見過ごせないもの
ウォルターが歓楽都市から50歩ほど歩いたところで、
「待て!」
と声がかかる。
門のほうに、新たな集団がやってきていた。
もともといた役人や衛兵たちはかしこまって、脇に控えている。どうやら相当地位の高い人物が、集団の中にいるようだった。
ウォルターが遠目に観察すると、集団の中心には、一際背の高くがっしりした体格で、片眼鏡をかけた男が立っていた。この要素だけで、男がそれなりに裕福で、難しい仕事についているということだろう。
もともとの素質があるにしても、小さい頃から食事に余裕がなければ、あそこまでは育てない。あの筋肉量を維持するにしても同じく余裕がなければならない。片眼鏡は高級品であり、あえて必要とするということは、男が裕福なのはもちろんとして、文書を扱う仕事についているということだ。
集団の中心にいることからも、彼がこの場で最も地位の高い人物だろう。
ウォルターが立ち止まっていると、集団の中の誰かがつぶやくのが聞こえた。
「ブルネイさん、どうして……」
——ブルネイ。トマスから聞いた名前だ。
「確か、ここの元締めか」
手下であるトマスがああいう人間だったから、上の人間であるブルネイもまた、相応に粗暴な人物だろうと、ウォルターはそう考えていた。
しかし門のところにいるブルネイは、ウォルターの尺度からしても、礼儀正しい男のように見えた。
「錬金術師ウォルター殿。こちらに戻って来てはいただけませんか。少しだけ話をしたいのです」
声を張っているわけでもないのに、ブルネイの声はよく通る。
さてどうしたものかと、ウォルターはちょっと迷った。危険を感じる。しかし、少し話すだけだと、ブルネイは言ったのだ。
話すには少しばかり遠い距離、4メートルまで、ウォルターは戻って近づいた。
ブルネイがその冷徹そうな真顔から、にこりと笑ってみせた。
「どうも申し訳ありません。戻っていただきありがとうございます。私はこの歓楽都市で調整役をしていいる者。名はブルネイです。よろしく」
丁寧でありながら、決して下手には出ない、そんな物言いだった。
ウォルターは体の重心をやや後ろにかけておく。いつでも逃げ出せるようにしておくためだった。
「ああ、そう警戒なさらないでください。不幸な誤解があっただけのことなのです」
「誤解?」
「この都市のことを、どう思われましたか。思っていたのと違う、とは思われませんでしたか」
「あんたのことは知りませんでしたが」
形式的にであったとしても、相手が敬意を払ってきているのだ。ウォルターも表面上、敬いの態度を取る。
「この都市は、そう、夢の都市だと聞いてました。だから、もしかしたらオレの売りたいものも売れるんじゃないかと。思ってたのと違ったのは、土地柄でしょうかね、ちょっと乱暴じゃないですか」
「ああ、ですからそれこそが誤解なのです」
ブルネイは後ろに合図を送る。
すると、両手と首を縄でつながれたトマスが前に引き出された。
まったく仕事の速い男だと、ウォルターはブルネイの評価を下げる。
ブルネイはトマスを単なる悪人ということにしたいのだ。ブルネイの命令に従っていただけのトマスをだ。その裏工作があまりに速いがために、評価を下げた。
ただ、その裏工作に気づかないほうがウォルターの身の安全に繋がるのは確かである。騙されているふりをしたほうがいい。あちらはウォルターが騙されている限り、しばらくは平和的でいるつもりだろう。
果たして自分はうまくごまかせているだろうか。きちんと驚くふりができているだろうか。
その試みは、ブルネイの得意げな顔を見るに、成功しているようだ。
「この通り、あなたに乱暴を働こうとした男はここの法に従い裁きます。決して、粗暴な都市だと、思わないでいただきたい。この都市の調整役として、あまりに悲しい」
「難しいことは、オレにはわかりません」
わかるのは、このブルネイが、うさんくさいということだけだ。
「何も難しいことはありません。ただ、ここは普通の町と同じく、法が働く、文化的な都市なのです。歓楽都市、夢の都市ではありますが、それ以外は普通の町とは変わりません」
「なるほど。よくわかりました。教えてもらってありがというございます。それでは」
「お待ちください!」
ブルネイの狙いはきっとここにある。
いや、本当はもっと先なのだろうが、ウォルターを引き止めるのは、ブルネイの狙いの第一歩なのだ。
「どうか、お詫びをさせていただきたい。この男は私の部下。部下の不始末はすべて、私の至らなさが悪いだけのこと」
「詫びならすでに受け取りました」
「いいえ。大砂漠を横断するような本物の錬金術師殿に、このくらいの詫びではとても足りません。どうぞ私の自宅へ。夢のようなおもてなしを致しましょう」
ウォルターは迷った。
こちらは後ろ盾も何もない。翻って歓楽都市はブルネイの巣だ。ブルネイはそこでの王様なのが、なんとなくわかる。
ここは逃げるのがよいと考えた。
ウォルターは踵を返そうとし——、止まった。
あるものを見つけてしまったのである。それで、考えを正反対に変えた。
あるものとは、トマスの瞳、その中にくすぶる、不満と怒りと怯えの入り混じった光のことだった。
おそらくウォルターがここで逃げれば、トマスはよりひどい目に遭う。逆にウォルターが歓楽都市に戻れば、ましになるだろう。トマスの怯えは、ウォルターが都市からなおも離れようとすると、強くなった。おそらく間違いない。
彼は罰、というより腹いせを受けるのかもしれない。立場も弱いだろうし。最初にウォルターに都市に対して警戒心を抱かせ、都市を離れさせる理由を持たせたのもトマスだ。
彼が悪いわけではない。彼はブルネイの部下であり、ブルネイの言うとおり、はっきり言って悪いのはブルネイだ。
ブルネイが、トマスに、あのように振舞わせていた。
はいそうですかと、あっさり見過ごすことはできない。
とても納得がいかなかったのである。こんなことがまかり通っていいはずがない。
覚悟というほどのことはない。自分の身が危うくなればあっさり逃げ出すつもりでもいた。別に正義感や自己犠牲にあふれているわけではない。
ただ、これくらいのことはしようと思った。
「いやあ、ありがとうございます。そういうことならぜひ」
無邪気な笑顔を貼り付けて、食えない男の巣に戻るくらいのことは。
自分にできる範囲で、間違いを正そうとすることくらいはしようと、そう思ったのだ。