21話:ビター&スイート・マイ・ライフ!④
綾野を見て、凄まじい衝撃を受ける。
自分の机で目を覚まし、窓ガラスに映る子供の頃の自分の姿を見たときよりも強い衝撃だった。俺が今までの自分の人生の中で出会ったどんな人たちよりも恐ろしい存在である姫川先生を見たときよりも強い衝撃だった。
尋常ならざる衝撃を受けるあまり、俺は驚愕してしまう。
俺が好きだった女の子。
俺の初恋だった女の子。
俺の目の前で殺された女の子。
俺の胸の中で息絶えた女の子。
そんな、もう二度と会えないはずの女の子が……今、俺の目の前にいる。
俺が彼女と出会い、初めて彼女を見たときの綾野は相変わらず、綺麗で可愛らしくて、俺の好みの顔をしていて……とても幼かった。
べつに俺はロリコンじゃないけど……かつて俺が綾野に一目惚れしたのも納得してしまう。
しかし、今の俺は過ぎ去った甘酸っぱい初恋の残滓を前に心から夢中になることができない。むしろ、子供の頃の彼女を見て、心がざわついた。
まるで時が止まり、時間が巻き戻ったかのような奇妙な錯覚に陥る。
だけど……もしかしたら、それは本当のことなのかもしれない。
俺はただ茫然自失のまま、緊張と不安で強張る綾野の表情を眺めた。
・・・・・
気が付けば、ホームルームも終わり、放課後になっていた。
「これで連絡事項は以上よ。なにか質問や聞き漏らしたこと、わからなかったことはある?」
先生が確認のため、俺たち生徒たちに聞いてくる。しかし、誰も手を上げないし、なにも言わない。みんな、一刻も早く、話が終わり、先生がいなくなるのを願い、必死に嵐が過ぎ去るのを耐え忍んでいる。
すると、先生は生徒たちの想いを汲み取ってくれたのか、
「大丈夫みたいね。はい。じゃあ、今日はもうこれで終わり。帰っていいわよ」
と、自身が手に持つ出席簿の角を教卓に打ち付けながら言った。
先生の掛け声の元、号令をかける。
それが本日の学校生活が終わり、待ちに待った放課後到来の合図だった。
「明日の一時間目に授業で使う教科書を配って、それから授業を始めるわよ。あと、明日の午後に各自が担当するクラスの係と所属する委員会やクラブを決めるから、自分がなにをやりたいか、明日までに考えて決めておきなさいよ」
そう言い残すと、先生は足早に教室を出て行ってしまう。
生徒である俺たちのことを振り返ることは一切なかった。
教室の扉が閉まり、廊下から先生が闊歩する足音が聞こえては少しずつ遠ざかっていく。
先生が視覚的にも、聴覚的にも、教室からも、自分たちの周囲からも、いなくなると、初めて、教室内に取り残されていた同級生たちはにわかに騒ぎ出す。
先生というクラス共通の恐怖の対象であり、邪魔者がいなくなった教室内はとたんにうるさくなる。
多くの同級生たちが大きな溜息を吐いては隣近くの友達や同級生と話し始める。
「なんなの? あの先生?」
「いきなり有無も言わさず、ビンタするとかヤバくない?」
「超怖すぎるんだけど」
「ああ、もうっ! どうして、よりにもよって、小学校最後の六年生にもなって、あんな怖い先生が担任になるのよ!」
みんな、口々に先生のことを貶す。
先生のことを好意的に話す者は皆無であり、誰もが先生のことを“ヤバイ人”扱いする。
「災難だったな、竹尾」
「どうだ? 顔はまだ痛むか?」
「超痛ぇよ……なんで俺だけ二回もビンタされなきゃいけないんだよ……」
「そりゃあ、お前があのイタズラの主犯だからだろう?」
「だから、やめておいた方がいいって言ったのに。ぜんぶ、お前の自業自得だろうが」
「ていうか、あの先生、本当にヤバいな。あんなに怖くておっかない先生……俺、生まれて初めて見たわ」
「あーちくしょうっ。あんなイタズラするんじゃなかったわっ……」
「まったく……後悔先に立たずとは言ったもんだな」
「本当だよっ。あー……まだ顔が痛ぇ……」
みんな、口々に先生の対する不満を吐き出す。
しかし、先生とはべつにみんなの興味を引く人物がもう一人。
転校生である綾野愛花だ。
深窓の令嬢の如く、気品あふれる姿で静かに自分の席に座っている綾野のことを同級生たちは遠巻きに眺めている。
俺もそのうちの一人だ。
だけど、当の本人である彼女は俺を含めた同級生たちからの無遠慮な視線に一切興味を示さず、静かに自身の席に座り、佇んでいる。
声をかけるべきだろうか……?
しかし、そう考えて悩んでみても、それを実際に行動に起こすことはできない。
気恥ずかしいという想いと緊張や不安といったネガティブな想いが俺を躊躇させていた。
そんな風に俺が自分から声をかけることができず、うだうだと悩んでいる間に、クラスの女子のボスと目されていた織部とその愉快な取り巻きたちが綾野に歩み寄り、話しかける。
「ねぇねぇ、綾野さんって、転校する前はどこの小学校にいたの?」
「……なんでっ?」
「え?」
「どうして、そんなのことを知りたいのっ?」
「え、いや……だって、気になるし……」
「…………」
「ご、ごめんっ。話したくなかったら、べつに話さなくていいわよっ」
慌てて、謝罪の言葉を口にする織部。
綾野の刺々しい態度への対応に、少し苦慮しているようだ。
「人のプライベートなことにあまり詮索しないで欲しいんだけどっ」
「う、うん、わかったわっ。ごめんなさい……」
つっけんどんな態度で織部との会話を強制的に打ち切る綾野。
織部の明るくて積極的な態度に、少し辟易しているようだ。
二人の少しだけ険悪な雰囲気を察して、織部の取り巻きである小田と及川がフォローする。
「綾野さんって、髪も凄い綺麗で整っているし、肌も真っ白で、まるでお人形さんみたいね」
「そうかしらっ? ……べつに普通だと思うけどっ」
彼女自身は自分のことを本気でそう思っているのだろう。
綾野は無表情のまま、至極当然のようにそう答えた。
「綾野さんが普通なら、私たちはどうなるのよぉ? もう普通以下のブスっていうことになちゃうじゃない」
織部が自虐を装い、ボケる。それに取り巻きの二人ものっかかる。
「レーナの言うとおりだわ。まぁ、私はレーナよりもワンランクは上だけど」
「そうねぇ。綾野さんがお寿司でいうところの大トロだとしたら、私は中トロで、レーナは赤身かしら?」
二人は笑い、釣られて織部も笑う。
「あはは! いやねぇ、もう2人ともぉ。初対面の人と話してるときぐらいは自重してよぉ」
織部が笑いながら二人の頭をどついていた。
しかし、綾野は全くの無表情のままだ。
そんなとき、桜木が俺の元へとやってきて話しかけてくる。
「杉崎、帰らないのか?」
「え、あ、ああ……うん、帰るよ……」
歯切れ悪く、曖昧な返事をしてしまう。
「なら、今日、一緒に帰ろうぜ? 最近、お前と遊んでなかったしさぁ」
「え、あ、ああ……うん、そうだな……」
綾野に視線を向けたまま、適当に返事をする。
正直、邪魔だし、早くどっかに行って欲しい。
「なんていうか、ずいぶんと綺麗な女の子だよなぁ。俺たちとは住む世界が違うっていうかさぁ」
俺が綾野のことを見続けていることを不思議に思ったのか、桜木は言った。
「…………」
なにげなく言ったのであろう、桜木の言葉が俺の胸に深く突き刺さる。
俺たちとは住む世界が違う。
たしかにそうだ……。
たぶん、世間一般的に見れば――この頃の綾野はすこぶる恵まれた環境で生きていたと言えるだろう。
姫川先生が普通ではないように……綾野も普通ではないのだ。
そう……本来なら、俺と綾野は出会うはずもない。
これは偶然か、必然か、それとも運命か……。
そんなことを考えてる俺をよそに、織部たちは懲りずに綾野へと歩み寄る。
「綾野さんって、すっごく可愛い服を着ているよね? それって、どこで買ったの? もしかして、オーダーメイド?」
世継ぎ早に話しかける織部に対して、綾野の態度はあくまで素っ気ない。
「……知らないわよ。いつも使用人が適当にどこからか買ってくる服を着ているだけだし……いちいち気にしたこともなかったわ」
「使用人?」
ふいに織部の瞳がたじろぐ。
「それって、家にお手伝いさんがいるってこと?」
「ええ、そうよっ」
「へぇ、そうなんだ……もしかして、綾野さんちって、お金持ちなの?」
「さぁ? ……べつに普通だと思うけどっ」
また、彼女自身は自分のことを普通だと言った。
本気でそう思っているのだろう。
綾野は無表情のまま、至極当然そうに答えた。
俺は詳しく知らないけど……たしか、綾野はお金持ちの子が通うような名門私立大学の付属小学校に通っていたはずだし、きっと彼女の周りには幼い頃からお金持ちの子ばかりだったんだろうなぁ。
たしか、そんなことを仲田さんが言って――――――――仲田さん!?
ようやく気が付く。
俺は今の今まで、彼女の存在をなぜ思い出せなかったのだろうか?
いくら驚き、混乱していたからって……なぜ、今の今まで思い出さなかったのだろうか?
そうだ……そうだよ!
仲田さんは今、どこにいるんだ!?
俺は教室内を見回して、無我夢中で仲田さんのことを探す。
「おい、どうしたんだ? 突然、教室内を見回して? 誰か探してるのか?」
「え、あ、ああ……うん、まぁね……」
桜木との会話を軽く聞き流しながら、仲田さんのことを探す。
相変わらず、綾野と織部たちはなにかを話しているようだが、今は彼女たちの話を聞いている場合ではないので気にもならなかった。
「ふーん、そうなんだ……」
「ねぇ、悪いんだけど……そろそろいいかしら?」
「え?」
「私、そろそろ帰らなきゃいけないんだけど……」
「あ、そっかー。そうだよね」
「ねぇ、せっかくだしさ、一緒に帰らない?」
「……私、今日は家の車で学校まで来てて、帰りも車なのよ。だから……ごめんなさい」
「あ、そうなんだ。うん。大丈夫だよ」
「引き止めちゃって、ごめんね」
「……べつに気にしてないわ」
綾野は少しだけ申し訳なさそうに俯いてからランドセルを背負う。
織部が、そんな綾野のことをを酷くつまらなそうな表情で眺めていたことに俺は気が付かない。
「そのっ……そ、それじゃあ……」
歯切れ悪く、少しだけどもる綾野の言葉。か細く、小さな声のせいで、言葉の語尾の方はなにを言っているのか、本人以外は誰も聞き取れそうにもない。
「うん。それじゃあねー」
お互いに別れの挨拶を交わした後に綾野は教室を出て行く。
そのあと、取り巻きである小田がポツリと呟いた。
「なんか、あの子……感じ悪い」
「モエもそう思った? 私もなんだけど。あの子、なんていうか……話してても面白くないし」
「それよねぇ。せっかく話しかけてあげてるのに、ぜんぜん話題を広げてくれないし、それどころか話をそこで強制的に終わらせちゃうんだもん。会話のキャッチボールにならないわ」
「…………」
「ねぇ、レーナも、そう思うでしょ?」
「え? あ、ごめん……聞いてなかったわ。なんて言ったの?」
「だから、あの子、なんだっけ? そう綾野さんって、なんか感じ悪くない?」
「……まぁ、そうねぇ。まだ、あんまり話してないし、あまり他人のことをどうこう言いたくないけど……なんていうか、自分が普通だと思い込んでいるのが、すっごくムカついたわ」
「あーそれ私もだわ。なんでかしら? なんか無理に謙遜してるみたいで、かえって馬鹿にされた気分だわ」
「あれじゃない? あの子の家って、お金持ちそうだし……それに転校生だから、自分の家が特別だとはわからないような環境で生きてきたんじゃない?」
そう言って、取り巻きの二人はグチグチと会話を続ける。
「ほらほら、人の陰口で盛り上がらないの。それよりも早く帰るわよ。せっかくの午前中のうちに家に帰れるんだから」
「そうねぇ」
「ねぇ、せっかくだし。今日、みんなでどこか遊びに行かない?」
「悪いけど、私はパス。家の家事しなくちゃいけないし、家族にエサをあげなきゃ」
そう言うなり、織部たちは自分たちの席へと戻っていった。
俺は教室内を見回して、仲田さんがいないことに気が付く。
同時に、綾野も、もうすでに教室にいないことに気が付く。
みんな、各人、バラバラに放課後の時間を満喫していることに気が付く。
「なぁ、杉崎、そろそろ帰ろうぜ」
「…………」
「ていうかさ、今日、杉崎んちに寄って行ってもいいか? 久しぶりにお前んちに行ってテレビゲームがしたいし、お前の姉ちゃんにも会いたいしさぁ」
「…………」
「おーい、杉崎、聞いてるか?」
「ごめんっ。今日は無理っ」
俺は自身のランドセルを掴み、背負う。
「え、お、おいっ! 杉崎っ!?」
言うが早く、俺は席から立ち上がり、綾野を追いかけようとして教室の扉を開く。
すると、そこには。
「!?」
「!?」
彼女が教室を出たところの廊下……すぐ近くにいた。
まさか、まだ、すぐ近くにいるとは思ってもおらず、またもや驚いてしまう。
だけど、それは綾野も一緒だった。
彼女は驚き、俺のことを警戒しているかのような目付きで見てくる。
彼女の片手には、この当時、最先端だった携帯電話がある。それを使って、家族か、それとも家の使用人か、とにかく誰かと連絡していたのだろう。
まさか、こんな騒がしい廊下で電話しなくてもいいのに。
ここじゃあ、教室からの声も聞こえてくるから、うるさいだろうに。
綾野と俺の視線が交差する。
彼女の瞳は少しだけ揺れている。なにかあったのだろうか?
「あ、綾野……」
「…………」
半歩後ずさり、両腕で自分の身体を抱きながら俺を警戒してくる。
「あ、いや……ごめん、綾野さん……」
慌てて言い直す俺。
それでも綾野は俺への警戒心を緩めない。
「あ、あの……その……」
言いかけて――なにを言えばいいのかわからなくなってしまう。
気恥ずかしさと緊張と不安、そして焦り――そういったさまざまなネガティブな想いが重なり合い、俺は綾野を前にして、頭の中が真っ白になってしまう。
「え、えーと……」
「なに……?」
しどろもどろな俺の態度に綾野は苛立つ。
俺は……なにを言えばいいのだろうか?
なにを、どう言うのが正解なのだろうか?
「俺、同じクラスの杉崎勇気っていうんだけど……」
「うんっ」
「綾野さん……覚えていない?」
俺のこと……自分のこと……未来の記憶について。
「……今日、初めて会ったんじゃないのっ?」
「え、あ、そ、そうだよ」
「……なら、私はきみのことを知らなくて当然じゃないのっ」
「そ、そうだよねぇ、あはは……」
とりあえず、適当に苦笑いをして、誤魔化す。
どうやら、彼女は俺とは違うようだ。
時間が巻き戻っているのは……この世界で俺だけなのかもしれない。
「もう行ってもいい?」
「え、あ……ちょ、ちょっと待って」
「まだ、なにかあるの?」
どこかうんざりしたような表情で綾野は俺を見つめる。
俺はない頭を必死に振り絞り、必死になにか気の利いた言葉を考えてみる。
そして――
「あのさぁ……一緒に帰らない?」
結局、俺はこういう誰かの手垢に塗れた無難なことしか言えなかった。
「……悪いけど、私、今日は車で学校に来てるからっ」
「え、あ、うん……そっか……ごめんね」
「……べつにっ」
そう言い残して、彼女はそのまま歩いていく。
その後ろ姿が、俺にはなんだか寂しそうに見えて……。
「……あの、綾野さん!」
「…………」
振り替えもせず、立ち止まりもせず。
俺はその小さくなりゆく背中に向かって、叫ぶ。
「またね! また、明日!」
「!」
彼女の足が止まる。
振り帰り、聞こえるか聞こえないかの小さく、素っ気ない声で、
「……またね」
と返事をしてくれた。
そして、そのまま歩いて行ってしまった。
「…………」
彼女の背中が見えなくなり――俺は盛大に大きな溜息を吐く。
童貞かよ、俺は……。
いや、俺は童貞だけど……。
コミュ症かよ、俺は……。
いや、俺はコミュ障だけど……。
なに、小学生相手にドギマギして緊張してんだよ。
いい加減、誰かに話しかけるぐらい、そつなくこなせるようになれよ。
俺、見た目は子供でも中身は大人なんだぜ……?
もっと精神的に余裕があってもいいような年齢だろうが。
そんなことを考えて意気消沈していると、突然後ろから肩を叩かれる。
「うわっ!?」
「おーいい反応だな、お前」
驚き振り返ると、そこには桜木がいた。
「桜木……」
俺は肩透かしを食らいながら、安堵の溜め息を吐く。
桜木はどこか微笑ましそうなウザいことこの上ない笑顔で、もう一度、俺の肩を叩く。
「お前、ああいう女の子が好みだっけ?」
「…………」
「照れ屋のお前が、自分から初対面の女子に話しかけるなんて珍しいじゃん」
「……悪いかよ」
桜木の笑い顔がなんだかムカつくし、なによりも俺は気恥ずかしくて、ぶっきらぼうな態度をとってしまう。
俺は話題を逸らそうとして、なにか適当な話題を考えて――すぐに思い付く。
なんで、こいつと話すときは緊張しないけど、綾野と話すときは緊張するんだろう……やっぱり同性と異性の違いか?
「なぁ、桜木」
「どうした?」
「仲田さんって、まだ教室に残ってるか?」
教室か、それとも、もうすでに下校してしまっているかはわからないけど……仲田さんは自分のことを織部たちと仲が良かったと言っていたし、たぶん、あいつらと一緒にいるんだろうけど。
「仲田? 仲田って、誰だよ?」
「――え?」
一瞬、本気で言葉に詰まる。
桜木の言っている言葉の意味が理解できない。
「誰って……仲田恵理子だよ。同じクラスの女子の。……ほら、織部達と仲が良いっ」
「そんなやつうちのクラスにいないだろう」
俺は言葉を失くす。
「ていうか、俺たちの学年にそんな名前の女子っていたっけ?」
桜木の言葉がひどく他人事のように思えてくる。
なんだか俺は知恵熱が出てしまいそうな気持ちだった。
どうなってんだよ……ほんとうに……。




