15話:ファック・マイ・ライフ!⑮
失意のまま、店を出る。
夜空を見上げると、また雪がふり始めていた。
「…………」
大きく息を吐き出すと真っ白な吐息が空中に溶け込み、霧散する。
冬の夜は寒い。
どんなに暖かい服装をしていても外にいるだけで身体が冷えてくる。だけど、今、俺の身体には綾野のぬくもりがまだ残っているような気がして……。
それが少しだけ嬉しくて……気持ち悪くも感じた。
心の中で、俺の良心と悪心が顔を出す。
俺の心の中に潜む美徳の精神と悪徳の精神。相反するふたつの感情が俺に問いかけてくる。
――なんで、あのまま綾野と最後までやらなかったんだ?
……できるわけないだろう。
――なんで? 俺は彼女のことがずっと好きだったのに?
……好きだからこそ、できないんだ。
ああいうことをしていいのは、お互いのことを本当に想い合い、愛し合っている恋人同士や夫婦だけだ。
そう……彼女は俺を求めてきた。
でも、それは彼女自身の本当の気持ちが含まれていない、ただの偽りでしかない。
そんな彼女のことを抱くなんて……そんなこと、俺にはできない。
綾野に対して、あまりに不誠実だ。
しかし、俺の最も醜悪な心が、そんな俺のことを鼻で笑う。
――だから、俺はいつまでたっても童貞だし、子供なんだよ。
……なんでだよ?
好きな女の子に対して誠実でありたい――そう思って、なにが悪い?
――たしかに綾野の求めは偽りだった。仕事のために男に媚びて、気を引いて、自分を見てもらうための卑しい打算と自己愛が含まれていた。
そうだろう。そんな彼女を抱くなんて……。
――だけど、誰かを求めていたのは偽りじゃなくて、本当だったかもしれないだろう?
!?
――たとえ、同情でも、哀れみでも、情けでも、ただの性欲でも、ただの弱い者同士の傷の舐め合いでしかなかったとしても、綾野は自分を見てくれる人を求めていた。
…………。
自分を見てくれる人。
それは、すなわち、自分を必要としてくれる人。
――彼女の求めに応えていれば、また違う結末があったかもしれないのに。
違う結末……?
――そうすれば、綾野にとっての特別な人になれたかもしれないのに。
綾野にとっての特別な人……?
自分自身に、あり得たかもしれない可能性を提示される。
だけど、俺は自分自身の感情と向き合うことができない。
――それなのに、俺は綾野の求めを拒絶した。
…………。
――最初に相手の想いを拒絶したのは彼女じゃなくて、俺の方だ。
…………。
――なんで、好きな女のことを抱きしめてあげなかったんだ?
…………。
――綾野は誰かに見て欲しくて、本気で救いを求めていたかもしれないのに。
…………。
じゃあ……俺はどうすれば、よかったんだよ!
心の中で自分自身に問いかける。
俺はどんな顔をして、綾野を抱きしめればよかったんだ!
あんな顔をする彼女なんて、見たくなかった。
あんな風に求める彼女なんて、見たくなかった。
綾野には――いつまでも、あのときのままでいて欲しかった。
繊細で、脆くて、聡くて、弱々しくて……だけど、とっても、いじらしくて、庇護欲をそそらせる女の子のままでいて欲しかった。
そんな俺の想いを俺の心は一笑する。
――結局、俺はいつもそうだな。
……なにがだよ!
――本当は、あんな汚れた女とやりたくないだけだろう?
!?
――初めてはお互いに綺麗なままで初々しいのが俺の理想だもんな?
……違う。
俺はそんな理由で綾野を抱けなかったわけじゃない……!
――彼女の為じゃなくて、本当は自分の為なんだろう?
違う!
――いいや。違わない。俺はそうやって、いつも自分の気持ちだけで行動する。
!?
それに気付いて、ドキッとした。
俺は綾野のことを長年会ってもいないのに想い続けるストーカーのような気持ち悪い男で……こんな自分でも手を伸ばせば綾野に手が届くかもしれないと知り、躍起になっていただけなのかもしれない。
そこに彼女への想いはあったのだろうか……?
自分自身のことなのに、俺にはわからない。
――仕事に貴賤はあるということを、俺は知ってるだろう?
…………。
仕事に貴賤はないと思っていた。
だけど、仲田さんは仕事に貴賤はあると言っていた。
……どっちが本当なんだろう?
綾野は自分の仕事を、どう思っているんだろう?
――そんなの決まってんだろう。俺と一緒だよ。
………。
常識的に考えれば、どんな女の子だって、水商売……とりわけ、風俗嬢なんて、やりたいと思わないのが普通だろう。それでも、そんな仕事に身を落とす女の子がいるのは……おそらく、金の為だ。
そんな仕事に、やりがいも、生きがいも、感じるわけがない。
――常識的に考えてみろよ?
…………。
女だって、嫌悪しないわけがない。
誰かの為に役に立つ立派で大切な仕事だと言いながら――自分がやろうとは思わない。
男だって、嫌悪しないわけがない。
自分たちの性欲を処理する為に役立つ立派で大切で仕事だと言いながら――自分の特別な人たちには絶対にやって欲しいとは思わない。
そして、それは――俺も同じだ。
だから、俺は綾野のことを抱きしめることができなかったのかもしれない。
その事実に気付いて、俺は雪の降る夜空を見上げて、泣いた。
「ちくしょう……」
溢れる涙がとまらない。
つくつぐ俺という存在のなんたるかを思い知らされる。
俺はなんて自分勝手で情けない男なんだ。
「なんにも……なんにもできなかった……」
あのときからなにも変わってない。
俺は綾野のことを見ているつもりで――本当は自分のことしか見ていない。人生を生きているなかで自分の感情の赴くままに行動しているだけだ。
ふと、思う。
『あのとき、守ってあげらなかった女の子を助けてあげるんだ』
そんな上から目線に彼女のことを想っている自分がいる。
だって――俺は今の綾野愛花を自分よりも下に見てるから。
綾野だって、そんな俺に、自分のことを見て欲しいとは思わないのかもしれない。
結局、俺は自分のことしか見ていないし、なにもできない。
その事実がなによりもつらかった。
俺は幼い子供のように、ただ感情の赴くままに泣きながら、店を後にした。
・・・・・
絶望のまま、銀座の街を歩く。
「…………」
無言のまま、重い足取りのまま、虚ろな目で虚空を見つめながら、当てもなく繁華街を彷徨う。
すでに涙はやんでいた。
涙は枯れ果て、酷く真っ赤に泣き腫らした無様でみっともない顔を晒していた。
往来には相変わらず多くの人が行き交っている。
道を歩く人たちは皆一様に笑顔で、誰もが幸せそうだった。
そんな人たちの幸せそうな表情を見ていると自分のなかで言いようのない怒りが湧き上がる。
たぶん、無差別の通り魔や殺人犯はこういった感情から生まれているんだろう。
でも、俺にはそんな風に人を傷付ける勇気すらない。
「本当……俺って、名前負けしてるよな……」
己の弱さに自嘲しながら歩き続ける。
ふと――とある大型の音楽楽器専門店の前を通り過ぎようとして、店の入り口から見知らぬ家族連れが出てくる。
俺はその家族のことを知っていた。
電車内、車両ドアの上に備え付けられている液晶画面で流れていたテレビ番組で偶然、目にした家族だ。母親は車椅子に座り、父親が椅子を押している。子供は両親よりも前を歩いており、今にも飛び出しそうな勢いだ。
俺はなんとなく、その家族のことが気になり、不審に思われない程度に遠巻きから眺める。
「ほら、ちゃんと前を見て歩かないと危ないわよ」
「はーい」
母親が子供に向かって、優しく叱ると子供は素直に頷き、シュンとする。
父親が慰めるようにして子供の名前を呼ぶ。
「サンタさんにお願いするクリスマスプレゼントが決まってよかったな」
「うんっ!」
「でも、まさか、この子がピアノを欲しがるなんてね」
「俺も驚いたよ。なぁ、どうしてピアノが欲しいんだ?」
「だって、おじいちゃんちでピアノを弾いてるときのママって、すっごく格好いいだもんっ! 僕もママみたいにピアノが弾けるようになりたいっ!」
「あら、そうかしら。うふふ、ありがとう」
母親がお上品に笑う。釣られて、父親の顔も綻ぶ。
「じゃあ、サンタさんからピアノが届いたら、ママと一緒にいっぱい練習しないとな」
「うんっ! 頑張る! いっぱい、いっぱい、練習する!」
「よーし、その意気だ。お前はパパとママの子供でママの才能を受け継いでいるはずだから、たくさん練習して、努力すれば、すぐにママみたいにピアノを弾くことができるようになるぞ」
「本当っ? ママみたいに格好よく弾けるようになるかなっ?」
「ああ、本当だとも。だから、サボらずに一生懸命、練習するんだぞ」
「うんっ! わかったっ!」
父親と子供の言葉を聞いていた母親は苦笑気味にはにかむ。
「もう2人とも……私よりピアノが上手い人なんていくらでもいるじゃない」
「たとえば、誰?」
子供が聞くと母親は思案して――表情が少しだけ感傷的になる。
「たとえば……今はもういないけど、ママの大切な人とか」
「大切な人?」
「おい……」
父親が言い淀みながらも口を挟もうとするが、母親と子供は会話を続ける。
「その人、ピアノが上手かったの?」
「ええ。とっても上手で、とっても素敵な音楽を弾く人だったわ。ママは今でも、あの人の弾くピアノの音が世界で一番美しいと思っているわ」
「そんなにっ? ママよりも格好いいのっ?」
「ええ、そうよ。ママなんか、あの人の足元にも及ばないわ。……ママわね、あの人がピアノを弾いているのを見て、あの人に憧れて、ピアノを始めたのよ」
そう言って、母親は過ぎ去った思い出の残滓を求めるようにして、感傷に浸る。
「おじいちゃんちにあるピアノは元々その人のものなの」
「そうなのっ? いいなぁ、僕、本当はおじいちゃんちのピアノが欲しかったぁ」
「駄目よ。あのピアノは駄目。あれはママの宝物なんだから」
「宝物?」
「そうよ。あのピアノはママとあの人……ママの大切な人との思い出がたくさん詰まった宝物なんだから」
「そのママの大切な人って、パパのこと?」
「……ううん、違うわ。でも、ママにとってはパパと同じぐらい大切な人よ」
「それって、誰なの? 僕も会ったことある?」
「いいえ……あの人はもうずっと昔、パパとママの前からいなくなちゃったから」
父親は自身の携帯を取り出して、誰かに電話し始める。
母親と子供は尚も会話を続けている。
「じゃあ、なんで、まだ、その人のピアノを置いてるの?」
「それはね……いつか、あの人が帰ってきたときのためよ」
「その人、いつになったら帰ってくるの?」
「さぁ、それはママにもわからないわ。でも……いつか、きっと、必ず……帰ってくるわ……」
自分に言い聞かせるようにして、母親は言う。
そのとき、店の前の路上で立ち止まっていた家族の元に、真っ黒なリムジン車が近付いてきて、停車する。
おそらくはその家族の車なのだろう。運転席に座る初老の男性がかしこまった様子で、車の扉を開き、家族を車に乗せる。
子供が車の中に飛び込み、父親は母親を抱き抱えながら共に車に乗る。初老の男性は母親が載っていた車椅子を折りたたんで車の中へと仕舞い込んでから、運転席へと戻る。
そして、車は走り出し、そのまま、どこかへと行ってしまった。
「…………」
絵に描いたような理想の幸せな家族だな……。
無言のまま、その家族の団欒の様子を眺めていた俺は誰に言うわけでもなく、ポツリと呟く。
「俺や綾野とあの家族の、なにが違うんだろうな……」
両親の経済的家庭環境の差か、それとも道徳的家庭教育の違いか、あるいは才能や素質を持って生まれた運命の違いか……。
俺は思う。
経済的に裕福な家に生まれたとしても、必ず幸せになれるとは限らない。
家族愛に恵まれた家に生まれたとしても、必ず幸せになれるとは限らない。
何かの才能や素質を持って生まれたとしても、必ず幸せになれるとは限らない。
だけど……。
経済的に裕福なことは人生において、大きな武器となる。
家族愛に恵まれていることは人生において、大きな影響を及ぼす。
何かの才能や素質があるということは人生において、大きな希望となる。
「なんで……俺や綾野はあっち側にはなれないんだろうな」
だけど、俺はその理由を知っていたし、気付いていた。
気付いた上で知らないふりをし続けた。
「はぁ……」
今日だけで、何度したかもわからない自嘲の溜め息を漏らしながら、ジャケットのポケットに手を突っ込む。
「……ん?」
指先になにか固いものが当たる。この感触はスマホじゃない。
取り出してみて――それが仲田さんから貰った指輪であることに気付く。
それを見て、俺はなんとなく、仲田さんの言っていた言葉を思い出す。
『愛花のこと……頼んだわよ』
『私じゃあ、あの子のことを助けてあげられなかったからさぁ』
「…………」
それを見て、俺は――
「……っ!」
指輪を強く握り締める。
俺のなかで、なにかが弾けた。
なにか吹っ切れることができ、ようやく開き直れることができた。
ギュッと思いっきり、歯を食いしばる。
そして、そのまま自分の頬を強く叩いて――
「しっかりしろよっ!」
と力強く叫んだ。
自らを奮い立たせて、鼓舞する。
周囲を歩いていた人々が怪訝な目付きで俺に好奇の視線を送ってくる。
だけど、今の俺には、そんなものはどうでもよくて、気にもならない。
そうだよっ。
俺は仲田さんに綾野のことを頼まれたじゃないか……!
自らを叱咤し、自分自身の気持ちを肯定する。
俺は走り出す。
無我夢中で一生懸命にただひたすら駆け抜ける。
俺は……ずっと、綾野愛花のことが好きだった。
初恋の女の子で子供の頃からずっと、好きだった。
彼女の過去を知ったとき、助けてあげたいと思った。
今の彼女を見たとき、守ってあげたいと思った。
――今の彼女を見たとき、嫌悪感を抱いたし、失望もした。
――こんな女を長年思い続けていた自分に苛立ちを感じた。
――そんなことを感じる自分自身が許せなかった。
彼女のことをわかりたいと思った。わかり合いたいと思った。
綾野に俺のことを見てほしいと思った。
そのどれもこれもが、俺の嘘偽りのない本当の気持ちだ。
だけど、俺は彼女の為になにもできなかった。
いや……もしかしたら、俺が彼女の為にできることなんて、なにもないのかもしれない。
でも……それで諦めるのか?
諦めることができるのか?
俺が綾野に長年抱いていた想いはその程度のものなのか?
「……違うっ」
そうだよっ。
そんなことで、嫌いになるのか?
汚れてたぐらいで、嫌いになるのか?
「違う! 絶対に違う!」
そうだよっ。
綾野愛花が風俗嬢だからって――それがなんだ!
そんなことで、綾野愛花の価値が決まってたまるか!
汚れてたぐらいで、綾野愛花を嫌いになってたまるか|!
彼女は彼女だ。
それ以上でもなけれが、それ以下でもない。
それで十分じゃないか。
「わかってんだよっ!」
そうだっ。
俺は馬鹿だ。最低の男だ。最低の屑男だ。
自分勝手で、身勝手で、そのくせ、勇気がなくて、なにもできなくて、本当に情けない駄目男だ。
俺はあのときからなにも変わってなくて――ずっと子供のままだ。
結局、俺は自分のことしか考えていない。
結局、俺はどうせ自分のことしか考えらなくて、自分の感情でしか動くことができない。
なら……もう、それでいいじゃないか!
「これが俺だっ!」
俺は最低の屑男だけど……それが俺なんだ。
0と1の二進数だけで動き続ける正確無比な機械なんかじゃない。
綾野の婚約者だった彼のような、少女漫画に出てくるような“王子様”なんかじゃない。
俺は人間なんだ。
生きてて、腹の中に醜い中身が詰まっている人間なんだ。
心の中に良心があり、悪心があり、そのどちらも俺の本当の感情なんだ。
彼女のことが好きなのは本当で、今の彼女のことを自分よりも下に見ているのも本当だ。
彼女のことを嫌悪していたから抱きしめてあげられなかったのも本当で、彼女の為にも不誠実なことだけはしたくないと思ったのも本当のことだ。
それでも、俺は綾野愛花のことが好きなんだ。




