地獄を終わらせるために
砂漠は、何も平坦なところではない。
高低差が激しいところとなると、50メートルになることもある。通るルートによっては、これをいくつも超えることになる。
ウォルターは三つ目の砂山を越えて、男たちの穴掘りの現場を見下ろせるようになった。
「なんだ、あれは」
怒りと戸惑いをぐちゃぐちゃにかき混ぜた気持ちが、ウォルターの頭の中をぐるぐる回る。
ひどい、と言うしかない。
砂漠の穴掘り。
その行為の無意味さももちろんだが、それ以上に、与えられたものの貧しさが劣悪さを極めている。
男たちの手には、スコップが与えられている。桶が与えられている。天幕が与えられている。
しかしいずれも、十分から程遠かった。
折れたスコップや、砂のもれる桶、天幕は棒を4本立てて布を被せただけの、『穴あき』である。
「なんだこれは」
信じられず、ウォルターはまた呟いた。
ここが地獄?
ああ、本当にそうだ。
1人、穴掘りの男が倒れた。
周囲の男たちが彼のそばにゆっくり近寄り、天幕の下に運ぼうとしていた。のろのろとしているのは、何も薄情だからではないだろう。こんな炎天下で、穴掘りを続けているのだ。倒れた男以外も消耗していて、機敏な動きで助けられなどしないのだ。
ウォルターは砂山を下りて、彼らのところに駆け寄った。
「なんだお前!?」
見慣れない男が来て、穴掘りたちも驚いたのだろう。だが説明するよりも先にすることがある。
ウォルターは倒れた男を天幕の下に運んだ。それから、水筒を取り出し、スープを飲ませてやった。
倒れた男は一心地ついたようで、ありがとう、と短く礼を言った。
「あんた、誰だ? ブルネイさんの手下じゃないよな?」
倒れた男が、閉じていた目を開く。するとウォルターの顔を見るなり、胸倉をつかんだ。怒りの形相である。
力が戻っていないだけにつかむ力は弱弱しい。周囲の男たちに引き剥がされ、男はまた横になった。
「急にどうした。この人はあんたの恩人になるんだぞ」
「そうだ、水筒の中身を分けてくれた」
「違う、こいつは、こいつは、こいつのせいで、オレは」
興奮した男の様子に、他の穴掘りたちの雰囲気も危ないものになる。
あの、北東の端でイスに座っていた男は言った。『気が立っている』。
「あんた、こいつに何をしたんだ? 何者なんだ?」
穴掘りの男の1人が聞くと、ウォルターより先に倒れた男が答えた。
「オレは、こいつと関わったせいで、こいつが許可証を持ってないと気づかなかったせいで」
ウォルターは、この興奮した男の声に聞き覚えがあった。
この歓楽都市に来て初めて会って話した、役者の男である。あの時は髑髏の仮面を被っていたが、それでもわかる。さっきのセリフと言い、間違いない、あの役者だ。
役者はますます興奮しきっていたが、それと反比例するように、周囲の男たちの危険な雰囲気がしぼんだ。
「なんだ」
「怒りはわかるが、やっぱりこの人は悪くないし、恩人だ」
「あんたもわかってるんだろ? 悪いのはこの人じゃない、ブルネイの野郎だ」
彼らは役者を落ち着かせにかかってもくれる。
とりあえず、この場はなんとかなりそうだ。
「この男に代わって、礼を言う。ありがとう。たった一杯のスープでも、ここではとんでもないごちそうだ」
「どういう、ことだ?」
そういえばと、ウォルターは天幕の下を見渡す。普通のタルが3つあるきりだ。
食事も何もない。
「他に飲み物は、食べ物はないのか」
「ない」
きっぱりとした口調だった。
「ないんだ。あれ3つだけ。あれでなんとか1日持たせるんだ」
「おい、おい!」
ウオルターは、穴掘りの人数を数えた。19人。話に聞いていた数より1人少ないが、確かに19人いる。それだけの人数の水が、砂漠での作業が、タル3つ分だけ? それで1日?
「水は、貴重だからな」
ウォルターは、歯噛みした。
周囲の穴掘りたちがウォルターに怯える。
「おいあんた、なんでそんなに」
「トマス。そういうことか、トマス、オレをここに来させたのは……!」
トマスに怒りがまったくないわけではない。だがそんなもの、ブルネイに向けるものに比べれば、大火と比べたときの火の粉だ。
トマスがウォルターをここに来させたのは、もちろん彼らに不思議な水筒を貸したかったのもあるだろう。しかしそれとは別に、ウォルターにこの地獄を見せ、語るよりもよほど怒りを煽るつもりだったのだ。
操られているようで怒りはあるが、いま起きていることやブルネイに比べればやはり、些事だった。
「あんた、トマスさんに言われて来てくれたのか?」
「ああ、そうだよ」
怒りのあまり、ウォルターはぞんざいな態度を取ってしまう。
とはいえ、穴掘りたちが気にしたそぶりはない。むしろ喜んだようだった。
「あいつもバカだな。スープ一杯寄越したってわけか」
「いいや。それは違う」
ウォルターは、水筒の蓋を閉じた。それから開く。スープは元の量に戻っていた。
「は?」
穴掘りたち全員に事実を受け入れさせるまで、彼らが満足しきるまで、スープを与えた。
彼らは涙を流し、水分のムダだぞ、構うもんかとふざけ合う元気も出たようだった。
「あんた、ありがとう、ありがとう」
「感謝してもしきれない、ありがとう!」
ウォルターは男たちから口々に感謝される。しかしにこりともしなかった。むしろますます怒気を強めたのである。
「オレたち、何か恩人に気に障ることしたか? いや、したよな。おい役者の兄さん、早くこの人に謝るんだ。早く!」
役者の男は、すでに土下座していた。ぶつぶつと、謝罪の言葉を並べ立てている。
ところがウォルターの怒りはまだ収まらない。他の穴掘りも同じように土下座する。
もはや限界で、ウォルターは叫んだ。
「違う! 顔を——顔を、上げろ! 立て! いや、立ってくれ……」
穴掘りたちは、おずおずと立ち上がる。役者の男も、肩を借りて立ち上がった。
反対に、ウォルターはその場に土下座した。
「すまない」
「なんであなたが謝るんだ?」
「本当に、すまない」
「なんでだって聞いてるんだ。謝るんなら、せめて訳を教えてくれ。オレたちはあんたに助けられた。あんたを寄越したトマスにもな」
穴掘りの中で、一番年かさの男が言った。
ウォルターは、ぽつぽつと、事情を話した。
「話には、聞いていた。許せないともな。できたら、助けてやりたい、なんて思っていた。できたら? できたらなんて、今のあんたたちの様子を、見るのと聞くのとじゃ、ああ、オレは、すまない気持ちで一杯だ。もっと早く、ずっと早く、ここに来るべきだった」
彼らが穴掘りをしている最中、ウォルターは何をしていたか。
豪勢な食事を楽しみ、きらびやかな踊りと歌を鑑賞していた。
ウォルターは拳を思い切り握る。爪が肌に食い込み、血が一筋流れるほどに。
「確かに、あんたがもっと早く来てくれていたら、今日死んだ男も助かったかもしれない」
「……すまない」
それしか、言うことができない。
けどな、と年かさの男が続けた。ウォルターのそばにしゃがみ、背中に手を置いた。
「あんたが来てくれたおかげで、わしらは助かってる。この役者の兄さんもだ。だから、あんたも顔を上げろ。立つんだ」
年かさの男に、次々と他の穴掘りが同調した。役者の男も同じだった。
「オレも改めて、すまないことを言った。オレが穴掘りにさせられたのは、あんたのせいなんかじゃない。オレは、甘い考えで、芝居を通して、ブルネイに逆らってた。芝居でブルネイのことを皮肉ってた。そのせいで仲間がひどい目に遭っても、ブルネイに怯えててもまだ、ちっぽけな意地のために、皮肉る芝居を続けてた。だからこうなった。あんたは悪くない。だから」
立ってくれ。どうか、お願いだから立ってほしいと。
ウォルターはその言葉の数々に引き起こされ、立ち上がった。その時の顔に、罪悪感はない。ただ、決意に満ちている。
「オレは、あなたたちを助けたい」
「助かったさ」
そうとも、と穴掘りたちは全員同意した。だが、ウォルターが不思議な水筒を届けたところで、彼らが悲惨な状況なのは代わらない。
「穴掘りを手伝うのは、違うよな」
「あなたが一緒に地獄に落ちてくれても、まあ、気休めにしかならない。ありがとう。あなたに幸運があるように」
「ありがとう。トマスに言われた通り、その水筒はあなたたちに貸すよ」
まだ年かさの男が持ったままだった水筒を、ウォルターは指差す。年かさの男は「いやいや」と返しかけ、すぐに考えを改めたようで、自分の懐に戻した。
「ありがとう。これで、死人はずっと少なくなる」
「ああ、どうか、もうしばらく生きてくれ」
穴掘りの中で、また泣き出す人間が出た。
男たちに向けて、ウォルターは語りかけた。
「辛いことを言っていると思う。保証もできない。いつまでにとも言えない。けど、オレは近い内、あんたらが穴掘りなんてせず、当たり前の生活ができるよう計らう」
「あなたは——一体、何なんだ。何者なんだ。何をする気なんだ」
ウォルターは少しでも早く助けてやりたくて、歩き出す。背中越しに、役者の質問に答えた。
「ウォルター。錬金術師だ。何をするかと言えば、——わかるだろ?」
ろくな説明になってはいない。
しかし誰も、それ以上、疑問を発さなかった。
彼がこれから何をするつもりなのか。ブルネイに怒っている。どうしようもなく怒っている。
ならば答えはひとつ。
ブルネイを倒すつもりなのだ。