迷いの森
馬車が灰の森の前に到着した。
ウォルターは、もう馬車に乗らなくていいのだと喜ぶ一方で、ここまで来てしまったなと思ってもいた。
「どうしたね兄ちゃん、やっぱり引き返すかね?」
と、ここまで馬車で運んでくれた男がウォルターに聞いてくる。
戻るとなれば、また馬車に乗ることになる。尻が痛くなる。
そもそも何のために来たのか。金貨50枚のためである。
いまさら、引き返すという選択肢はなかった。
「いや。ここまでどうもありがとう」
「そうかい。まあ、また明日ここいらにいたら拾ってやるからな。気をしっかり持てよ。死ぬなよ。いいか、死ぬなよ」
「繰り返し言われると怖くなるんだけど、え? そんな危ないところなのか?」
ウォルターは、馬車から森のほうに視線を移す。
谷の向こう、木製の橋を渡った先は、灰色の森が広がっている。
幹の色が白っぽい灰色をしていて、花や果実が1つもついていない。葉っぱ1つだってついていない。地面に落ちているふうもない。
こうして森の体裁を保っているのが不思議なほど、枯れきっていた。
「迷い込んだ生き物を養分にしてるって噂もあるくらいだからなあ」
「こわっ」
ウォルターが言うと、御者の男がさらに教えてくれた。
「昔、お偉い宮廷魔術師様が作った森らしいよ。資格のない人間が入ると、迷った末に養分にされるとか。まあ、確かめたことはないがね」
「噂だろ? あんまり脅かさないでくれよおじさん……」
「しかし森に入って戻ったやつの話だと、人の骨は転がっているらしい」
「そういう情報、もっと早く教えてもらえるかな?」
ウォルターは、馬車で輸送をしているというこの男に、魔術学院までの道案内を頼んだ。ついでの道のりになるからということで、銅貨5枚で引き受けてもらったのだが、その際に、ちょっと渋っていたのである。
それは、この灰色の森が危険だからだったのだ。
「こっちも商売だからねえ。稼ぎになるなら、行きたいところに運んでやるさ。ただまあ、それでも、森が危ないのを知らせずに行かせたら気分悪いしねえ」
「ご親切にどうも」
男からの情報をもとに、ウォルターは行くか行かないかを考え直す。
ここまで来たのだ。本当に長い道のりだった。それに金貨50枚も魅力的だ。アレイナの狙いは気になるところだが、それは何もウォルターを害することではないと思うし、アレイナが魔術学院まで招いたのだ。
利益はあり、危険はほぼない、と結論づけられる。
「おじさん、オレは行くよ」
「そうかい。死ぬなよ」
「もうちょっと元気の出る言葉かけてくれよな」
そう言っても、男は何も言ってくれなかった。手綱で操る馬と同じにぼうっとした面構えで、なめらかに西の町へ馬車を動かした。
ウォルターは馬車が視界の中で半分くらい小さくなるまで見送ると、谷にかかる橋のほうに向き直った。
そして叫ぶ。
「アレイナさーん!? 来ましたけどー!? 大丈夫なんですかね入ってー!?」
返事はしばらくなかった。
「いいからとっとと森に入りな」
足元から声がした。
ウォルターがそちらを見ると、蛇がいた。30センチほどの白い蛇だった。まじまじと観察すると、蛇が舌を出した。
「ははははは」
ウォルターは額をぺしりと叩くと、周囲を見回した。荒野には誰もいない。橋のほうにも、森のほうにもだ。
「……え? 都会じゃ蛇って喋るのか?」
「何をとぼけたことを。使い魔に決まっているだろうに」
ウォルターは蛇を指差した。
「えーと、じゃあ、アレイナさん?」
「そう。喋っているのは私だよ。わかったら森を通って学院まで来るんだ。いいね」
「待て待て待ってくれ!」
蛇が森のほうに行ってしまいかけるのを、ウォルターは必死で止めた。
「御者のおじさんが森は危険だって言ってたんだけど、その、大丈夫、なんですよね?」
「あんたなら大丈夫さ。魔力が一定以上ある人間なら、この森は人を襲わない」
「森が普通の人間は襲うみたいな口ぶりですけど?」
普通、木は動かない。
まして襲うことなんかない。
都会だろうと田舎だろうと同じはずだ。
「昔、人嫌いの魔術師が作った森だからね。なあに、あんたなら大丈夫。ああでも、ひとつだけ」
蛇は喋りながら、森のほうに消えていく。
ウォルターは止められず、さりとて追いかけられず、捕まえられもしなかった。
「木を傷つけないようにね」
白い蛇は森に消えてしまった。
ウォルターは散々迷って、結局、森に入ることにした。大丈夫という保証はもらったし、なんとかなる、と思ったのだ。
谷にかかる橋を渡り、ウォルターは森へと入る。
森の周囲はぐるりと深く幅の広い谷に囲まれていて、端のないところではとても普通の人間は越えられそうになかった。
ウォルターは、いつもそうするように、できるだけまっすぐ進む。アレイナに言われた通り、木は傷つけないように心がけた。
体感で4時間ほど歩いて、おかしい、と感じた。
御者に地図を見せてもらった時の森の広さは、そこまでではなかった。4時間も歩けば、中心をとっくに通り過ぎているはずだった。周囲をきょろきょろしながら歩くわけだが、学院らしい建物はどこにもない。
行けども行けども、木、木、木、だ。
空が厚く曇っているというのもよくない。時間の経過が陽の動きで確かめられないし、方角も同じく確かめられない。
もしかして迷ってはしないだろうか。
それもこれも目印になるものがないせいだ。木の見分けなどつかない。どれもこれもそっくりだ。
では目印を作ろうかと、石を持って木に近づく。
はっと気づいて、ウォルターはやめた。
『木を傷つけるな』
アレイナの忠告がなければ、きっとそうしていた。
仕方がないので、地面に印を描いて先に進んだ。
気づけば夜になり、朝になっていた。
灰の森の空はまた曇りだった。おそらく昼ごろ、雨が降り出した。
どう考えてもおかしい。これだけ歩けば、学院にたどりつきそうなものだ。
「アレイナさん? どこですか?」
声を張り上げて、ウォルターは尋ねてみた。
返事はなかった。蛇も現れなかった。
ウォルターに食事の心配はない。スープの湧き出る水筒がある。それでも、行けども行けどもたどりつかないというのは、どう考えてもおかしい。
心を落ち着かせるためにも、暖を取るためにも、夜、ウォルターは焚き火をしようと思った。
焚き火には燃やすものがいる。
ところが、枝が落ちていない。葉っぱさえもだ。
では木の枝を折ろうかとなるが、またも寸前で思いとどまった。
『木を傷つけるな』
もし、傷つけたらどうなるのだろう。
考えたくなかった。
ウォルターは、森に入って2回目の夜を迎えた。
地面に横になりながら、森を抜ける方法を考えた。いっそのこと森を焼き払ってしまいたくなるが、それは木を傷つけるどころの騒ぎではなくなる。
ウォルターが半分眠った頃。
闇の中から声がした。
「なぜ貴様は、学院を目指している?」
「誰だ」
ウォルターはばっと体を起こす。
昼間、空は厚く雲に覆われていた。月明かりも星明りも望めない夜の今、真の暗闇だ。
姿がわからない。
そもそもこの声が本物なのか、夢ではないのか、あやふやだ。
「私が誰かなどどうでもいい。私の質問に答えることこそ肝要だ。疲れただろう。終わりもわからぬだろう。それでも貴様は歩き続けた。なぜだ?」
「なぜって……」
学院に行けば、金貨50枚もらえると言うから。
それだけのはずだ。
けれど、森で迷って、なんとなくその動機も変わった。いや、変わったというよりも、そこよりさらに深い動機を意識するようになった。
「弟子にまた、ちゃんと顔を合わせるためだ」
「もう一度会えると思うのか?」
考えたこともなかった。
実際に質問されて初めて、その可能性に思い至る。
なるほど、また弟子に会えるかどうか。それはわからない。ウォルターはどこで死ぬかもわからないし、セリンにしても同じことだ。
ただ、明日も、明後日も、そのまた何十日か先も、生きているものと漠然と思っている。決して根拠がある話ではない。
事実、ウォルターは今、森でさ迷っている。もう会えない、とする理由にはなりうる。
けれど、いささかも、歩みを止めるつもりはなかった。
疲れて休むことはある。もう飽き飽きだと座り込むこともある。
それでも、また歩き出している。
もう一度会えると思うのか?
「わからない」
「ではなぜ歩き続ける?」
「弟子に、セリンに、見直してほしいからだ。情けない師匠かもだけど、尊敬される師匠でありたいと思ってる。そうなるかどうか、なんて可能性や見込みの話はどうでもいい。そうしたいから、そうなってほしいから、動く。そういうもんだろ?」
「なぜ見直してほしい?」
「そんなに不思議か? 認めている人間に認めてほしいと思うことが」
答えていて、闇の中の声に対して、ウォルターは疑問が芽生えた。声の主はどうしてこんなことを聞いてくるのか。
「あんたは、この森にオレがいてほしいのか?」
結局、声の主はそれきり喋らなかった。
少しだけ拍子抜けでもあった。
ウォルターは目を覚ますと、木が動いているのに気づいた。はじめは、木の枝にひっかかっていた頭蓋骨が、動いたのだと思った。しかしよく観察すると、明らかに木の位置が違っているのである。
念のため、歩いている途中、急に振り返るなどしてみた。
すると案の定、遠くで木が、根を足のようにして動いていたである。予想していたこととはいえ、ぎょっとした。
「動く森なんてありか?」
ぼやいても仕方がない。
対応をしてこそ、道も拓ける。
何より、迷う理屈がわかったのだ。
あとは簡単なものだった。
そして、3日目の朝。
「やあ、遅かったね」
立派な城砦が、森の向こうに姿を現した。
城門の前には、アレイナの使い魔である白い蛇が待っていた。
「あんたなら、1日でたどり着けるもんとばかり思ってたよ」
「もう少し、詳しい説明をしてもらえると、こうまで待たせなかったんですけどね」
「仕方がないさ。これは入学試験の最終課題だったんだからね」
「へ?」
「王立魔術学院へようこそ、ウォルター」
ゆっくりと、門が上がる。
門の向こうには、赤毛の魔術師がいた。
名は、アレイナ・ストキナー。
「学院長として、あんたの入学を言祝ごう」