38話:ラビットハウス・オン・ザ・ラブ!⑥
「す、杉崎くん!?」
俺のことを一目見て、綾野はすっとんきょうな声をあげては驚く。
どうやら彼女は他の誰かが来たと勘違いしていたようだ。
「ど、どうして……なんで……」
「お見舞いに来たんだけど……迷惑だったかな?」
「そ、そんなことないわ。ごめんなさい。ちょっと驚いただけだから……」
彼女に連れられて部屋に入る。
平静を装っているけど……家族や親戚をのぞけば、人生初の女の子の部屋に入る機会ということもあり、内心は緊張してしまう。
「どうぞ、そこに座って」
「ありがとう」
俺と綾野はソファにテーブルを挟んで座り合う。
……俺の部屋とは大違いだ。
彼女の部屋は、まるでトータルコーディネートされたモデルルームのようだ。しかも、掃除が行き届いていており、埃ひとつ落ちていない。
だけど、それより目が行くのは……。
「どうしたの?」
「あ、いや……初めて部屋着を見るなぁって、思って……」
正直、鼻の下を伸ばしてしまう。
「も、もう。あまり見ないで……」
綾野は恥ずかしそうに身悶える。
そんなあざとい仕草さえ可愛いと思えるのだから俺も重症だ。
「お見舞いにきてくれて、ありがとう」
「うん……それで体調はどう?」
とたんに彼女の表情は暗くなる。余計なことを思い出した、といった風に。
「ごめん……体調っていうより、気分だよね?」
「ごめんなさい……杉崎くんにも迷惑かけちゃってるよね……」
手元にあった枕を掴んではそれをぎゅっと胸に抱える彼女。
それはまるでうさぎを抱いていたときの仕草にそっくりだ。
そのとき、俺は初めて彼女の瞳がまるでうさぎのように赤く晴れていることに気付く。よく見ると枕の表面にもうっすらとした染みが見える。
綾野は自分の顔を枕にうずめる。
「なんで、なのかな……」
まるで自分の顔を隠すようにして。
「いつも、こうなの……」
自分の意思とは関係なくあふれでる感情を隠すようにして。
「私がなにかするといつも壊れちゃう……」
「……今までにも、こういうことがあったの?」
彼女は無言のまま壁に張られたボードを震える手で指さす。
ボードには何枚かの写真が貼られている。
ピアノを弾きながら微笑む小さな女の子、プールで仲良く水浴びをするふたりの小さな女の子たち、仲良く弁当を食べる男の子と女の子、大きなホールケーキを囲う少女たち。
壁に飾るほど楽しかったであろう思い出の数々。しかし、そこに写る笑みとは違い、彼女は悲痛な顔でそれらを見つめる。
「あの頃はただ弾いているだけでも楽しかったのに、最近はピアノがぜんせん楽しくない……昔は私の方が速く泳げたのに、途中で辞めてからは妹の方が上手になった……あの頃は普通に話せてたのに、最近は上手く話せない……」
俺は静かに耳を傾け続ける。
「昔はいっぱい遊びに来てくれたのに、ぜんぶ自分で壊しちゃった……」
「……いったい、なにがあったの?」
綾野は小さく鼻をすすってから話してくれる。
「ピアノを習ってるの。昔からずっと。専任の先生もいる。でも、私がぜんぜん上達しないから最近は先生も私への指導はおざなりで妹にばっかりかまけて……」
自分の過去を。
「だから、私、もっとがんばらなくちゃって思って。ピアノは大好きだったから。これだけは負けたくなかったから。だからプールの習い事をやめたの。でも、それでもピアノの腕は上達しなくて……妹は今も掛け持ちしてがんばっているのに……」
自分の気持ちを。
「なにをやってもだめな自分がだんだん怖くなってきた。『私なんかが彼の傍にいてもいいのかな?』って思うと彼に話しかけるのが怖くなった……」
自分だけの気持ちを。
「……ケーキの写真は?」
「……前の学校の“お友達”。家にも遊びに来てくれた。誕生日にも来てくれた。でも、あの日、以来、怖くなって……強がって『もうこなくてもいい』って言ったら本当に来なくなっちゃった……」
あの日というのがいつなのかはわからない。
わからないけど……俺には知りようもない彼女にとって、とてもつらいことがあった日なのだろう。
「だから、ぜんぶ私が悪いの……」
「綾野さん……」
彼女の口振りを聞いて、ふと思った。
彼女は気付いているのだろうか、と。
……本当に伝えるべきなのだろうか?
今の彼女に真実を語るのはあまりにも残酷かもしれない。
だって……彼女は今こんなにも傷付き、苦しんでいるのだから。
そのとき、部屋の外から声がした。
「愛花ちゃん。杉崎くん。お菓子を持ってきたけど、入ってもいいかしら?」
「えっと……ちょっと待ってください!」
とっさに綾野の代わりに俺が返事をする。
「俺が代わりに会ってくるよ。……それでいい?」
泣き腫らした顔を見せて心配をかけたくないのだろう。
必死に泣き顔を晴らそうとする彼女にそう言って、部屋の外に出る。
「すいません。やっぱり、まだ気分がよくみたいで……ベッドに寝てるので俺が代わりに取りに来ました」
「そう……じゃあ、あまり無理はしないようにって、伝えておいてくれる?」
「わかりました」
「あと、これ。こんなものしかないけど、ふたりで食べてちょうだい」
「あ、ありがとうございます……」
女性からお菓子を受け取る。
皿に盛り付けられた彩り豊かなお菓子たちはまるで宝石のようにも見える。
病人が食べるには少し重いと思うけど……。
部屋に戻り、彼女に受け取ったお菓子の皿を見せる。
「あの人がお母さんだよね?」
綾野はなにも言わない。
「ずいぶん心配してたよ……」
やはり彼女はなにも言わない。
「言ってたよ。『あの子、なにも言ってくれないから……』って。優しいお母さんだね」
若干、天然気味だったけど。それでも俺には娘を想う優しいお母さんに思える。
「……お母さんのことが嫌いなの?」
「違う、そうじゃないけど……」
「だったらどうして?」
「……怖いの」
「怖い?」
おもわず聞き返す。
「あの人を信じたいのに信じられなくて、怖いの……」
あの人……という言い方が気になった。
「……あの人は私の本当のママじゃないの」
「え……」
思いもよらない事実に唖然とする。
「本当のママは私が小さな頃に病気で死んじゃった……だから、あの人は私のお母さんだけど、血はつながっていないの……」
……いわゆる『継母』というやつだろうか。
「お母さんはたしかに優しいよ。本当に優しい……でも、優しいだけなの」
彼女は胸に抱きしめた枕を強く握りしめる。
「私があのうさぎをかわいがっていたみたいに優しくするだけで……絶対に私のことを叱らないし、怒らない……まるでペットみたいに私を扱うだけで、私自身を見てくれないの……」
「…………」
「妹は……本物の娘には怒るのに、叱るのに……」
「…………」
綾野が抱いているそれはきっと……疎外感だろう。
俺も似たような経験をしたことがある。
昔、小学生の頃、近所のコンビニで万引きをしたことがある。分別のない子供がする他愛もないイタズラのようなものだったが、それがバレて親に見つかったとき、俺ははじめて両親に頬を引っ叩かれた。
頬が痛かったし……心が痛かった。
そのときの親の顔を見ると、そこには子供心にたしか“愛情”のようなものがあったから。
愛の形は人それぞれだ。
かわいがり、守り続ける愛もあれば、ときには怒ったり、叱ったりする愛もある。子供よりも先に死ぬ運命にある大人なら……なおさら考えるはずだ。
自分がいなくなったあとの子供のことを。
自分がいなくなったあとの子供の未来を。
そして、俺は今、ようやく気が付いた。
今の綾野は子供なんだ、と。
まだ12歳の小さな女の子なんだ、と。
そんな当たり前の事実に俺はようやく気付いたのだ。
血の繋がりなんて関係ない――そう大人たちは言う。だけど、それは大人だからこそ言えることだ。それは精神的に、経済的に、自立している大人だからいえること。
まだ社会も知らず、分別のついていない子供にとっては……そういう目に見える“つながり”だって、同じくらい大切なんだ。
そして……それは必ずしも大人だから言えるわけではないことを、俺は知っている。
大人は誰しもみんな“強い”わけじゃない。
……きっとおんなじなんだ。
彼女が血の繋がらない継母に『自分は愛されている』と信じきることができず、怖がるように。女性も血の繋がらない娘に『自分の愛が伝わる』と信じきることができず、怖がっている。
結局のところ、子供も大人もおんなじだ。
自分から相手に向き合うのが怖いのだ。
だからこそ、俺は……。
「綾野さん……ひとつ、大事なことを聞いてもいい?」
俺はこれみよがしにお菓子を手に取っては、それを彼女に見せる。
「うさぎになにを食べさせたの?」




