5話:ファック・マイ・ライフ!⑤
朝になり、ようやく店長が出勤してきた。
店長の顔を見た瞬間、俺は張り詰めた糸が切れるように安堵してしまう。
もちろん、店長に会えたことが嬉しいのではない。店長の出勤と入れ替わりで退勤できることが嬉しくて仕方ないのだ。
よかった……これでようやく帰れる。
今日はクソウザい客共のせいで本当に疲れた……早く家に帰って、酒でも飲みながら休もう……。
俺は嬉々として、店長に話しかける。
「店長、お疲れ様です」
「おう、杉崎。ご苦労さん」
「店長、夜中の営業時間中の報告したいんですけど、今大丈夫でしょうか?」
「ああ、いいぞ。聞いてるから報告してくれ」
「はい」
事務室のパソコンを見つめる店長に、口頭で軽く夜間の報告をする。
夜中に出勤していた従業員や夜中の売り上げをを報告する最中、俺は朝方に遭遇したじいさんや大学生たちのことを思い出す。
一応、報告しておいた方がいいのだろうか……と1人頭の中で懊悩する。
べつに、店になんらかの被害が生じたわけじゃない。不利益を被ったのはあくまで俺個人だけなのだから、報告するほどのことでもないような気がする。
それに……わざわざ自分から報告したいとも思わない。
老害クレーマーに怒鳴りつけられて土下座を強要された末に本当に土下座したこと、酒に酔った大学生たちに絡まれて好き放題言われて馬鹿にされたのに愛想笑いをして我慢し続けたこと、それらすべてを一切合切包み隠さずに話す……そう考えただけでより一層惨めな気持ちが込み上げてきてしまう。
「……報告は以上です」
自ら報告を打ち切る。
結局、面倒なお客様たちのことはなにも話さなかった。
なにも話さないのが正解だと思ったから。
「おう、わかった」
「じゃあ、報告もしたので俺はもうあがります」
言うより早く、そのままタイムカードを切って、退勤しようとする。
しかし、その際、
「あ、杉崎、ちょっと待ってくれ」
とパソコンから視線を移した店長が俺のことを呼び止める。
「なんですか?」
「お前、今日この後なにか用事あるか?」
「いえ……特にないですし、家に帰って寝るだけですけど……」
「なら、ちょっと俺と一緒に休憩室に来てくれないか? 話があるんだ」
「話、ですか?」
「ああ。もちろんその時間も面談っていうことで残業代はつける」
「わ、わかりました……」
店長のどこか有無を言わさぬ物言いに押し切られて、そのまま休憩室に連行されてしまう。
休憩室に備え付けてある自販機で缶コーヒーをごちそうになる。
「ほれ」
「ありがとうございます。いただきます」
そのままお互いにテーブルに座り対面する。
店長は間髪入れずに話しかけきた。
「杉崎、お前今いくつだ?」
「えっと……今年で28歳です」
「もうすぐ三十路か。それにしちゃ顔が若いな。最近の若い奴はぜんぜん顔が老けなくていいな」
「あはは……そうですか?」
苦労してないとでも言いたいのか?
「俺の頃で三十路っていったら、大抵の奴はもう結婚して子供もいたし、車や家なんかも買ってたからなぁ。そりゃあ色々と大変だったし、面倒な苦労も多かったから、嫌が応にも老けたもんだぜ?」
「へぇー、そうなんですか」
知らねぇよ。心の底からどうでもいいわ、そんなこと。
老害の苦労自慢はいいから早く用件を話してくれ。
俺がそう心の中で怨じていると、その気持ちが通じたのか店長は真面目な口調で要件を切り出す。
「それでよぉ、お前……たしか高校生の頃からこの店で働いてるよな?」
「そうですね。高校1年の秋ぐらいにアルバイトでこの店に入ったんで」
「てことは、えーと……お前10年以上ここで働いてるのか!?」
店長は指折り数えながら驚いた様子で声をあげる。
対して俺は苦笑気味に、
「まぁ、そういうことになりますね」
とだけ答えた。
「俺がこの店に異動させられる前からお前がいたのは知ってたけどよぉ、アルバイトで10年以上はすげぇな」
「といっても……大学卒業して就職したときに1回辞めてますけどね」
「そういえばそうだったな。たしか、新卒で入った会社はちょうど1年ぐらいで辞めたんだよな?」
確認するような口ぶりで店長は聞いてくる。
俺は思わず目を背ける。
「そうですね……俺には向いていない仕事だと思ったんで……」
「それでこの店にアルバイトとして戻ってきた、と?」
「はい……いつまでも親に面倒をみてもらうわけにもいかないんで……。とりあえず、月々の生活費を稼ぐために、働き慣れたこの店に戻ってきたってわけです」
できるだけ余計なことは一切言わず、事実を上辺だけ、外面よく取り繕いながら答える。
本当は新卒で入った会社を辞めてから半年間ずっと働きもせずに自由気ままなプータローを謳歌していたら、親が本気で激怒して、「実家で暮らすなら月々の生活費を入れろ! それすらしないなら、さっさと家を出て行け!」と脅されたからだ。それで俺は慌てて、学生時代ずっとラクで居心地が良いからという理由で続けていたこの店に出戻ってきたのである。
「今、他になにかバイトはしてるのか?」
「一時期は引っ越し屋や工場の派遣なんかも行ってましたけど……今はここだけですね。ここならシフトの融通もききますし……今は夜勤のシフトを週5で入ってます」
「そうか、そうか。ということは、とりあえず、今はまだ定職に就いてはいないんだな? つまり、フリーターっていうことでいいんだよな?」
またもや確認するような口ぶりで聞いてくる店長。
俺は再び目を逸らす。
「まぁ……そういうことになりますね」
そして、またもや同じように簡潔に答える。
すると、店長は言った。
「だったらよぉ、お前、そろそろ身を固めてみないか?」
「え?」
一瞬、意味がわからず固まってしまう。
「それって……」
「うちの正社員になってみないか?」
「!」
店長の言葉の意味を理解して、今度は狼狽してしまう。
「それって、正社員登用ってやつですか……!」
「まぁ、いわゆるそれだな」
まったくもって予想だにしていなかった提案を告げられて、驚いてしまう。
「お前もわかってると思うが、今、うちの会社も慢性的な人手不足で困ってるんだ。今までは定年退職した連中が定年後もアルバイトとして働いてくれてたからよかったんだが、最近はさすがに身体がガタがきて、働くのが辛いみたいでな」
そのまま店長が、俺の顔をまっすぐに見据える。
「正直、お前ならアルバイト歴も長いし、社員になってくれると、うちの会社としてもかなり助かるんだ」
その一言が深く耳に残った。
その一言が深く心に響いた。
ヤバい……かなり嬉しい。
自分を必要としてくれているということが嬉しくて仕方なかった。
「ここで長いこと働いてるパートのばあさんたちや前にいた社員の連中なんかから聞いたんだが、お前、入ったばかりの頃はぜんぜん使えなかったらしいな?」
店長はゲラゲラと笑う。
その笑い方に少しだけイラっとする。
だけど…悔しいけど、自分でも、事実そうだったと理解して認めているから、否定することができない。
「最初はレジ打ちもまともにできなくて、品出ししかできなかったんだろう? しかも、商品を出すスピードもかなり遅かったらしいじゃねえか?」
「たしかに……レジ打ちの研修で合格判定を貰えたのは2年目になってからでした」
他の新人アルバイトが数週間で覚えた仕事を、俺はその何倍もの時間をかけて覚えるのが常だった。
他人より、要領が悪いのはいつものこと。
他人より、効率が悪いのもいつものこと。
他人より、作業が遅いのもいつものこと。
他人より、理解が遅いのもいつものこと。
俺はいつだって、他人より遥かに劣っている。
「でもよぉ、お前、それが今じゃ値札や定番商品の企画作成、特売コーナーの設置、配送商品の卸し、アルバイトのシフトの作成まで、色んな仕事ができるようになってんじゃねえか?」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうに決まってるだろう。お前は事実、この店のアルバイトチーフみたいなもんだ。もっと自分に自信を持てよ」
「あ、ありがとうございます……」
たまらず、顔を下に背けて、再び、目を逸らす。
「お前は今じゃ大切なうちの主戦力だ」
だけど、その理由はさっきとはまるで違った。
「俺だって、この店の店長として、お前のことを数年間みてんだ。お前が文句も言わずに真面目に黙々と誰かのために働いてくれるような責任感のある男だってのはちゃんと知ってるんだ」
買い被りすぎて、気恥ずかしかったし……嬉しかった。
そして……。
「どうだ? いい機会だし、このまま、うちの社員にならないか? その気があるなら俺が本社に提出する推薦状を書いてやるぜ?」
なんとか、その期待に応えたいと思う自分がいた。
「……少し考えさせてください」
「ああ、わかった。答えは急がなくてもいいから、ゆっくり真剣に考えてみてくれ」
そう言って、店長はようやく缶コーヒーのプルタブを開けた。まるで、その仕草が面談の終了を告げているかのように俺には思えた。
「悪かったな、余計な時間をとらせちまって」
「いえ、そんな……むしろ、ありがとうございます。社員登用……考えていただけるなんて」
「まぁ、慣れてるお前が社員になれば、一から教えるより断然ラクだからな」
ふと、店長の視線が壁に貼られていたアルバイトのシフト表に目が留まる。
「杉崎、そういえばお前、明日は休みか?」
「あ、はい。今日の夜、小学校の同窓会があるんで」
「おう、そうか。楽しんでこいよ」
「はい! ありがとうございます!」
勢いよく椅子から立ち上がってから、いただいた缶コーヒーを一気に飲み干す。
そして店長に深々と挨拶する。
「それじゃあ、すいません! お先に失礼します!」
「おう、ご苦労さん」
帰りの途中、電車の中で、俺は店長が話してくれた社員登用について考えてみる。
悪い話ではない。
いや……むしろ、客観的に考えてみれば、ろくに勉強もせずにFラン大学に進学して卒業した挙句、新卒で入った会社を1年で辞めるような自分からしたら、かなりいい話かもしれない。
「……最近、感じてたんだよな」
俺も、もう、若くはない。
今の俺に求められているのは即戦力としての力だ。
ただ、なんとなく、与えられた仕事や指示に従って適当に働いている俺に、他の会社や仕事で通用するための能力や実績があるわけがない。
居心地が良いからという理由だけでひとつの仕事を長年続けている俺に、自ら動いて転職しようとするためのやる気など、あるはずがない。
このままだと、ただ、無意味に歳をとるだけだ。
このままだと、ただ、自堕落に堕ちててくばかりだ。
もしかしたら、ここが俺の人生にとっての正念場なのかもしれない。
「仕事に貴賤はないって、言うもんな……」
もしかしたら、これが俺にとってのマトモな職に就く最後のチャンスかもしれない。
「よし……やってみようかな……!」
新たな決意を胸に、俺は吊革を強くに握り締めた。