完勝の意味
「あー、えっと……すみません」
学院の備品を壊してしまったのだ。悪気はないし許可があったとはいえ、壊したのはウォルター以外考えられない。
「これ、けっこう高いんだよねえ」
「べ、弁償します」
幸い、アレイナからもらった金貨がある。
多少そこから出すことになっても致し方ない。それで足りなくなる、というのは考えたくなかった。
「冗談だよ。別に構わない。壊れていてもあまり支障もないしね。そうだろう、ティア」
「そうですわね。残念ながら」
ティアが、水晶球のそばに歩み寄る。
アレイナやレベッカの発言から、ティアが負けることはわかりきっている。なのになおも勝負を完遂させようとする。
その理由が、ウォルターはますます気になった。
ティアは水晶球を握った。
すると1本目のガラス瓶のみが、青白く光る。
底から10分の1の高さだけが光っていた。単純に考えれば、ティアは平均魔力量の10分の1しかないことになる。
「私の負けは明白ですわね」
2本先取の勝負で、3本とも負けたという事実。
ティアが自ら望んだこととはいえ、普通、堪えることだ。
ところがティアは、晴れ晴れした顔で笑うのだった。
ごまかしでも、自嘲でもない、純粋に楽しげに。
「どうして、笑えるんだ?」
「これで笑えなくて、ダルタイン家の娘とは言えませんもの」
ティアは水晶球を放した。
管に繋がったそれは、だらり、と垂れ下がる。
「負けてしまいましたわね。完膚なきまでに」
「だから、どうして」
「あなたと私の差を知るためです。ええ、せいせいするほどに、圧倒的差でしたわ」
決闘の勝敗には、まったくの無意味。
けれど、ティアにとって意義はあったのだ。
相手の無敗、自分の白星0を濁すのでなく。
むしろ相手を完膚なきまでに勝たせ、相手と己の違いを知る。差を知る。
とても普通の人間がしようとすることではない。
負けたがる人間も、他人と比べて自分が劣ることを知りたい人間もいない。
高潔なる少女、ティア。
彼女はすべての勝負に負けることで、いや3本目に負けることで、彼女自身の高潔さをこれ以上なく示した。
「わたくしと勝負してくださってありがとうございます、ウォルターさん」
「こちらこそ。礼儀や魔術師のはともかく、貴族の素晴らしさってヤツは、なんか、少しわかった気がする」
今度は、礼儀を間違えない。間違えようがない。
ウォルターは、ティアから差し出された手を、握る。
「それでは、わたくし、用事がありますのでこれで」
ティアは、その場を足早に去った。
急で不自然なことだったから、ウォルターは声をかけようとした。
それを、レベッカに無言で止められた。手を押さえられ、首を振ってみせられたのである。
ティアが部屋からいなくなってようやく、レベッカが口を開いた。
「こちらの意図を察してくれてありがとうございます」
「その、ダルタインさんの様子、妙じゃなかったか? でしたか?」
「私にも敬語は結構ですよ。私も、使わないようにするから。ファースト・ネームで呼んでください」
「じゃあ改めて。レベッカさん。なんで声をかけるのを止めたんだ?」
「ティアがかわいそうだからだよ」
あのですね、とレベッカは腹の前で指を組んでうつむく。言いにくいことを、なんとか形にしようとしているふうだった。
「私、よく言葉選びを間違えるの。だからどうか、気を悪くしないで聞いてね? 決して、ティアをバカにしているわけではないの」
「それにしても、かわいそうっていうのは、どう転んでもバカにしてないか?」
レベッカははにかんだ。
「そうかも。あの、今から言うことは秘密にしてね?」
ウォルターはうなずいた後、アレイナに目を向けた。
アレイナは目を閉じてうなずき、肩をすくめた。きっと秘密を守ってくれるだろう。
「たぶん、きっと、ティアは泣きに行ったんです」
「そんなバカな」
「信じられない? じゃあ夕方にでもまたティアを探してみて。『うっかり寝入ってしまいましたわ』って赤くなった目のことをごまかすと思うわ」
「潔く負けを認めてて、それでも? あれは嘘だったのか?」
「嘘じゃない。泣くのは、ううん、この場で泣かなかったのは、見栄。言ったことは本心。だけど、泣くのも本心。ありえないと思う?」
「いや。人の心は複雑らしいからな」
これは経験ではない。セリンの教えだった。
そういうことにかけて、師匠より何歩先も行く弟子なのだ。
「ティアにがっかりした? 口ではあんなこと言って、陰ではわんわん泣いてる。軽蔑する?」
「まさか。これが正しいのか、わからないけれど、立派。そう立派、というのがまず頭にきたよ」
レベッカの拳が、ウォルターの胸元に突きつけられた。
暴力とはとても呼べない、あいさつのようなものである。
「正しい。すごく、正しいよ。120点あげましょう」
「それはどうも」
軽口に、ウォルターは少し笑う。ただ、と続けた。
「泣く姿を見せてもいいのに、とも思う」
レベッカの拳がめり込む。
地味に痛かった。
「あの、痛いんだけども」
「八つ当たりで、嫉妬です」
これほど堂々とした八つ当たりや嫉妬の宣言もないものだ。
「私、ウォルターさんに負けませんので」
「ん? ああ、えっと、オレも負けない、ぞ?」
なんとなく張り合ったウォルターに、レベッカはあきれるように笑ってみせた。
* * *
そして夕方。
食堂で会ったティアに、ウォルターは充血した目のことを尋ねた。
すると、
「うっかり寝入ってしまいましたわ!」
レベッカの言ったとおりのことを、そのまま口にしたのだった。
ウォルターは身を震わせて笑った。
「な、何がおかしいんですの!?」
「いや、すまない。笑うつもりは、くっ」
「笑っているではありませんか!」
顔を真っ赤にして、ティアは大声を上げる。
怒らせたいわけではないので、ウォルターは頬の内側を噛んで笑うのをやめた。
「ふぅ。悪かった。これも、無礼、だよな?」
「当然です。まあ、無礼は無礼ですが、数えないことにしてさしあげましょう」
「それはまた、なんでだ?」
「決闘の礼を、言わねばならないからです」
軽く、ティアは頭を下げた。
「感謝を。おかげで、吹っ切ることができました」
「何かした覚えはないんだけどな」
「そうでしょうとも。ですが、あなたという存在が、在り方が、私を吹っ切れさせてくれました。当たり前の魔術師として在ること。それを目指すのでなく、特別な魔術師として在ることを目指す。ようやく、その道を選ぶことができました。実に、清々しい気分ですわ」
夕闇に溶けたティアの顔は、美しいものだった。




