霊薬
「申し訳ありませんお嬢様。下手人は——」
「そんなことより、そばにいてちょうだい。こんなときだもの。お父様も許してくださるわ」
こんなときだから、ではない。
こんなときに許さずしてどうするか、なのだ。今際のとき、命の尽きようとしているとき、望む人にそばにいてほしい。それを叶えずして、父以前に人として間違っている。
「それとも、ごめんなさい、あなたには、辛いことかしら」
お嬢様の言葉に、騎士は息を詰めた。
そうしなければ涙を流してしまいそうだった。死にかけていてもまだ、騎士を気遣う。その気高さと優しさに耐えかねた。それでも涙をこらえたのは、お嬢様を悲しませたくなかったからだ。
「とんでもありません。久方ぶりにお嬢様のそばにこうしていられて、私は本当に幸せ者です」
もっと気の利いたことは言えないのかと、騎士は己を叱った。
こんなことでは、お嬢様の気をわずかでも晴らして差し上げることができないではないかと。
その時、不意に、伯爵から騎士は肩を押さえられた。
騎士は自分が何かしてしまったのかと、うろたえる。
「伯爵様。一体……?」
「我が騎士。貴殿は、何を持っている?」
伯爵は、信じられないものを見る顔だった。
騎士は心当たりが、ほんの短い間だけは、なかった。何もおかしなものなど持っていない。
錬金術師を名乗る男が受け取った薬以外は、何も持っていない。
——つまりは、それだ。それが伯爵の瞠目の理由なのだ。
「ち、違います、私は」
「持っているものをよく、見せてくれ。見るだけだ。見る、だけだ」
騎士は体が震えてしまっていた。武器もなしに夜盗10人に囲まれた時も、こんなに激しく震えはしなかった。伯爵に失望されることは、幼い頃から仕えてきた彼にとって、存在そのものが揺らぐほどの一大事だった。
中身のよくわからない怪しげな薬を持って、お嬢様のそばにいた。商人になりすました下手人が毒を盛った事件が直近にあっただけに、それの意味するところは、大罪に等しい。
騎士は、震える手で、落とさぬよう細心の注意を払いながら、ポケットから小瓶を取り出した。琥珀色の液体が揺れている。
「お父様?」
「お前は黙っていろ」
騎士が知覚できるのは、声だけだった。とても、伯爵のほうを見ていられない。
捧げるように、小瓶を差し出した。
重苦しい、沈黙の時間が流れる。
「我が忠実なる騎士。誉れ高く強靭な精神と肉体を持つ騎士よ。これを、どこで?」
伯爵の声は震えている。
騎士は、それが例えようのない熱く激しい怒りによるものだと思った。人はそうした時、声が震えてしまうものだから。
その怒りが恐ろしくて、悲しくて、わが身が情けなくて、唇に糊を塗りたくられたように、うまく喋れなかった。
「ひ、人に、もらいました」
いっそ今すぐこの首を落としてほしいと、騎士は願った。事実がどうこうという話っではない。申し開きをするつもりもない。
伯爵の怒りを買った。それがたとえ伯爵の勘違いだろうと何だろうと、騎士は、受け入れるつもりでいた。
それに、何だかよくわからない薬を持って、お嬢様のそばに近づいた。これは紛れもなく、真実なのである。
「人にもらったと申すか。これを?」
「我が忠義に照らして、真実にございます!」
震えはまだやまない。むしろより大きくなる一方だ。
けれど、これだけははっきり通る声で、騎士は上申した。ここで声を震わせて、疑われたくなどない。
「真実か。その方の二十年に渡る忠義にかけて、人にもらったと申すのだな?」
「その通りに、ございます」
ここにきて、騎士はいさぎよさなど捨てた。
このまま伯爵に勘違いされる一方では、あまりに無念だった。見苦しかろうと、結果が変わらなかろうと、あがかずにはいられない。
「伯爵様! 私は!」
「わかっている。わかっている……」
こう言われては、騎士にはもはや何も言えない。
ただ、沙汰を待つのみである。
地獄のような時間が騎士を襲い、やがて、伯爵が口を開いた。
「我が騎士。頼みがある」
「何なりと」
さらに深く頭を垂れて、騎士は応じる。
反射的なものだった。答えてから、どういうことか、という疑問が生じる。
「これを娘のためにゆずってほしい」
「は?」
「これを、娘のため、ゆずってほしい。受け入れられぬか?」
「あ、いえ、いえいえいえいえいえ!」
騎士は必死になって否定する。
ただ、いま置かれている状況が不可解すぎた。怪しい薬を持ってお嬢様に近づいたことで、責められているのではなかったか。
ところがその薬を、伯爵は欲すると言う。
わけがわからない。
「どうぞお納めください。けれど、それを、どうなさるのです?」
「何を。決まっておろう」
伯爵はベッドで寝ていたお嬢様に、その小瓶の中身を飲ませた。
「娘に飲ませる」
「はぁ……?」
騎士の口からは、すっとんきょうな声が出る。
すると騎士にとって驚くべきことが目の前で起きた。みるみる、お嬢様が回復していくのである。這うような速度ではあるが、黒ずんだ肌が元の白磁に治っていっているのが、薄布越しでもはっきりわかった。
伯爵は口を半開きにする騎士に対して言った。
「何を呆けている? その方には感謝してもしきれぬ。何でも望みを申せ。娘の命の恩人だ。さあ」
「あの、それでは」
財産よりも領地よりも地位よりも、今の騎士には欲しいものがあった。
「どういうことか、いま何が起こったのか、教えていただいてもよろしいでしょうか」
話している間に、お嬢様がベッドから体を起こす。
それから裸足のまま、ベッドから下りてきた。その肌はすっかり血色がよくなっている。つい先ほどまで死にかけていたはずだ。それが、バラのような微笑を騎士に向けている。
「どうもありがとう。私のために貴重な霊薬を下さって。やはりあなたは、素晴らしい騎士です」
「いえ。ですから、どう、いう?」
いや、わかっている。話はごく簡単なのだ。
錬金術師からもらった胃薬。
それが実は霊薬だった。
だから、お嬢様は毒から回復した。
ようやく事態が飲み込め、遅まきながら激しい喜びが騎士の心を満たした
「よかった。本当によかった。本当に……」
騎士は跪き、額の上で拳を握る。今はただ、この望外の幸福を噛み締めたかった。
「騎士よ。貴重な霊薬を娘のために。その方の忠義、誠に痛み入る」
「主君のご令嬢を助けるのに、何のためらいがありましょうか。と、申し上げたいところなのですが」
騎士は困惑した顔を上げる。
「私は、自分の持っていた薬を、霊薬などでなく、胃薬だとばかり」
「その方は一体、何を言っているのだ?」
今度は伯爵のほうが困惑した顔を浮かべる。主従そろって、同じ顔をしたわけである。
「その、旅の錬金術師からもらったものなのです。これは胃薬だと」
伯爵はしばらく固まっていたが、やがてうなずいた。驚きや混乱から立ち直ったのだ。
「しかし……いや、まさか……まさか、本物か? いや本物か偽者かはどうでもいい。それよりもだ。貴君も恩人に違いないが、その錬金術師もまた大変な恩人だ」
「は……その錬金術師が恩人というのは、まさに。私も、感謝してしきれるものではございません」
お嬢様が死に掛けていたのは事実だ。錬金術師の薬を飲んだ途端に毒が治ったのも事実。なら、その錬金術師に感謝して当然だった。
しかしあのウォルターも人が悪い。胃薬などと言っておいて、霊薬? いくらなんでも偽りが過ぎる。そう言われても信じはしなかったにしても、ここまで戸惑わされることはなかった。
「して、その錬金術師はどこに?」
「わかりませぬ。ただ、西を目指していたようです」
「すまないが、すぐ捜索隊を編成して追いかけてほしい。ぜひ城まで招待し、礼をしたい」
「は、その、それはわかりましたが、しかし、この場所に招待しようとすると、その錬金術師に逃げられてしまうかもしれません」
「なぜだ?」
「私が、戻れば叩き斬る、と言ってありますので、さすがに斬られたくは、ないでしょうから」
伯爵は息を呑み、叫んだ。
「何をどうしてそんなことになっている!?」
ほとんど悲鳴に近かった。
本音を言えば、悲鳴を上げたいのは騎士のほうだったが、そこは戦士としてぐっとこらえた。




