日を待ちたいんだよ。そのほうが、派手でいい」
「お前の趣味など知ったことか。悪趣味め。我々は別にお前でなくてもいいんだぞ。別の人間にやらせてもいいんだ」
「おやおや。それは無体な。わかりましたよ、と」
オーロックには、金属の手かせと足かせがはめられていた。肉にしっかり食い込んでいた。
それが、すっ、と抜けたのである。
縄抜けの類でも、関節を外す技の類でもない。そんなものでは抜けられないほど、きつく、かせ《・・》で繋がれていた。
それだけではない。
オーロックは、鉄の柵を、何もないかのごとく歩いてすり抜けた。
もし事情を知らない人間がいたなら驚愕したところだ。帝国の間者は、一連の様子を見ても、眉をぴくりとも動かさなかった。
「お前の趣味にかまけて、目的は忘れていないだろうな」
「わかっているよ。王国を、死者の王国に変えるんだろ?」
「覚えてるならいい」
そんなことを話して、地上に出たところだった。
そこは開けた草地となっており、周囲には塀と、自警団の詰め所がある。その詰め所から、あくびをする青年が出てきていた。
間者が物陰に音もなく身を隠す一方。
オーロックは小石を蹴飛ばし、物音をさせた。
「おっと、しまった」
とまで言う始末である。
間者が憎悪と嫌悪の入り混じった顔を向けるが、声を発しはしない。オーロックもろとも見つかっては不都合がある。
「なっ、貴様!」
自警団の青年は、一気に眠気が飛んだようだった。
「誰か! オーロックが、オーロックが逃げ出している!」
青年は必死に人を呼んだ。
オーロックは彼に無造作に近づいていく。これまで患者に向けていたのと同じ微笑を浮かべながら。
青年はその不気味さに、二歩、三歩と退いた。
逃げ出しはしなかったのは、責任感ゆえだろう。
「オーロック、貴様どうやって牢から出た!」
「そうだねえ。どうやってだろうねえ」
「誰か! 誰かいないのか!」
普段なら、こうして叫べば3人くらいは自警団の人間が駆けつける。
しかし今は、平時ではない。死者8人蘇り、それにともなう混乱や風聞、魔女狩りめいたことが横行した。その対処で追われていて、牢のある詰め所でさえ手薄になっている。
ちらほらと、街の普通の人間が顔を出すものの、遠巻きに見るだけだ。
それを受けて、オーロックはますます笑みを深くした。
「やはり観客がいなければ、ね」
オーロックは、自警団の青年の2メートルそばまで近づいた。
青年は及び腰で、逃げもしなければ捕まえようともしない。
「ほらどうした。重罪人が逃げているぞ? 捕まえなくていいのか? それでも自警団の男なのか?」
オーロックが煽ると、青年も覚悟を決めたようだった。叫んで己に気合を入れながら、オーロックを押さえ込みにかかる。
だが、その寸前、オーロックの姿が消えた。
正しくは、霧となったのである。
青年は捕まえる対象を見失い、捕まえようとした勢いの余韻で、よたよたと前に歩く。
直後、その背後に霧が集まり、それがオーロックに変じた。
「後ろに!」
と野次馬が叫ぶのも、青年が振り返るのもほぼ同時だった。
しかしまったくの同時ではない。
そのわずかな差の生まれる間に、オーロックは青年を攻撃した。
首筋に噛みついたのである。
青年が太い悲鳴を上げ、乱暴に手を振り回す。
それでオーロックは離れたが、青年の傷は深い。
草地の上に倒れてしまった。
ところがまだ悲劇は終わらない。
ほんの10秒経ってから、青年は起き上がったのである。生気もない、青ざめた顔で、首筋の重傷もまったく構う様子がない。
まず、死んでいるはずである。
しかし、動き、立ち上がり、あまつさえ、
「さあ、あそこにいる連中を襲え」
オーロックの命令に従うように、野次馬に襲いかかっていったのである。そこに人間らしさなどかけらもない。大口を開けて歯をむき出しに迫るその様子は、猛獣の振る舞いだった。
野次馬たちは逃げ、その場に残るのは、オーロックと、帝国の間者のみとなった。
間者が物陰から出てきて言った。
「オーロック。お前、わざと目立つ真似を」
「いいだろう? 私の趣味と、きみらの目的。一致しているんだから」
「こんな派手にやってどうする。土地の魔術師が動くぞ。あの得体の知れない錬金術師もだ」
「何を怖がることがある?」
オーロックは役者のごとく、両手を大きく広げてみせた。
「きみと違い、僕は何も怖くない。楽しくて楽しくてたまらないよ。薬師をやるよりもよほど楽しい、人を支配していく感覚はたまらない。きみたちには本当に感謝してるんだ!」
「貴様の趣味に付き合うつもりはない。もういい、勝手にしろ。どうせもう役目は果たした」
吐き捨てるように言うと、間者は翼でも生えているかのように身軽に、木の幹を踏み台に、塀を飛び越え、夜の闇に消えていった。
「ごくろうさん。それじゃ僕は」
好きにさせてもらうとしよう。
オーロックがつぶやいた直後、鐘が鳴った。
緊急事態を知らせる鐘だ。
おそらく、オーロックのことは伝わったに違いない。
それならば、行き先も決まった。
「なるべく派手なところがいい」
鐘のある礼拝堂、その正面に女神像と池のある広場がある。
オーロックの足はそちらへ向かった。
 




