14話:ファック・マイ・ライフ!⑭
綾野に連れられて、一緒に個室へと向かう。
彼女は俺の腕を取り、身体を密着させながら、ゆっくりとした足取りで歩く。
自身の心臓の音が聞こえるのと同時に押し当てられた彼女の胸から彼女の心音が伝わってくる。
その差はあまりに顕著だ。
「…………」
俺はなにも喋ることができない。
会って話したいことはたくさんあったし、聞きたいこともたくさんあった。
だけど、いざ実際にこうして会ってみると、なにを喋ればいいのかわからなくなってしまう。
隣を歩く綾野の顔を見る。
相変わらず、綺麗で可愛らしい。
それに昔、俺が彼女に一目ぼれしたときの面影が残っている。
だけど、年相応の“老い”が彼女の容姿と雰囲気を変化させており、否が応にも時間の過ぎ去りを痛感させられる。
「どうかしましたか?」
俺の視線に気付き、綾野は微笑む。
「あ、いや……べつになんでないっ」
おもわず胸が高鳴り、慌てて誤魔化す。
彼女が俺に向けてくれる笑みを見て、嬉しいと思った。
だけど……その微笑みは偽りの仮面で彩られた偽物でしかない。
そうと思うと、悲しかった。
「緊張しますか?」
「ま、まぁね……」
適当にお茶を濁す。
すると彼女はなにかを察したように、
「杉崎さんって、かわいいんですね」
と、また微笑む。
「大丈夫ですよ。私がリードしますから安心してください。杉崎さんは緊張せず、リラックスして、楽しんでいってください」
……なにか変な気を遣われているような気がする。
階段を上り、個室に辿り着く。
部屋に入ると、綾野が俺からジャケットを脱がして壁にかけてくれる。同じように携帯や財布などの貴重品を手渡して、俺の目が届く場所――テーブルの上に置いてもらう。
お互いにベッドに腰掛けて、隣り合う。
取り留めのない会話をしながら、彼女はゆっくりとした仕草で自身の服のボタンをはずす。
「杉崎さんはなんのお仕事をしているですか?」
「ディスカウントストア……えーと……まぁ、スーパーで働いている」
「へぇ、スーパーで働いているんですか。すごいですね」
「……どうして、すごいと思うの?」
「だって、大変そうじゃないですかっ。面倒なお客様とかもいるでしょうし」
「……まぁね」
「お仕事お疲れ様です」
「……ありがとう」
「私、精一杯頑張りますから、今日はお仕事の疲れとストレスを癒していってくださいねっ」
「……うんっ。ありがとう」
上部のボタンをはずし、衣服を軽くはだけさせた綾野は俺の手を取る。
その突然の行為に驚き、動揺してしまう。
「聞いてもいいですか?」
「な、なにっ?」
「杉崎さんのお名前はなんていうんですか?」
「……ユウキ。そのままの漢字で勇気って書いて、ユウキ」
「勇気……じゃあ、私も杉崎さんのこと、勇気さんって呼んでもいいですかっ?」
上目遣いで寄り添いながら、切なげな声で言ってくる。
たぶん、計算してやっているのだろう。
彼女の素肌が見える。胸元が開いている。ブラのホックがはずれている。
彼女の手が俺を捕らえて、逃がそうとしない。
俺は彼女から視線を逸らすことができない。
「勇気さん……」
俺のことを名前で呼び、そのまま俺の胸にしなだれる。
誘っているのだろう。
必死なのだろう。
少しだけ、俺と同じように緊張……いや、焦っているのがわかった。
俺の胸に頭をうずめる綾野の顔はわからない。
今、どんな表情を浮かべているんだろう。
今、どんなことを考えているんだろう。
髪からは女の子の匂いと強い香水の香りがした。
「……勇気さんっ」
もう一度、俺の名前を呼ぶ。
「抱きしめてくれませんか……?」
また、上目遣いで俺を見つめてくる。
「…………」
だけど、俺は彼女を抱きしめることができない。
自分からなにも行動を起こさない俺のことを……いっこうに自分に手を出してこない俺のことを、彼女は焦れた様子で見つめる。
瞳がうるんでいる。
暗い穴凹のような目をしていて……吸い込まれてしまいそうになる。
お互いの顔が近付く。
お互いの吐息がかかりそうなほどに距離が近付いて、接触する寸前――
「……綾野さんっ」
俺はどうしても堪えることができず、彼女の本当の名前を呼んでしまう。
もう、駄目だっ。
もう、我慢の限界だ。
もう、たくさんだっ。
こんな綾野愛花の姿なんて、見たくない。
「!?」
俺の言葉を聞いたとき、彼女は大きく目を見開く。
「綾野さん……だよねっ?」
「ど、どうしてっ……?」
俺に触れていた手が離れる。酷く動揺しているのが手に取るようにわかる。唇を震わせながら、動けずにいる。
「綾野愛花さん、だよね……?」
「!?」
彼女は自分で自分の肩を抱く。
「どう、してっ、私の名前を知っているのよっ!?」
「…………」
身体が震えている。
彼女の顔から偽りの笑顔が消えて、絶望と焦りでいっぱいになる。
「俺のこと、覚えてくれていないかな……?」
「…………」
どうやら覚えていないみたいだ。
当たり前だ。覚えているわけがない。
俺と彼女は同じクラスの同級生だったというだけで、他に接点はなにもなかったのだから。
たったひとつの出来事をのぞいて。
「俺たち、小学校6年生のときに同じクラスだったんだけど……」
「!?」
その言葉で、なにかを理解する綾野。
「…………」
彼女は沈黙してしまう。
無言のまま、震える身体のまま、俺を茫然とした眼差しで見つめる。
だけど――やがて、哀しく笑い始めた。
「そうなんだ」
乾いた笑み。空疎な声。自嘲する笑い声。なんの感情も含まれていないようなからっぽの言葉。
なにもかも嫌になって、すべてを諦めて放り出したような表情。
……あまりに痛々しくて、俺は言葉を失ってしまう。
なにが彼女をこんな風にさせてしまったんだろう……。
どうして、こんな風になる前に誰も助けてあげられなかったんだろう……。
「それでなに?」
「え……?」
「なに? わざわざ私を見て、笑いにきたの?」
「ち、違うよっ! そんなんじゃなくて……」
慌てて否定する。
「じゃあ、なに? 冷やかしにきたの? いくら私がこのお店で最安値の女だとしても、ずいぶんと手間とお金のかかる冷やかしね」
だけど、彼女は俺の言葉など信用してくれない。
当たり前だ。
だって、俺は……。
「まぁ、私を指名してくれた以上、あなたは私の大事な大事なお客様だもん……精一杯ご奉仕させていただきますねっ」
そう言って、また愛想よく微笑む。
その偽りの仮面がたまらなく悲しかった。
その偽りの演技がたまらなく悲しかった。
自分を押し殺して、自分を偽るその姿が、悲しくて仕方がなかった。
「……んっ!」
突然、彼女に唇を奪われる。そのまま舌を絡められる。
ベッドの上で身体を押し倒されて、2人揃ってもつれこむ。
綾野が俺を求めてくる。
彼女が今、俺に与えてくれるもの……自分の知らない快感、自分の経験のない刺激、自分の感じたことのない衝動。
……情けないことに、はち切れんばかりに興奮してしまう。
そんな自分が心の底から嫌になる。
だけど……彼女の求めが偽りである以上、俺はそれより先のことをすることができなかった。
俺にはそれより先のことをする勇気がなかったし……してはいけないことなのだと思った。
その想いだけは間違っていないはずだと……信じたい。
違うっ。
俺は彼女とこんなことをしたくて、店に来たんじゃない。
違うっ。
俺は彼女とこんな風になりたくて、好きだったんじゃない。
俺は……!
「……ん!? んくっ、きゃあっ!?」
強引に彼女の求めを制止して、身体を引き離す。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「な、なに……どうしたのっ?」
俺は荒い息遣いのまま、両手で彼女の肩を掴んだ。
俺は、今の綾野愛花を真正面から見つめる。
「だめだよっ……こんなことっ」
「……なんで?」
「だって、好きでもない男とこんなことするなんて……」
「……じゃあ、あなたはなにしにきたのよ?」
彼女の冷たい声が俺の耳に響き渡る。
彼女は顔を歪めて……怒っていた。
「わざわざ、お金を払って私のことを指名しておいて……本当に私のことを笑いにきたってこと?」
「違うっ! 違うよっ!」
おもわず、叫んでしまう。
お願いだっ。信じてくれっ。それだけは違うっ。
「じゃあ、なにしにきたのよっ!」
突然、彼女は激昂する。
そんな彼女を見て、俺は初めて彼女の本当の感情に触れることができたような気がした。
「こんな私になんの用があるっていうのよ!」
「あ、綾野さんに会いにきたんだっ!」
お互いの声が部屋のなかにこだまする。
「私に……?」
少しだけ、虚にまみれてから、
「私に……会いにきた、ですって?」
今度は鼻で笑う。自分自身を嘲笑う。
「やっぱり、私を笑いにきたんじゃないっ。こんなところまで堕ちた私を見て、笑いにきたんでしょうっ?」
自分自身を蔑み、嘲笑う。
「さぞかし滑稽でしょう? 大嫌いだった私がこんなところで働いている姿はっ。今の私はねぇ、男に必死に媚びて、甘えて、奉仕して、男の気を引いて、自分を見てもらう、そうするしかないのよっ」
痛々しくて、見ていられなかった。
大嫌いなんかじゃなかった。むしろ、その逆なのに……。
「ねぇ、わかる? 今の私には、もう、それしか残されていないのっ」
「そんなこと、ないよっ……」
そんなこと言わないでくれ……そんな風に自分を卑下しないでくれ……。
どんなに話しても、俺の言葉は彼女の心に響かない。
当たり前だ。
だって、俺は……。
「あなたになにがわかるのよ?」
俺を、酷く軽蔑した様子で言う。
「私のなにを知っているの? ねぇ、杉崎勇気くん、少なくとも私は、あなたのことをなにも知らないわ。知ってるのはお店の人から教えてもらったあなたの苗字とさっきあなたの気を引くために聞いたあなたの名前だけ。あとはなにも知らないし、興味もないわ」
そう、吐き捨てられる。
それでも、俺は……!
「俺はあるよっ!」
俺は叫ぶ。
「!?」
綾野は大きく目を見開く。
信じられないようなものを見るような目で。
暗い穴凹のような目に一縷の光が宿った――そんな気がする。
「俺は興味があるよっ! だって、俺は……ずっと、綾野さんに会いたくて、きみのことを知りたくて……だから会いにきたんだっ」
そうだ……そうだよ。
俺は彼女のことをまだなにも知らないし、彼女の為にまだなにもできていないじゃないか。
彼女だけが知っている彼女自身の本当の気持ちを、わかってあげられていないじゃないか。
「信じてよ! 俺は、今のきみを見て、笑ったりなんかしないっ!」
そうだ……そうだよ。
彼女のことを知らないのなら、知ればいい。
彼女が知らないのなら、知ってもらえばいい。
だって、俺は……俺にとって、綾野愛花は特別な人だから。
好きだから、わかりたい。わかり合いたい。
好きだから、知りたい。知って欲しい。
好きだから、助けたい。守りたい。
仲田さんも言っていたじゃないか……!
人生に今更もう遅いだなんてことはないって。
人生はいつだってやり直しがきくって。
「ずっと後悔してたんだ……あの日、あのとき、綾野さんを守っていればって……」
きみの演奏を見に来たんだ――そう、あのときに言っていれば……。
嘘も突き通せば、相手にとっては真実だ。嘘を付くことは必ずしも悪いことじゃない。相手の為になにをするのか、それが一番大切なことなんだ。
「私を、守る……?」
彼女は自分の胸を抱いたまま、俺の言葉を反芻する。
暗い、穴凹のような目に、微かだが、生気が宿る。
「そうだよ……綾野さんのことを助けてあげればよかったって、ずっと後悔していたんだっ」
ずっと、ずっと、後悔してきた。
だから、もう、失敗したくない。
「私を、助ける……?」
「うん、そうだよ……」
俺は彼女に向かって、言葉を紡ぎ続ける。
彼女の心に俺の気持ちが届くことを願い、伝え続ける。
「だから……俺のことを信じてよっ」
「…………」
綾野はなにも答えず、俯き、顔を下げる。
長い前髪が、彼女の表情を隠す。
永遠とも思えてくるような沈黙が俺たちを包み込む。
「……本当に?」
「!?」
先に沈黙を破ったのは綾野の方だった。
「本当に……私に、会いにきてくれたの?」
「そうだよ……ずっと会いたかったんだ……」
ずっと、ずっと、会いたかったし、話したかった。
俺とは住む世界が違くても。
俺とは何の関わりがないまま、生きてても。
笑顔でいて、欲しかった。
幸せに生きていて、欲しかった。
でも、そうじゃないなら……。
俺が綾野を笑顔にしてあげたい。
俺が彼女を幸せにしてあげたい。
「私のことを、笑いにきたんじゃないのっ?」
顔を上げて、俺のことを真正面から見つめて、彼女は言う。
信じたい――そんな、なにかを願い、縋るような目で俺を見てくる。
「違うよ。だって、俺は――」
そのとき――
無機質な音が鳴った。
俺にとっては聞き慣れた音。
だって、自分で設定したスマホの通知音だったから。
2人して、音が聞こえる方へ反射的に向いてしまう。
テーブルの上に置かれていた俺のスマホの液晶画面が光っている。
電源が入り、ロックを解除していない画面には映っていた。
≪メッセージが届いています≫
ERIKO
『お疲れさま! 連絡が遅くなってごめんね!』
ERIKO
『こっちこそ、今日はありがとう!』
ERIKO
『色んなことを杉崎くんと話せてすっごく楽しかったよ!』
「ERIKO……?」
俺のスマホの画面を見た綾野はメッセージを送ってきた相手の名前を呟く。
「ERIKO……エリコって……!」
そして、すぐに、その名前が誰の名前なのかを理解する。
対して、俺は思った。
ふざけるな……。
なんで……なんで、今、なんだよ……。
また、スマホが通知音を発して、液晶が光る。
≪メッセージが届いています≫
ERIKO
『あとさぁ、お願いなんだけど』
ERIKO
『私が愛花のことを杉崎くんに話したことは絶対に愛花本人には言わないで』
「…………」
綾野は茫然自失のまま、立ち尽くしている。
文章の意味を理解できなくて――理解したくなくて、なにも喋ることができずにいる。
そして、俺は思った。
終わった、と。
自分でも不思議なくらい、動揺したり、驚いたりはしなかった。
俺は、ただひたすらに仲田恵理子のことを呪った。
ああ、本当……なんでこんなときに……。
なんで、こんなときに通知されるんだよ。
なんで、こんなときだけ、マナーモードじゃないんだよ。
わかってる……わかってるよ……。
俺の不注意だ。
仕事で失敗して、もうずっと常にマナーモードを解除していた方がいいと思ったから。
いちいちマナーモードに設定するのが面倒くさかったから。
ぜんぶ、俺が原因で、俺の不注意で、俺のせいだ。
だけど……なんで、今、このタイミングなんだよ。
また、通知音が鳴り、スマホの液晶が光る。
俺も、綾野も、見たくなどないけど、見てしまう。
≪メッセージが届いています≫
ERIKO
『あの子にとっても、誰かに知られたくない過去だろうし』
ERIKO
『特に昔の自分を知っている人になんて、絶対に知られたくないだろうし』
「……ふーん。恵理子の知り合いなんだ?」
乾いた声。
「どこで知り合ったの?」
空疎な声。
「もしかして、2人は付き合ってるの?」
自嘲する笑い声。
「もしかして――私のことをぜんぶ聞いたの?」
なんの感情も含まれていないような、からっぽの言葉。
なにもかも嫌になって、すべてを諦めて放り出したような表情。
綾野は暗い穴凹のような目で俺を睨む。
その目には、なにも映っていない。なーんにも。
さっきまで俺に向けてくれていた一縷の光が宿っていた目とは根本的に違う。
もう二度と……俺のことを信じようとは…信じたいとは思わない、そんな目をしている。
「最低よ……あなたたちっ。そこまでして、私を笑いたいのっ?」
震える声で、軽蔑するかのように吐き捨てる。
「違う……違うよ……!」
「じゃあ、なんで恵理子の連絡先を持っているの? なんで、恵理子は私のことを話しているの?」
「それは……俺が綾野さんのことを知りたくて、仲田さんに聞いたんだっ……」
俺がそう言い訳の言葉を話したとき、
「やめてよっ!」
綾野は悲痛の声で泣き叫んだ。
「どうして人のことを詮索するのっ! 誰かに知られたいわけないじゃないっ!」
泣いていた。
「こんな今の自分を、昔の私を知っている人に見られたいわけないじゃないっ!」
泣き喚いていた。
すべてを絶望したかのような表情を浮かべて、ただ、ひたすらに泣き叫んでいる。
俺は彼女のことを知りたかった。
綾野のことが知りたいし、わかりたいと本気で思っている。
だけど、そんなことは綾野にとって関係ない。
当たり前だ。
だって、俺は……。
「……って……」
「…………」
「帰ってっ! 今すぐ帰ってよっ!」
「…………」
「お願いだから、もう帰ってっ!」
「…………」
「さっさと帰ってっ! もう二度と私の目の前に現れないでっ!」
俺は……。
「綾野さん……俺は――」
きみのことが好きだ。
ずっと、ずっと……特別な人だった。
「ふざけないでっ! いいからもう帰ってよっ!」
彼女は俺を告白を拒絶する。
当然だ。
いきなり現れた男の気持ちなんて、誰が信じるんだよ。
「好きだったなら、なんで、あのとき、私のことを助けてくれなかったのよっ!」
あのとき……それは、いつだろうか。
綾野の人生には、それがあまりにも多すぎる。
つらかった。
彼女に拒絶されることが。
悔しかった。
彼女に信じてもらえない自分が。
不甲斐なかった。
彼女を守ることのできない自分が。
情けなかった。
彼女を助けてあげられない自分が。
嫌だった。
彼女の為になにもできない自分が。
……たぶん、俺は悪くないと思う。
俺みたいな、彼女のあのときに、見て見ぬふりをする人なんて、いくらでもいたんだ。
だから、俺は悪くない。
でも……。
俺には可能性と機会があった。
彼女のあのときに、彼女の為になにかできたかもしれない。
それなのに……怖くて、勇気がなくて、なにもしなかった自分が、なによりも嫌で仕方がなかった。
「……わかったっ」
俺は思った。
「ごめんっ……」
彼女が俺を拒絶するなら、そうしてあげることが一番大切で正しいことなのかもしれない。
「いきなり店にまできて、本当にごめんっ……」
ベッドから立ち上がり、財布とスマホを手に取り、ジャケットを着る。手渡したり、手伝ってくれたりはしなかった。
彼女の悲痛な泣き声が部屋に響くなか、ゆっくりとした足取りで扉へと向かう。
「どうしてっ……どこでっ、なんでっ……こうなちゃったのよっ!」
彼女は泣き続けている。
泣いて、泣いて、泣き喚いて、自分の人生を嘆き続けている。
俺は綾野に、せめて最後に別れの挨拶をしようとして――俺がかけてあげられる言葉がなにもないことに気が付く。
結局、そのまま部屋を出て、店を出ていく。
なにもできなかった。
彼女を抱きしめることもなく、求めることもなく、なにかをしてあげられることもなかった。
俺の言葉は綾野の心には届かない。
だって、俺は……綾野にとって、特別な人じゃないから。
俺にとって、綾野愛花は特別な人だけど、彼女にとって、杉崎勇気は特別な人じゃない。
俺は、ただ彼女を傷付けることしかできなかった。




