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 朦朧とした思考が,五感をも鈍らせていた。半分意識が無い中で,まるで淀んだ時間を彷徨っているようで,日向日向(ひゅうがひなた)はたまらず嘔吐した。そうしたことで,ようやく感覚が安定してきた。ノイズも聞こえぬ聴覚も,混濁した景色を写す視界も,腕に触れる自分の右手すらも感じられぬ触覚も,波が引くように戻っていく。

 周りにも蠢いている何かが複数個あって,治りつつある目で見ると,それは同級生であった。

 「あぁ,そうだ,あの時突然揺れたと思ったら,突然光に包まれたのだ。」という事を,定まり始めた意識の中でヒナタは思い出した。

 歪んでいた嗅覚が正確に匂いを捉えるようになった。嗅ぎ慣れない血液と,汚物のような臭いがヒナタの鼻を貫く。明らかに教室で嗅ぐことの出来る匂いではない。またも胃液を吐き出しそうになるが,今度は呻くだけで十分だった。

 臭いを辿る。辺り一面に立ち込めてはいるが,発生源は一か所だけのようだった。この頃,辺りでも目覚め始める者たちが増え,しかしまだ感覚は灯篭の灯のようである。

 徐々に臭いが濃くなっていき,ヒナタの感覚も鋭くなった。黒板側の教壇に近づく。そして裏を覗いた。


 そこには横たわる一人の教師の姿があった。スーツで身を固め,やや禿げた頭頂部を晒している。それは確かに人であった。しかし,もう人と呼ぶことは出来ない。

 内側から崩されたように,皮膚の合間から肉が覗いている。そして体液が目から,鼻から,耳,口,皮膚,人体に存在する穴という穴から溢れていた。眼球はとうに崩壊していて,何色ともいえぬ液が血液と混ざり床を濡らしていた。まるでゲル状に分解された肉塊,部位など存在しないようだった。

 ヒナタは嘔吐した。明晰な全感覚で得た情報は,中学三年には到底理解しえぬもので,目を背けたいという欲望の一切を口から吐き出した。しかしなぜだか,あまりにも涙が出ない。悲しんでいない自分が居た。恩人の凄惨な死を目の前に,自分は「背けたい欲望」ばかり吐き出したがる。なぜだか,ヒナタは思うまで吐き出し,ようやく収まると,制服の袖で口元を拭いた。

 辺りを見回すと,教室の角に日下部華山(くさかべかざん)が座り込んでいた。辺りにはまだ横になって咽たり呻いている者も多かったが,カザンはヒナタと同様,もう意識を取り戻していたようだった。

 「カザン・・・。」

 ヒナタがカザンのもとへより,言葉を掛けた。カザンは少し顔を上げ,ヒナタに目を向けた。

 「どういう,事だよ。」

 その目には涙が浮いていた。怒りと戸惑いにに満ちていた。

 「何があったんだよ。なんで赤井江が死んでんだよ。なんで!」

 「俺にもわからない,さっき,起きたばかりなんだ。」

 「クソっ,何したっつうのさ。」

 「とにかく,他のやつらを起こそう,な。」

 「クソっ!」

 カザンはもたれかかっていたいた引き戸を,拳の側面で強く打ち付けた。教室に音が走り,この音で何人かが意識を取り戻したのか騒めきも聞こえだした。

 「落ち着け、今はまだ。」

 「落ち着いた居られるかよ! 死人が居るんだぞ,死んだんだぞ。あんなに惨たらしく,意味なく。」

 罵りながらまた壁を拳で打ち付け,力強く腕を引いた。その次の瞬間だった。

 

 拳と扉が,銀の絹糸のような線で繋がっているのを,ヒナタは確かに見た。

 強く引かれた拳に連動して,戸も勢い良く動き,レールを外れた。

 線は金属の束のように良くしなって,線が切れるようなこともなく,間もなくドアは,勢い良く宙を舞った。

 ヒナタに向かって。

 

 避けるにはもう遅かった。レールからドアが外れた音がしたときにはもう,重い引き戸は目の前に在った。

 その恐怖に,ヒナタは顔の前に両手をかざし,目をきつく閉じて最後の防衛に出た。

 コンマ以下の秒数の中で心拍は跳ね上がり,それももう止まるのだと,ヒナタは目を閉じていた。

 突然,一切の風を感じずに体が後ろに「スライド」したかと思うと,目の前で音がした。自分が痛みを感じていなこと,何にもぶつかっていないことを不思議に思い,ヒナタは恐る恐る目を開ける。

 腕と腕の間から見えたもの,それは紛れもない自分の姿と,それにぶつかるドアであった。

 まったく意味が分からなかった。

 そこに残っていた自分は,さっきまで自分が取っていた,自分を守ろうとする姿勢で,ドアにぶつかっても崩れておらず。金属の彫像のように,そして自分の壁となってそこに残っているのだ。

 生きている。

 幽霊になって見ているのではない。生きて現実を見ているのだ。

 「なんだよこれ! ヒナタ! 大丈夫か!」

 カザンも一切の理解が追い付いていなかった。

 「大丈夫,だ,けど・・・。」

 どういうことだ,とまでは言葉に出せなかった。出すこともなかった。自分の姿がそこに残っている。それ以外の現実はどこにもなかったのだから。

 周りの,意識の戻った生徒もこの光景に驚きを隠せなかった。あるいは,自分も何か隠し持っているのではないかと怯えていた。

 一体,何が起こっていたのだろうか。ヒナタは今,必死に思い出そうとしていた。



 白東(はくとう)中学校は山の中にあるような,田舎の端にある中学校である。4集落の子供たちが全員集まるが,それでも202人しか居ない。いや,それでも良いほうなのかもしれない。一学年も二クラスしかなく,小さな場所であることに変わりはない。山の中にあるせいで,登下校はまるで登山だが,それでも明治後期からある学校で,大戦中は疎開先にもなった。歴史ばかりはある。

 人数が少ないせいで部活はどうしても弱いが,学力は平均よりも若干20点高い。

 その日,6月7日はいたって普通の,通常日課だった。空は鈍色に淀んで,水曜日だからか気分も落ち込んでいた。

 事が起こったのは,3時限目の頃,12時手前だった。

 ヒナタ達3年1組は数学で,ちょうど担任の赤井江が一組の授業を受け持っていた。

 単元の発展的内容が含まれるプリントを,クラス32人で解く授業を行っていた。赤井江も教室内を回り,ところどころで簡単な説明をしていた。外では2年2組が体育をしており,ソフトボールだろうか,叫ぶ声が聞こえる。

 雲間が開き,僅かに陽が差す。その明るくなった瞬間に,事は,起こった。


 最初は建物が揺れているかと思った。最も,3年前に改築工事をしたと聞いたので,大した心配はしていなかった。赤井江もそういっていた。しかしその揺れは,徐々に強くなり,建物は揺れていなかった。何か腹の底から溢れていくようで,次第に頭痛に襲われた。クラスの全員が,学校にいた全員が,症状に襲われていた。揺れは加速し,毛細血管が切れるような音がした。体の弱い英里舜華(えいりしゅんか)は、血液交じりに嘔吐していた。体が崩壊していく感覚。全員がその恐怖に襲われたが,誰も抵抗が出来ぬまま,ついに誰も立てなくなった。

 爆発音が起こった。何が爆発したのかわからない。しかしその瞬間,強い光が全員をつつんで,みな意識を失った。


 それ以外は,彼らに何もわかっていない。クラスの和竹秋五(わたけしゅうご)が他クラスを見ていたが,どのクラスも教師だけが,赤井江と同じような状況で死んでいた。ただ誰も起き上がっておらず,息をする音はしたので生徒は全員生きていた。

 「意味わかんねえ,なんで大人だけ・・・。」

 「さっきの揺れか,原因は。」

 「わかんねえ,畜生ッ」これはシュウゴが言った。その時に放った,壁を打った拳から放電していたことはそれを見ていた全員が確認していた。

 「とにかく,校庭に出よう。全員起こして。」

 「カザン,分かった。」さすがは生徒会長,どこまでも冷静さは崩さないのか。

 ・・・いや,さっきの俺のようなことじゃないのか。悲しさを感じなかったように,カザンも何かを失ったことを感じているのではないか。そうヒナタは思わずにいられなかった。 


 

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