3話:ファック・マイ・ライフ!③
休憩をとり終えて仕事に戻ったあと。
気が付けば、夜は空けて朝方になり、朝日が出るか出ないかというような時間になっていた。
今から俺がやるのは定番商品の品出し作業。
レジは今、他の人が代わりに入ってくれている。その人が休憩をとる時間になったら『レジ応援』のアナウンスを店内に流すはずだから、そのときに俺が代わりにレジに入ればいい。
また、あと数時間ほどで、今日の朝番である店長が出勤してくるはずので、店長と入れ替わりで退勤する。
そんな風に漠然と残りの段取りを頭の中で考えながら品出しの準備をする。
「まずは飲料からだな。もう、どの商品も残り少ないだろうし、カートごと持ってくか」
バックヤードに積まれている飲料の在庫商品をカートのまま引いて持ち出して、店内の飲料コーナーへと向かった。
カートを引いて飲料コーナーに着くと、ちょうど複数人のお客様たちが商品を眺めていたので、持ってきたカートをお客様の邪魔にならないように通路の隅に寄せて、お客様たちが商品を選び終わるのを待つ。
まだ夜中といっても差し支えのないような朝早くであるにも関わず、店に来るお客様たち。店を経営する管理者側としては嬉しいかもしれないが、現場で働く従業員側としては面倒にしか感じない。
早くどっか行ってくれないかな。
そんなことを考えながら、ジッとお客様たちを眺める。
こんな時間だというのに買い物に来ている老人たち。
老人は朝早くから起きているとはいうけれど、いくらなんでも早すぎだろう……いや、それとも朝早くから、なにか参加するイベントがあって、そのための買い物に来ているのか?
定年退職して暇になり、尚且つ老後の蓄えを確保しているような上級国民の老人ならばありえる。よく見ると、老人たちはみんな小さくて軽そうなリュックを背負っていた。
朝早くであるにも関わらず談笑しながら、飲み物を物色している老人たちを見て、俺は溜め息を漏らす。
……いなくなるのにまだしばらくかかりそうだし、先に他の部門の品出しをするか。
そんなことを考えて、その場を後にしようするのだが……。
それに気付いて、おもわず――。
「ちょ、ちょっと、なにしてるんですか!?」
――慌てて、声をかける。
それくらい、そこにいた1人の男性老人が衝撃的で、ふざけきったことをしでかしていたのだ。
その老人はギロリと俺を一瞥してから、何事もなかったかのようにその行為を続ける。
マジか……このじいさん。非常識すぎる。
じいさんは冷蔵ケースの棚に置かれていたミネラルウォーターを取り出して――そのまま開封して飲み始めてしまったのだ。
まだその商品を購入したわけでもないのに。
「あの……ごめんなさい。この人が買ってもいないのに勝手に飲んじゃって」
じいさんの代わりに、すぐ近くにいたばあさんに謝られる。しかし、代わりに謝られても仕方がないし、謝ればいいというような問題でもない。
「お会計を済ませていない商品を飲むのはさすがに……」
「ほんとにごめんなさい」
「ていうか、なんで飲み始めたんですかっ」
普通しないだろう、そんなこと。
まぁ……普通じゃないからそういうことをしたわけだけど。
「やめるように言ったんですけど……この人がさっきから『喉が渇いた』て言って聞かなくて……」
ばあさんは申し訳なさそうに真摯な態度で謝罪してくる。それに引き換え、当の本人であるじいさんの方は『あとからちゃんと購入するんだから、べつにいいだろう」とでも言いたそうな顔をしながら、再びペットボトルに口を付ける。
「だからやめてください!」
先程よりも強い口調で再度じいさんに声をかける。すると、じいさんは世にも鬱陶しそうな眼差しを俺に向ける。
「さっきから横からごちゃごちゃとうるさいぞ! 心配しなくても、あとでちゃんと代金を払うわい!」
「い、いや、そういう問題じゃなくてですね……」
じいさんの威圧的な態度と物言いに俺は萎縮すると同時に呆れて言葉を失う。
周りの他の老人たちが俺のことを気の毒そうな目付きで見つめる。
たぶん、このじいさんはそういう人なんだろう。
「大変申し訳ないのですが……このような行為はやめていただけないでしょうか?」
「金は払うと言ってるだろう! なにが問題なんだ!」
怒気を孕んだ口調でいけしゃあしゃあと言い切るじいさん。そういう問題じゃねぇよ。
「ですが……レジを通していない商品はまだお店の商品ですので、それを勝手に飲まれるのは……」
「仕方がないだろう! 俺は家を出てからこの店に入るまでの間、ずっとなにも飲んでなくて、喉が渇いてたんだ!」
「そうは言われましても……」
「お前さんは店の中で脱水症状を起こして倒れた客がいたとしても、そいつに先に飲み物の代金を支払わせてから渡すのか!」
「そ、それはさすがにしないと思いますけど……」
あんたは脱水症状を起こしてないし、倒れてもいないだろうが。そう言ってやりたかった。だけど、言えば間違いなく、火に油を注ぐことになるだろう。
じいさんはドスのきいた声を張り上げる。
「ふざけるな!」と。
「こっちはお客様なんだぞ!」と。
「お前ら店の店員は誰のおかげで給料が出てると思ってんだ!」と。
怒気を孕んだ声で店内に響き割るかのような大声で喚くじいさん。俺はそんなじいさんのことを心底、非常識だと思ったし……また、心底、面倒くさいクソな客だ、とも思った。
このじいさんをどう対処すればいいのかわからない。
「なんとか言ってみろ!」
「も、申し訳ございませんっ」
たじたじになりながらも、とりあえず俺は謝罪する。
「まぁまぁ、落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろうが!」
「ほら店員さんも困ってるじゃないか。あんまり迷惑かけるなよ」
「そうよ。それに突然大声を上げたら身体に良くないわ」
「迷惑をかけているのも、大声を上げさせているのも、ぜんぶこいつのせいだろう!」
先程のばあさんや他の爺さんたちが間に入って、じいさんを必死になだめてくれる。しかし、頭に血が上っているのか、じいさんはまったく聞き入れようとはしない。
ハッとして振り向き、辺りを見る。
そのとき、初めて、何事かと思った他のお客様や店員が遠巻きに俺とじいさんのいざこざを傍観していることに気が付いた。
有象無象の傍観者の中には面白がって自身のスマホで俺やじいさんのことを撮っている人までいる始末。
やばい……これ以上は大事にしたくない。そんな切なる思いを胸にする。
「この子も謝ってるんだし、もういいじゃない。許してあげましょうよ。……ねぇ?」
「!」
ばあさんが片目をつぶって俺に合図のようなものを送ってきた。それを俺は見逃さず、ほぼ反射的に強い口調で、
「は、はい! 本当に申し訳ございませんでした!」
と力強く謝罪の言葉を口にした。
じいさんが不満げをあらわにした様子で俺を凝視する。
「本当に申し訳ございません!」
もう一度、大声で謝罪する。今度は大きく頭まで下げてやる。
すると、それまで無言で睨んでいたじいさんが一言、
「今ここで土下座しろ。そうしたら許してやる」
とほざいた。
動揺を隠せないまま俺はじいさんの顔を見る。
ものすごく、ムカつく顔をしていた。
あれは人を罵倒して、自分のストレスを解消するような奴の顔だ。
あれは人に無理難題を押し付けて、相手の反応を面白がるような奴の顔だ。
「…………」
じいさんは俺が無言のままなにも言えないでいると、
「店の壁に貼ってある言葉。あれは嘘なのか?」
と言って、壁に貼られた巨大な『お店からお客様へ誓った宣言文』を顎で指す。
それを心の中で読み上げる。
『真心を込めて接客をいたします』
『当店はお客様1人1人への特別な接客をいたします』
「あれは嘘なのか?」
底意地悪く、もう一度問い詰められる。
そんなの――もちろん嘘に決まってんだろうが、と心の中で吐き捨てる。
あんなの……この店で働いてる全従業員が必要ないと思ってる。
あんなくだらない文章を壁に貼るような、安い時給でこき使うような会社に誰も愛着なんて湧かないし、あんたみたいな非常識で面倒なお客様に真心や感謝の心なんて抱くわけがない。
「おい、なんとか言え!」
じいさんがまたしつこく俺に土下座を強制してくる。
他の爺さんやばあさんがじいさんのことを必死に諫めてくれている。遠巻きに見ていた傍観者たちが、自分とは何の関係もない対岸の火事と捉えた上で、俺に同情の視線を送ってくる。
「どうした! 本当に申し訳ないと思っているならやってみろ!」
両手を強く握り込む。掌に熱がこもり、汗ばむ。
下唇を強く噛む。口の中に血の味が広がる。
目付きが険しくなる。眼球が血走るのがわかる。
俺は恥も外聞もかなぐり捨てて――。
「……申し訳、ございませんでしたっ」
それはただひたすらに屈辱以外の何物でもなかった。