空の目はすべて見ていた
「ああ、無事だったか!」
歩いて戻ってきたウォルターに対して、中年の男が両手を広げて出迎えた。
ウォルターは厳然と言った。どうしても言っておかなければならないことがあった。
「あの男たちに、ムチを使うな」
中年男は声を低めた。
「私が、使いたくて使ってるとでも?」
「……あんたも、なのか? あんたも、ブルネイにこんなことを無理やりやらされてるのか?」
中年男は心外そうに言った。
「自分や愛する人間が惜しくないなら、私だってこんな仕事、ごめんです」
「……すまない」
「いいんですよ。やってることがやってることですからね。それにしてもあなたは一体」
嗜虐趣味と話したが、とてもそういう言動ではない。中年男の疑問ももっともだった。
今さら、ウォルターも嘘はつかない。ただ、彼の良心をあてにした。
「黙っててもらえないか」
言葉に加えて、ウォルターがじっと目で訴えかけると、中年男はうなずいた。
「私は、何も聞いてません。あなたが嗜虐趣味ってこと以外にはね」
軽く笑い、中年男がウインクする。両目をつぶりかけるような下手なものだったが、すばらしいウィンクだったといえる。
「ありがとう。それじゃあ」
ウォルターは中年男と判れ、屋敷に戻ろうとした。やるべきことがある。
しかし、ユミィがこれを止めた。
「旦那様。私との約束がまだですよ」
「約束? そんなことより」
ユミィは腕の抱きつき、耳元でささやいた。
周囲に人はいるが、内容は聞き取れなかっただろう。
「いいからついてこいこの○×△◇野郎、周りがまったく見えてないのか犬死にする気か違うだろああん?」
とんでもなくガラの悪い言葉が耳に飛び込んできた。思わずユミィの顔を見るが、彼女は艶っぽい、誘うような笑みをしている。
そこにいるのは粗野な男でなく、魅力的な踊り子だ。しかし先ほど聞いた言葉は、その逆を意味していた。
「ね?」
ウォルターは逆らえなかった。
* * *
「おい、ユミィさん」
「ふふ、焦っちゃだめ」
ユミィは宿で部屋を取り、廊下を歩いている。それに手を引かれる形で、ウォルターも歩く。
宿は、『そういう』宿だった。夜のお楽しみというものが、行われるところである。ちなみに今は昼間であるが、部屋はほとんど満室だった。
ウォルターもある程度まで言うとおりにするつもりではいた。何しろ下手すぎる芝居や嘘を散々に知られた相手である。口止めをするためにも、相手の心証をよくしておかなければならない。
「さて、と」
ユミィは2人で部屋に入るなり、鍵を閉め、ベッドに腰掛けた。
「さ、旦那様? こちらに来てくださいます?」
「話を聞かせてほしいんだけどな」
ウォルターはドアのそばに立ったままだった。どうにも、ベッドに近づきがたい。
「いいから旦那様? さっさと来てくださらないとその小さい○×踏み潰して豚に食わせますわよ?」
恐ろしいことを言う女である。
「あなた様のどうしようもない嘘や怪しい言動を私は知ってるんですよ? 言うとおりにしてください」
「……はい」
ウォルターはベッドの角っこに座った。
ユミィとは距離が80センチはあったのだが、ユミィが近づいてきたために距離は0となる。
「さて、これでようやく、秘密のお話ができますね?」
「金貨なら払う。いくら欲しい? いくら払えば黙っててくれる」
ウォルターは耳を引っ張られるも、立場が弱いだけにされるがままだった。
「あなたの後ろ暗いところを告げ口すれば、ブルネイさんは金貨50枚はくれるでしょうね。どうです?」
「……どうすれば黙っててくれる?」
「そんな怯えなくても、黙っていますよ」
「ほんとか!?」
心底うれしがるウォルターに、ユミィは嫌そうな顔を返した。
「むしろ私は、あなたの味方なんです。ブルネイさんを、倒したいのでしょう?」
ウォルターは迷ったが、今さらだ。
「そうだ」
「私もあなたとほぼ目的は同じです。私はカラス。王の『空の目』です」
「……何だって?」
「知らないんですか? どこの田舎者ですかあなた」
「ここから3ヶ月くらい東に歩いた森から来た」
「ド田舎ですね。あなたがここに来た事情は、まあいいです。『空の目』とは、つまるところ悪事をこっそり監視する人間のことです」
「え、それじゃあ」
「ご期待に添えません。私が集めた情報や証拠では、ブルネイを引き摺り下ろせないんです」
「そう、か……」
「そんな落ち込まずに。どうして私があなたに正体を明かしたと思うんです」
「……わからない」
「理由は2つあります。1つは、あなたが怒りに任せた行動を止めること。先ほどまでのあなた、脇が甘すぎて『これからブルネイを倒します』と宣伝しているようなものでした。すでに倒せる準備が整ってるならともかく、怒りに任せた衝動的な行動にしか見えませんでした。違いますか」
違わない。
ウォルターは反論せず、黙ってユミィの話を聞いていた。
「2つ目は、あなたの行動を後押しするためです。いいですか、私の集めた証拠だけではブルネイを罰することができない。もみ消されます。けれどそれも、今の状態のブルネイは罰せられない、ということです。例えば、あなたがブルネイを殺せば、私はあなたを英雄にできます」
「殺す、か」
ウォルターは指を組んで考える。できれば別の方法を取りたいが、仕方なくもある。
「ブルネイに怒っているんでしょう? それこそ、殺したいほどに」
「殺してしまうことは、あるかもしれない。けど最初からそうする、というのは違う」
「普通の感性ですね。そんなことで非常識な目的が遂げられてると思ってるんですか?」
ユミィはベッドに上半身を横たえた。
「まあいいです。実行するのはあなた。なら方法は任せます。ただ、私という手札があなたにあると思ってください。くれぐれも、私が『空の目』であることは内密に。できれば死んでも話さないでくださいね」
「わかった」
「よろしい。私からの話は終わりです。——それではしますか」
「何を?」
ウォルターがユミィのほうを見ると、彼女が服を脱ぐところだったので、顔をそらす。
「とぼけた男ですね。当然、隣の部屋でもしてることを、ですよ」
隣室からはかすかに女の甘い声が聞こえてきている。
「いや、さすがに」
「他にすることあるんですか? 宿に入った以上、1時間は出るべきじゃありません。怪しまれます。それでもいいんですか?」
「よくないけれども」
「じゃ、いいでしょう? した『ふり』でもいいですけれど」
ウォルターは押され、ベッドに背中をつけた。




