19話:ビター&スイート・マイ・ライフ!②
学校の体育館にて行われた始業式を終えたあと、俺は教室へと戻った。
正直にいって、始業式の内容はまったくと言っていいほどに覚えていない。
今の自分の状況を飲み込むことができず、戸惑うばかりで、壇上から語りかけてくる教師たちの話など、まったく聞いていなかったため、まったく耳に入ってこなかったし、まったく頭にも入ってこなかった。
もっとも、それは俺以外のほとんどの生徒たちも同じだろう。
みんな、自分の近くにいる誰かと話すのに夢中で教師たちの話なんて、ろくに聞いていない。真面目に聞いているのは、その言葉通りの真面目な子ぐらいだ。
教室に戻り、自分の席へと座る。
教室内は非常に賑やかで騒がしい。
多くの同級生たちは自分の席に座ったまま、あるいは席を離れて、見知った友達や初対面の同級生と楽しそうに会話している。そんな子たちに対して、俺を含む数人の、自分から誰かに話しかけることのできない内気で恥ずかしがり屋の子は自分の席に座り、俯いたまま、本を開いて読書をしたり、物思いに耽けている。
そう……俺は誰とも喋らず、一人、考え込んでいた。
これは本当に現実なのか?
夢や幻じゃないのか?
もしかして……。
真っ先にそれを思い付いた。
夢や幻にしてはあまりにも現実的だ。
あまりにも現実味がある。ありすぎる。
だけど、やっぱり……。
いくらなんでも、ありえない。
そんな、俺の都合が良い妄想……叶うわけがない。
そんな、俺にとって都合が良い奇跡……起きるわけがない。
信じることなんてできない。
俺は無い頭を捻り、必死に考え続けた。
考えて。
考えて。
考えて。
考え抜いて……ふと、とある仮説を思い付く。
「これって……じつはただのドッキリじゃないのか?」
おもわず、口に出してしまう。
俺の中で、その仮説が『かもしれない』という思いを生み出す。
今、俺は一般人参加型のとてつもなく手の込んだテレビ番組の企画にでも参加しているんじゃないだろうか?
そんなことを本気で大真面目に考える。
そういえば、外国のテレビ番組には日本のテレビ番組では考えられないような異常なほどに手の込んだドッキリやイタズラの企画がある……らしい。インターネットの動画配信サイトに違法にアップロードされていた動画で視たことがある。それらの外国のテレビ番組の企画を参考にした超過激で手の込んだ日本のテレビ番組の企画があったとしても、おかしくはないじゃないか……!
それに日本のテレビ番組は外国で流行っているドラマや映画を安易にパクることが多い……らしい。インターネットの電子百科事典に書かれていた記事で、そのような記述を読んだことがある。外国のドラマや映画をパクるなら、テレビ番組の企画だって、パクらないわけがないじゃないか……!
俺の中で、『かもしれない』が『きっと、そうだ』という思いに変わる。
そういえば……母さんが俺に昔から事あるごとに言ってたっけ。
『……あんたさぁ、勉強も運動も習い事も頑張らないなら、もういっそのこと、芸能事務所にでも入ってアイドルかタレントでも目指しなさいよ』
『芸能人にでもなって人気が出て売れたら、他にはなにもしなくてもいいし、なんなら学校にも行かないで一日中、家であんたの大好きなTVゲームをしててもいいからさぁ』
『だからさぁ……なにかひとつだけでもいいから、必死に取り組んでみなさいよ』
『本気で努力して、頑張ってみなさいよ』
「…………」
思い出すだけでも不愉快な気持ちになってくる。
同時に思った。
「母さん、勝手に応募しやがったな……」
また、おもわず、口に出してしまう。
俺の許可もとらずに内緒でそんなことをしている母さんの姿が容易に想像できてしまう。
それに……それが本当だとすれば、すべての辻褄が合う。
なにもかも、合点がいく。
俺の中で、『きっと、そうだ』が『そうにちがいない』という思いに変わる。
俺は、その仮説が正しいことを確信する。
やっぱり、これはただのドッキリだ!
たぶん、俺は自分の知らない間にテレビ番組のドッキリ企画かなにかのオーデションを受けていて、合格したのだろう。
つまり、今、俺は一般人参加型のドッキリ企画にでも参加させられているんだ!
「まったく……本人の同意もなく、勝手に応募するなよな……」
この場にいない母さんを思い、不満を吐く。
「ていうか、俺を応募するくらいなら兄貴か妹のことを応募しろよ……」
ぶつくさと愚痴り続ける。
「せめて、俺じゃなくて姉ちゃんとかさぁ……はぁ……まったく……」
だけど――同時に、心底ホッとした。
つまり、あれもただのドッキリだったんだ。
そう思うことができて、心の底から安心することができた。
「……あれも撮影中だったのか?」
撮影にしては異様なまでに生々しく、現実的であり、現実味があった。それに綾野も、あの女性……刺殺女も、まるで自分のことのように振る舞っていて……とても演技には見えなかった。
あのとき、公園内はまるで本当の殺人現場のような緊張と恐怖に包まれていた。
俺の中で、『本当にドッキリなのだろうか?』という思いが生じてしまう。
いやいや、違う!
かぶりを振り、その思いを振り払う。
あれは絶対に撮影だ!
俺は自分の知らない間に出演していただけだ。
綾野は絶対に死んでなんかいない!
ましてや、殺されてなんかいない!
必死にそう思い込む。
必死に現実逃避する。
そのためにも俺は必死に撮影中の様子を妄想して――――現在に至る。
「駄目だ……どう考えたって、この仮説は都合が良すぎるし、無理がある……」
机に突っ伏したまま、呟く。
冷静になって考えてみれば、矛盾だらけの仮説だ。
まず第一に。
テレビ番組のドッキリ企画にしては手が込みすぎている。
昨今のテレビ業界は視聴率が軒並み右肩下がりを続けており、日本経済と同様に景気が悪く、番組の制作予算も減少の一途を辿っている……らしい。
番組の制作費が年々減額していることから、最近のテレビ番組では、出演する芸能人を雛壇に座らせてただ適当に喋らせ続けるだけの番組、一般人が撮影・投稿してインターネットで話題となった動画をあたかも自分たちが撮影したかのように放送するだけの番組、日本の伝統や文化、日本製品をただひたすらに白人の外国人に褒めていただいたり、発展途上国の外人に絶賛させたりする番組など……とにかく自分たちの労力や製作費のかからない番組が持て囃されている……らしい。
インターネットの匿名掲示板で、そのような書き込みを読んだことがある。
そんなテレビ業界の現状を鑑みれば、今、俺が参加しているかもしれないこのテレビ番組のドッキリ企画は作り込みが異常だ。
次に第二に。
一般人である俺を対象にこんな大掛かりなドッキリを仕掛けるわけがない。
もしも本当にドッキリ企画だったとしても、視聴者への知名度が高く、人気のある芸能人を対象にするのが普通だろう。万が一、一般人を対象にするにしても、視聴者に“ウケる”ような容姿やスペックを有する美男美女を対象にするだろう。
少なくとも、無名の一般人にしてただの凡人である俺を対象に、こんな大それたドッキリを仕掛けるとは到底思えない。
そして、なによりも……。
かつての同級生たちの再現度が高すぎる。
演じている子供たちの演技が上手すぎるというレベルではない。みんな、あの頃の同級生たちの容姿にそっくりだし、声や性格までもが寸分違わず一緒だ。
なんかもう気持ち悪いくらいによく再現されているのだ。
ふと、教室内で騒いでいる同級生たちの話を盗み聞く。
「まさか、3人とも同じクラスになるなんてね」
「あたしもマジでビックリなんだけど」
「私も本当に驚いたよぉ」
「まぁ、これが最後のクラス替えだから、センセーたちも気を遣ってくれたんじゃない?」
「そうかもしれないわね」
「ていうか、レーナってば、あたしや陽菜と一緒のクラスでホッとしてるでしょ?」
「そんなことはないわよ」
「嘘付いてんじゃないわよ。顔に出てるわよ。これで卒業するまでは一緒なわけだしさぁ」
「えー! レーナ、私たちのこと好きすぎじゃない?」
「だから、そんなことないってっ。もし、あんたたちと違うクラスだったとしても、仲の良い友達は他にもいるし、その子たちと仲良く、楽しい学校生活を堪能してたわよ」
「そうかしら? ちなみに私は、もしもレーナと違うクラスだったとしても、毎日、レーナに会いに行ってたけどねぇ」
「たぶん、私もぉ。レーナがいないとつまらないもん」
「あんたたち……!」
「なーに泣きそうな顔をしてるのよ。安心しなさいよ。私たち友達じゃない。私たちの3人友情は永遠なんだか――」
「今日の朝、出会いがしらに『あれ? レーナってば、進級できたんだ? 超意外なんだけど』とか言ってきたあんたたちが言っても、ちっとも心に響きやしないわよ!」
「えー! なんでよ!」
「だって、しょうがないじゃん! レーナ、本物の社会不適合者なんだもん!」
「ちょっと、あんたたち、ふざけんじゃないわよ! 誰が社会不適合者よ!」
「まぁまぁ、少しは落ち着きなさいよ、レーナ」
「そうだよぉ。いつもの軽口なんだから本気にしないでよ」
「冗談なのか本気なのかわからないのよ、あんたたちの軽口は!」
「もうっ。長いこと友達付き合いしてるのになんでわからないのよ?」
「だからレーナはバカなのよ」
「モエ! 未だに九九の八の段の後半を違えることがある、あんたにだけは言われたくないわよ!」
「…………」
自分でもよくわからないが、同級生たちの会話はどこかで聞いたような妙な既視感があるし……なんというか“それっぽさ”というか“らしさ”があった。むしろ、ありすぎる。
もしかして、同級生たちは俺と同じように大人になった本人たちなんじゃないだろうか?
俺は今、催眠術かなにかをかけられていて、自分のことも含めて、みんなのことを子供の頃の姿に見えているだけじゃないだろうか?
もし、本当にそうだとしたら……。
当時の同級生たち全員がグルになっているドッキリだとしたら……。
「手が込んでるなんてレベルじゃねぇな……」
まぁ、それはさすがにあり得ないだろうけど。
いくらなんでも、ありえなさすぎる。
「あはは……」
自嘲にも似た乾いた笑い声をあげる。
「はぁ……」
そして、そのまま再び、自分の机に突っ伏しては盛大な溜息を吐く。
「……やっぱり、そういうことなのかな……?」
結局、それに帰結する。
どうしても行き着く先はそれしかなかった。
「信じられないけど……」
過去に戻っている。
時間が巻き戻っている。
子供の頃に戻っている。
人生をやり直している。
頭の中でそれらの言葉をなぞり、その意味を反芻する。
だけど、あまりに突拍子もなく、また荒唐無稽なため、どうしてもその事実を受け入れることができない。
「本当に、どうなってんだよ……」
いかんともし難い状況に対して、また、大きな溜息を吐く。机に突っ伏したまま、深刻な顔を浮かべながら、自身の髪を掻き毟る。
尚も同級生たちの会話を盗み聞きしながら。
「ねぇ、先生、来るの遅くない?」
「そういえば、そうねぇ」
「さっきトイレに行くとき、他のクラスはもう先生が来てるを見たんだけど……なにしてるんだろう?」
「なにかあったのかなぁ?」
「まぁ、待ってれば、そのうち来るわよ」
「ていうか、私、始業式のとき、先生たちの話をほとんど聞いてなったんだけど、結局、私たちのクラスの先生は誰になるって言ってたの?」
「さぁ? 私も近くの子たちと話してたから知らない」
「私もわかんない。校長先生の話って長すぎるし、つまらないんだもん。聞いててもぜんぜん頭に残らないわ」
「うーん、たしか……新しくこの学校に赴任してきた先生がうちの担任になるって言ってたような気がするのよねぇ……」
そんな、どうでもいい内容の会話を聞いていて――ふと、魔が差す。
そういえば、この学校の七不思議に『体育館で全校生徒に向けて話す先生たちの話はみんなが聞いているはずなのに、なぜか誰も話の内容を詳しくは覚えていない』なんていう、くっだらないのがあったな……。
自身の状況に困惑し、悩む、傍らで、そんな本当にどうでもいいことを考える。
こんなくっだらない七不思議を考えたのって、どこのバカだっけ?
深刻な顔を浮かべながら、考えてみる。
答えはすぐに思い出した。
たしか……そう! お調子者の竹尾だ!
俺が教室の自分の席で目を覚ましたとき、桜木と話していた男の子たちの一人だ。
なんとなく気になり、竹尾の方に目を向ける。
竹尾は周囲の同級生たちと楽しそうに話していた。
竹尾はとにかく明るくて、うるさくて、イタズラ好きで……このクラスで一番のムードメーカーであり、トラブルメーカーだった。いろいろなイタズラをしては、そのたびに先生たちに怒られていたので、あいつのことはよく覚えている。
今もその持ち前のひょうきんさを活かして、自ら積極的に同級生たちとの交流を深めている。
竹尾と話している同級生たちはみんな一様に笑顔だった。
「…………」
そんな竹尾を見て――ふと我に返る。
羨ましいと思った。
冷静になって、今、自分が置かれている本当の状況を見つめ直す。
竹尾の周り……いや、みんなの周囲とは対照的に俺の周りはじつに静かだ。
俺の近くの席に座る同級生たちは、俺ではなく、べつの近くの席の同級生たちと話している。みんな、初対面であるにもかかわらず、自分から気さくに話しかけている。
「…………」
心の底から、羨ましいと思った。
俺の周りには誰もいない。
まるで、俺なんて最初から存在していないかのように蚊帳の外だった。
ようやく、気が付く。
当時――小学校6年生の始業式の日の記憶なんて覚えてないからわからないけど……たぶん、今の俺は当時とまったく同じことをしている。
考えていることが違うだけで、していることはなにも変わらない。
自分の席に座り、頬杖をつきながら無表情のまま、斜に構えた態度と冷めた目付きで無関心を装う……ただ、それだけ。
孤独のくせに、孤高を演じる。
本当は弱いのに、強い自分を演じる。
内心、本当は強い緊張と焦り、不安を感じているのに、それを必死に隠して……。
それでも、自分から誰かに話しかけるという行動は起こさず、ただひたすら誰かが俺に話しかけてくれることを待っている。
だって……自分から誰かに話しかけるのは恥ずかしいから。
俺にとって自分から誰かに話しかけることは相当な勇気がいる。
わからないんだ。
どうやって話しかければいいのか、わからない。
本当にわからないんだ。
なにを話せばいいのか、わからない。
できないんだ。
相手の反応を予想することが。
何度繰り返してもできないんだ。
相手の反応を見て、相手に合わせながら話すことができない。
怖いんだ。
俺のせいで生じる気まずい沈黙が。
怖くて仕方ないんだ。
勇気を振り絞って自分から話しかけて――結局、後悔するのが。
だから、俺は喋るのが苦手だし、他人と接するのが苦手だ。
だから、俺は一人でいるのが好きだし……そうするしかない。
そんな自分に気が付いて、俺は子供の頃からなにも変わっていないことを痛感してしまう。
机に座り、項垂れて……それでも目ざとく周りの同級生たちの会話に耳を傾け続ける。
そのとき、教室の、前側の扉付近でなにやらもめていることに気が付く。
目を向けると、竹尾を含む数人の男子たちが教室の扉に集まって、なにやら細工をしている。
そんな竹尾たちの行動を呆れた様子で眺める数人の女子たちが話しかける。
「ちょっと男子たち、いったいなにしてるのよ?」
「見ればわかるだろう? 罠だよ、罠」
上履きを履いたまま、教室の隅に置いてあった余分な椅子を台にして立っていた竹尾が笑いながら手に持っていた黒板消しを見せる。
黒板消しはチョークの汚れがこびりついており、酷く汚い。
「見ればわかるわよ、そんなこと」
女子はにべもなく答えて、そのまま追及を続ける。
「私が聞きたいのは、なんでそんなことをしてるのかってことよ」
「そんなの決まってるだろう。歓迎だよ、か・ん・げ・い」
「はぁ? なにそれ?」
「俺たちの担任になるのって、他の学校から来た新しい先生らしいじゃん?」
「ええ、たしか……姫川先生とかいう先生のはずよ」
「そうそう! その姫川先生なんだけど、まだ俺たちも会ったことも話したこともなくて、いったい、どんな先生なのかもわからないしさ。とりあえず、この罠に引っかかったときの反応を見て、その先生がどんな人なのか見極めようと思ってよ」
そう言って、竹尾は万遍の笑みを浮かべる。
「どうだ? ナイスアイディアだろう?」
対して、話を聞いていた女子が大きなため息を吐く。
「バッカみたい!」
他の女子たちもそれに続く。
「先生に怒られても知らないわよ?」
「あんたたちが怒られるのはいいけど、私たちは無関係なんだから、私たちのことはちゃんと庇ってよね?」
「はいはい、わかってるよ」
竹尾は女子たちから浴びせられる罵詈讒謗を軽く受け流しながらイタズラの細工を続ける。
そんな竹尾を冷めた目で見つめる同級生たち。
「竹尾のやつ、6年生になっても、まったく変わらないな」
「本当にな。まったく成長してねぇ」
「ていうか、竹尾くんって、去年もしょうもないイタズラをして先生に怒られていたわよね?」
「お前、それって、あれだろう? 夏休みの宿題として配られていた算数のドリルをわざとボロボロにして提出したやつ」
「そうそう! 先生に渡すとき、笑いながら『ドリルだけにドリルで穴を空けてみました』って言ったやつ!」
「あれ、さすがの先生もめちゃくちゃ怒ってたよな。あのあと、職員室に呼び出されてたし」
「なんていうか……失敗からなにも学ばないのよね、竹尾くんって」
「おーい! お前ら、聞こえてるぞー!」
椅子の上から竹尾が振り向き、咎める。
「聞こえるように言ったのよー!」
「おい、竹尾! お前、進級初日から先生に怒られても知らねーぞ!」
「やめておいたほうがいいんじゃないのかー!」
「あーもう、うるせぇな! 好きに言ってろよ! そういうお前らだって、じつは期待してんだろう?」
竹尾が不服そうに喚くと先程の女子たちが不愉快そうに吠える。
「はぁ? なによそれ?」
「私たちは期待なんかしてないわよ」
「バカなあんたたちと一緒にしないでよ」
だけど……竹尾の言う通り、何人かの同級生たちは遠巻きに見つめながらも、なにかを期待しているかのような好奇の視線を竹尾たちに向けている。
みんな、口元は笑っていた。
みんな、対岸の火事として、竹尾たちのイタズラに先生が引っかかるのを期待しているし、先生の反応を想像して楽しんでいる節はある。
……俺も含めて。
そのとき。
「おいっ! 誰か歩いてくるぞ!」
扉の隙間から廊下を覗いていた男子が慌てて声をあげる。
「なに!? 先生か!」
「たぶん、そうだと思う!」
「どんな人だ? 男? それとも女?」
「まだ遠いからよくわかんないけど、女が2人……たぶん女の先生だ!」
「マジかよ。先生、男じゃないのかよ」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろう! おい、早く戻るぞ!」
慌てて、台にしていた椅子を片付ける。
「先生が来るぞ! みんな、席に戻れっ!」
竹尾のかけ声を合図に、同級生たちはみんな蜘蛛の子を散らすようにして自分の席へと戻り、座る。
「罠はちゃんと設置できたか?」
「バッチリ! あとは先生が教室に入ろうとして、扉を開けるだけ!」
「おーし。なんか、俺、すっげぇワクワクしてきた!」
みんな、ヒソヒソと話す。
「でもさぁ、よく考えたら、普通、あんなバレバレの罠に引っかからないよな?」
「子供の俺たちだって、扉を開ける前に気付くしな」
「扉が少しだけ空いてる時点で怪しいし、大人たちの身長なら普通に挟んだ黒板消しが目に入るもんな」
「そうなんだよなぁ……くそっ、やっぱり扉を開けた瞬間にバケツの水が降ってくるぐらいの手の込んだ罠にしないとダメかなぁ」
「そんなことしたら、お前、本当に先生に怒られるぞ?」
「大丈夫だって。そりゃあ、キレれるだろうし、めちゃくちゃ怒られはするだろうけど、さすがに生徒に手を出すなんてことはできないだろうし」
「お前、先生たちのことを舐めきってるな……」
みんなの期待が最高潮に達した次の瞬間――――教室の扉が開いた。
ほぼ同時に、教室内へと足を踏み入れる人が1人。
その人……彼女は身長が低く、とっても小さな女の子のようで――。
「!?」
彼女を見て、俺は絶句してしまう。
心臓が飛び出すんじゃないかってくらいの強い衝撃を受けた。まるで、突然、不意打ちで頭をぶん殴られたかのような衝撃だった。
このときの衝撃と比べれば、教室の自分の机で目を覚ました時の衝撃なんて霞んでしまうし、大した驚きではないとすら思えてしまう。
やがて、黒板消しが落下して、先生の頭に落っこちる。
「!?」
先生は予想外の出来事に驚き、顔を歪める。
それは俺にとって、先生の驚いた顔を見た2回目の瞬間だった。
そして……この後に起きる出来事を思い出して、慄いた。
あいつら……終わったな。
心の中で合掌する。
先生の頭の上に、よどんだチョークの白い粉が舞う。
黒板消しはそこからまた落ちて、床に転がり落ちた。
「…………」
先生はなにも言わない。
ただ、床に落ちた黒板消しを見つめている。
対して、俺を含めた全員の生徒たちが先生の姿を見つめる。
とっても小さな女の子のようだった。
身長は俺たち生徒とほとんど大差がない。いや、むしろ、発育が良い子供たちと比べれば、俺たちよりも小さいかもしれない。
俺を除いたすべての生徒たちが先生を見て、困惑している様子だった。内心では小学生が仕掛けた罠に見事なほどにまんまと無様に引っかかった先生を見て、笑っていたかもしれないが。
「ちょ、まさか、本当に引っかかるなんて……」
「普通、あんな見え見えの罠に引っかかる? ありえなくない?」
「背、小っちゃすぎない? あの子、本当に先生なの?」
「他のクラスの生徒なんじゃないの?」
陰口にも似たヒソヒソ話が教室内に充満する。
誰もが先生のことを訝しむ。
……無理もない。
ともすれば、他の学年、他のクラスの女子生徒が迷子になり、この教室に入ってきたのではないかとさえ思えてくるような容姿なのだから。
だけど、先生は出席簿を小脇に抱えている。
それが教師であることのなによりもの証だった。
「…………」
先生は床に落ちた黒板消しから顔を上げて、無言のまま、俺たちのことを見つめる。
恐いと感じるほどの無表情だった。
恐ろしくなるほどの冷酷な瞳だった。
怒っているのかさえ、わからないような顔をしていた。
俺を含めて、みんな、なにも言えなくなってしまう。
俺は内心、汗をッダラッダラに流しながら、思った。
やっぱり、これは現実だ……!
今、俺は人生をやり直しているんだ……!
そう確信してしまえる。
だって、あの姫川先生がドッキリやイタズラになんか参加するわけがない。
そんな洒落が通じる人じゃないし、ノリがいい人でもない。
そんな茶目っ気が……可愛げがあるようなお人じゃない。
先生……俺たち6年2組の担任となる姫川優子先生のご尊顔を拝むことで、即座に現実を直視することができた。
先生は尚も無言のまま、俺たちのことを見つめる。
誰も先生に声をかけようとはしないし、声をあげようとはしない。
そんな雰囲気ではなかった。
気まずい沈黙が教室中に漂うなか、その沈黙を破ったのは竹尾だった。
「あ、あはは……!」
突然、狼狽しながらも大きな声で笑い出す。
先生の視線が竹尾に向かった。
「やーい! 引っかかった、引っかかったー!」
不自然なまでに陽気で愉快な笑い声を上げながら、先生のことを煽る。
努めて明るい声でなんとか教室の場を和ませようとするその竹尾の表情には、もはや、後に引けなくなった感が半端ない。
竹尾なりに自分の画策したイタズラに対する責任というやつを感じているのかもしれない。
残りの共犯者たちは唖然とした表情で竹尾を見つめている。
だけど、先生はなにも答えない。
「ちょ、ちょっと竹尾、あんた黙りなさいよ!」
「そ、そうよ! 空気読みなさいよ!」
空気を読んだ竹尾に対して、同じく、空気を読んだ女子生徒たちが声を荒げる。
そのままの流れで一番前の席に座る女子が先生に声をかける。
「あ、あの……大丈夫ですか……? ケガは……ない……?」
どっちであるか、ひどく迷いながら。
「…………」
「あなた……どこの子? 何年生?」
挙句、間違っている方を選択して、勘違いしたまま、話しかけている。
すると、先生はその女子のことを無視して、床に落ちていた黒板消しを拾った。
そのまま、竹尾の元へと近付く。
「あ、え、えーと……」
「…………」
自分の席に座り、どこか愛嬌良く首をかしげる竹尾のことを見つめる。
姫川先生に見つめられた竹尾はしどろもどろとしていた。
「あ、あの……」
竹尾がなにかを言いかけた次の瞬間――
「!?」
――教室内に多数の声がこだました。
何人かの女子生徒が悲鳴をあげた。竹尾が悲鳴をあげた。
先生が竹尾の横っ面を引っ叩いたのだ。
……手に持っていた黒板消しで。
その予想外の行動に、俺以外の誰もがドン引きしてしまう。
「な……! な、んでっ?」
口をパクパクとさせながら、叩かれた頬に手を添えながら、竹尾がなんとか口にする。
顔にはくっきりとチョークのよどんだ白い粉が付着している。
そんななか、先生はポツリとただ一言、
「進級、おめでとう」
と、お祝いの言葉を送った。
そのまったく意味の分からない言葉を聞いたとき、俺たちはただ茫然としたまま、その光景を眺めることしかできなかった。




