毒物
騎士は、己の手を見つめながら言った。
「きみに気絶させられてから言うのも気恥ずかしいが、私はそれなりの武勇を持っていると自負している。ところが両手を縛られた相手にあっさり負けた。そこで聞きたい」
騎士はウォルターに視線を移す。風のない時の湖面のような瞳をしていた。そこにくもりなどなかった。
「きみは……何者だ? 暗殺者と決めてかかっていたから聞かなかったが」
「ウォルター。……錬金術師だ」
騎士は短く笑った。
「この状況でも錬金術師と名乗るのは見上げたものだが、さて。私がきみを無事にここから解放する理由は、何かあるかね? 暗殺者でないと否定できたわけじゃない」
「……さっぱり思いつかん」
「もしもきみが、1人で山越えして崖の上に現れなかったら。ここまで疑うこともなかったろう。しかし崖から忍び込もうとしたのではと、疑われるようなことをきみはした。そのことについて何か弁解することは?」
「自分の好奇心をちょっとばかり悔やんでる」
そうは言っても、ウォルターは、たぶん同じようなことを繰り返すだろう。ついつい夢中になってしまうのだ。これは気をつける、といった段階の話ではない。もはや本能的な行動だった。
「……とぼけた男だな、きみは」
「面目ない」
ウォルターが真顔で言うと、騎士はふっふっふっと肩を揺らして笑い出した。こらえるように、顔を手で覆いもする。
「面目ない? 面目ないときた。きみを試そうとしたこちらが愚か者みたいに感じられてくるよ」
「どういう、ことだ?」
「いや、いいんだ。もう十分だ」
騎士は顔から笑みを消し、イスから立ち上がった。
それから従士2人を部屋から出ていかせた。
ウォルターの縄を解くと、自らも出ていこうとするが、その直前に、こんなことを言う。
「もう行くといい。ただし戻ってくるな」
「……いいのか?」
「いいんだ」
「本当に?」
「本当だとも」
騎士の言動に、嘘や偽りや作為は感じない。それでもウォルターには疑問があり、それが解かれないことには動く気になれなかった。
「信じてくれるのはありがたいし、オレだって暗殺者なんかじゃないと主張する。けど、あんたはそれでいいのか? もしオレがこの先何かしでかしたら、あんたは重い罪を背負うことになるんじゃないか?」
「だから、戻ってくるなと言った。この城にも町にもいなければ、何もできないだろう?」
「もし、戻ってきたら?」
「私がきみを斬る。なんとしても、何をしてでもだ」
「なるほど。わかった」
それなら騎士の立場が悪くなることもない。
ウォルターはイスから立ち上がり、荷物をまとめていく。
「最後にひとつあんたに聞きたいんだけど。お嬢様は、そんなに大変なのか?」
「……今日限りの命と、聞いている。3日で死に至る。そういう毒で、飲んだのは2日前だからな」
「そうか。実はオレは、薬師のようなこともしてるんだが」
「きみの心遣いはありがたい。だが」
騎士は、その剣の柄に手を置いた。
「そこまできみを信じることはできない」
「……だよな。あんたみたいな人が取り乱すくらいだから、できれば助けてやりたかったが、そうはいかないよな。オレが助けられる保証もない上に、暗殺者の疑いがなくなったわけじゃない」
ウォルターは鞄を背負う。それから騎士に軽く頭を下げた。
「迷惑かけて悪かったな」
すべてはウォルターの奇行から始まってしまったことだ。
「二度と会うことはあるまいが、気にしなくていい。お互いさまだ」
騎士のほうはそう言うが、ウォルターはまだ何かが引っかかっていた。そのせいで、その場でうなる羽目になった。
「うーん……んー……」
「どうした?」
「魔獣の骨って、あんたらいる?」
「いらないが。お守りにしかならないだろう……そもそも本物なのか? いや、きみの強さを疑うわけではないが、それにも限度がある」
「本物だよ。まあ、骨のお守りなんてあっても、お嬢様が助かるわけじゃないしなあ……こんな時に商売もありえないし……ああ、そうだ」
ウォルターは瓶をひとつ取り出して、机の上に置く。暴れて机をひっくり返した時割れなくてよかった。鞄がクッションになってくれたのだ。
「それは?」
「胃薬だ」
「……は?」
「これがよく効くんだよ。あんた神経質そうだし、それと、お嬢様がいよいよどうにもならないってなったら、胃薬が効くかもだろ?」
薬というのは、いろいろな作用があり、組み合わせ次第で効果が何十と広がっていく。ただの胃薬が毒に効く可能性も、0ではない。しかし同時に、毒の進行を早めたり、より毒に苦しむ効果をもたらしたり、といった可能性もある。
だからこそ、いよいよどうにもならない時に使ってみてはどうか、そうウォルターは提案した。
「すまないが、飲ませるつもりは毛頭ない」
今日会った男のくれた薬を、大事な主の娘に飲ませる。そんなことが、騎士にできるはずもなかった。
それはウォルターにもわかっていたが、何もしないで去るのは、あまりに落ち着かなかった。
「悪い。オレのわがままだ。もしこの胃薬でお嬢さんが余計苦しむことになったら……」
「決して、飲ませない」
「……それもそうだな。じゃあ」
ウォルターは詰め所を出た。
そのまま何事もなく、町を出て、西を目指した。
* * *
騎士は、ウォルターのことを、面白く、抜けていても、すがすがしい人物のように思った。見た目は平凡なことが、その中身の奥深さにさわやかな驚きをもたらしてくれる。
このような結果にさえならなければ、あるいは、などと考えるも、さして意味のあることではない。それ以上ウォルターについて考えるのをやめた。
騎士は瓶をズボンのポケットに入れて、城に戻った。
「お嬢様の容態は」
城に勤める侍従に聞いてみたが、沈んだ顔で首を振るだけだった。
わかりきっている。もう尽くせる手は尽くしたのだ。
残る時間は、せめて、親しい人とともに過ごしたほうがいい。
騎士は拳を握り締めた。せめて下手人を叩き切らなければ気が済まないが、当てもない話だ。それに——、
「騎士様。お嬢様がお呼びです」
望まれているなら、そばにいるほうがいい。下手人を今すぐ探すのも、明日から探すのも、すでに逃がしてしまった以上、同じことだ。
「すぐ行く」
お嬢様の寝室に行くと、そこにはお嬢様の他に、侍女が4名、さらに、騎士の主でありお嬢様の父である伯爵がいた。
伯爵は騎士を見るなり、わずかに目を細めた。それは、ほんのわずかな敵意だった。商人を装った下手人に始めに応対したのがこの騎士であり、下手人捕縛の任務の指揮を取りながら逃がしたのもまた同じ騎士だった。
さらに悪いことに、娘は、この騎士がそばにいることを望んだ。
主として、父として、伯爵は忸怩たる思いだろう。
それでも、ほんのわずか表情に出すだけに留めている。
騎士としては、ますますの尊敬の念を主に抱く。
「失礼致します」
扉の前で軽く一礼した後、ベッドのそばまでいく。
そして、跪いた。
ベッドは、天蓋付きで、薄布とレースに囲われた豪奢なものだ。
その透ける布の向こうには、寝着のままのお嬢様がいる。野花のごとく生命力にあふれると同時にかわいらしくあったその容貌も、すっかりやつれてしまっていた。肌が黒ずんでいるのが一番まずい。毒が進行しきっているのだ。