1話:ファック・マイ・ライフ!①
この物語を、もう二度と子供の頃に戻ることのできない、人生をやり直すことができない、すべての大人たちに捧げます。
店の外に出ると、降りしきる雪はさらに激しさを増していた。
どんよりとした灰色の冬の空を見上げながら彼女――仲田恵理子は息を漏らす。
彼女の吐き出した白い吐息が空中を彷徨い、宙に溶け込んでは霧散する。
「本格的に降ってきちゃったわねぇ」
「うわぁ、本当だ」
返事をする傍らで手持ちのビニール傘を開く。
備えあれば憂いなしとは言ったものだ。
彼女と会うための待ち合わせをしていたこの店に来るまでの道中、降り出した雪の勢いが強くなるのを見て、天候がより一層悪くなることを予想していた俺は、こんなこともあろうかと事前にコンビニで傘を買っておいたのだ。
こんな安物の小さなビニール傘でも、ないよりはいくらかマシだろう。
「はい、使いなよ」
開いたビニール傘を彼女に差し出す。
「え? 私が使っていいの?」
「うん。いいよ」
「そんな、悪いわよ」
「遠慮しなくてもいいよ」
元々、最初から俺自身が使うことを見越したのではなく、彼女が傘を持ってこなかった場合のために買ったんだから。
万が一彼女が傘を持っていたら、そのときはそのまま自分が使えばよかったし。
「仲田さん、傘持ってないでしょ?」
「たしかに持ってないけど……」
「なら、まぁ……これは今日のお礼みたいなものだから気にせず使ってよ」
「お礼?」
「うん、そう、お礼。今日はいろいろとあの子のことを教えてもらったから」
だから、これはささやかなお礼。
お礼にしてはずいぶんと安くて粗末な品だけど。
ていうか、彼女は仕事中なのに昼休憩の時間を使って、わざわざ俺に会いにこの店まで来てくれた。それなのに仕事場に戻るまでの道中に身体を寒くして風邪でも引かれたら……そう考えると申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
「杉崎くんの方こそ、べつにお礼なんて、気にしなくてもいいのに……本当に使ってもいいの?」
「うん。どうぞ、どうぞ」
彼女は少しだけ悩んでから――上目遣いで「ありがとう」と感謝の言葉を口にして、そのまま俺から傘を受け取り、自身の肩にかける。
「代わりにさぁ。途中まででいいから、俺も中に入れてくれない?」
「もちろんいいわよ。入って、入って」
「ありがとう。……あ、あくまで傘の中心に立つのは仲田さんね。俺は入れてさえくれれば、それでいいから」
俺は彼女が持つ傘の中に入り込む。
コンビニで買った安物のビニール傘は小さいこともあり、傘の中に大人2人が入ると、どうしても狭く感じてしまうし、自然とお互いの身体が密着してしまう。
しかし、俺も彼女も、お互いがお互いに相手を異性として見ていないため、なにも感じない。
俺たちはそういう気をこれっぽちも感じることなく、そのまま歩き出す。
俺は自宅に帰るために駅へ、彼女は仕事に戻るために仕事場へと向かう道中、降り続ける雪を見上げながら、俺たちはなんとはなしに話し続けた。
「このまま降り続ければ、明日の朝には雪が積もってるかもしれないね」
「そうなったら最悪だわ」
「なんで?」
「だって、雪のせいで電車が止まっちゃうかもしれないじゃない。私、品川までは毎日電車で通勤してるから困るのよ。そうじゃなくても朝はいつも電車が混んでて大変なのに……雪なんて積もったら遅刻確定よ」
両手を口元に添えて、口から吐き出す息で温めながら、困ったような表情で曇天模様の空を見上げる彼女。
「車、持ってないの?」
「持ってるわけないじゃない」
俺がなんとはなしに聞いてみると彼女は当たり前でしょ、と言わんばかりの表情を浮かべながら、にべもなく即答する。
「そんなお金ないわよ。来年小学生になる息子のランドセル代もないのに」
「ええ……それってヤバくない?」
どんだけ金ないんだよ。
ランドセル代ぐらい、ちゃんと貯金しておけよ。
「ぶっちゃけ、かなりヤバいわよ」
「小学校の入学式って、だいたい4月だよね? 今、もう12月だよ? 間に合うの?」
「なんとかするわ。ていうか、なんとかしなくちゃいけないし」
「……本当に大丈夫?」
念を押すようにして問いかける。
母親としての自覚ある?
そう言ってやりたい衝動に駆られる。言わないけど。
「大丈夫だって。最悪の場合は自分の家族からお金を借りればいいのよ」
そう言って、彼女はあっけらかんとした様子で笑う。
「大丈夫。なんとかなるわよ」
そんな彼女の反応を見て、俺はおもわず呆れてしまう。
同時に思った。
……こんなだから彼女はシングルマザーなんだろな、と。
「そういえば、あの日もこんな風に雪が降っていたわよね?」
「あの日って?」
「学校でクリスマス会があった日よ」
「6年のときのクリスマス会?」
俺が聞き返すと、彼女は頷く。
「ええ。たしか、あの日は朝からずっと雪が降ってたわ。私、休み時間中、男の子たちがみんな校庭に出て、雪合戦をしたり、雪だるまをつくったりして遊んでるのを教室の窓から眺めてた記憶があるもん」
「あーそういえば、そうだったかもしれない……」
おぼろげながら、微かにそのときの記憶を思い出す。
たしかに、雪が降ったことに興奮して、同じクラスの男子たちと校庭に出て遊んだような気がする。
「あの頃から疑問に思ってたんだけど、なんでせっかく雪が降ってたのに女の子は誰も外で遊ばなかったの?」
「当たり前じゃない。だって寒いんだもん。女の子はみんな、教室の窓から外で遊んでる男の子たちを見て呆れてたわよ。『こんな寒いなか、外で遊びまわるなんて、本当に男子ってガキね』って」
「どうせ、それ、織部たちが言ってたんでしょ?」
「ええ、そうよ。よくわかったわね?」
「あいつら、そういうこと言いそうだもん」
いかにも当時おしゃまだったあいつらの言いそうなことだ。
「なんていうか……女の子って子供の頃からませてるよね?」
「まぁね。子供っぽいままの男の子とは大違いよ」
「実際、あの頃は本当に子供だったからね。それこそ、まだ小学生だったし」
今はさすがにもう大人だけど。
ていうか俺も彼女も今年で28歳になるのにいつまでも子供のままだったら、さすがにヤバい。
「それで、その日の午後、5、6時間目の授業を変更して、教室でクリスマス会を開いたのよね」
「ああ、それは俺も覚えてる。なんでもバスケットや陣取りをしたよね?」
「そうそう!」
あの時のことを思い出しながら、思い出話に花を咲かせる。
「クリスマス会のとき、最後にプレゼント交換をしたじゃない?」
「歌を歌いながら、みんなが持ち寄ったプレゼントを回して、歌い終わったときに自分が持ってたプレゼントを貰うあれでしょ?」
「そうそう!」
「うん、覚えてるよ」
「あのとき、私のプレゼントは田辺くんが受け取ったんだけど、『こんなの要らねぇ』って言って、あとから丁重に返されたのよねぇ」
「あはは。そうだったんだ?」
そのときの様子を想像して吹き出してしまう。
「プレゼントを捨てるなんて、いくらなんでも酷くない? せっかく、当時女の子の間で流行ってたいい匂いのする石鹸を用意したのに」
「気恥ずかしかったんだよ、きっと」
「そうなのかしら?」
「たぶん、ね」
まぁ……たぶん、それ以上に本気で要らなかったんだろうけど。
男の子が、いい匂いのする石鹸なんて貰っても嬉しくないし。
……好きな女の子からのプレゼントだったら、べつかもしれないけど。
「本当、あの頃の男子って子供よね。杉崎くんはあのとき、なにをプレゼントしたの?」
「うーん……なんだっけ。覚えてないや」
「じゃあ、誰が自分のプレゼントを受け取ったのかも覚えてないの?」
「うん」
「自分が誰のプレゼントを受け取ったかも?」
「うん」
ていうか……ぶっちゃけ、あんまり興味なかったし。
あの子が……好きだった女の子が参加してなかったから。
なんとなく、ポツリと漏らしてしまう。
「……綾野にもクリスマスパーティに参加してほしかったな」
せっかく、同じクラスだったのだから、もっと仲良くなりたかった。彼女のことを知りたかったし、もっと彼女と話がしてみたかった。
「それは無理だったんじゃない?」
「なんで?」
俺が聞くと彼女は淡々と話す。
「だって、愛花ったら、最後の方はずっと登校拒否してて、ほとんど学校に来ていなかったじゃない。姫川先生も、かなり手を焼いてたらしいわよ」
「……来れば、絶対に楽しいのに」
「きっと、愛花にとっては違ったのよ。私たちと一緒にいても楽しくなかったから……一緒にいたくなかったから、学校に来なくなったんでしょうし」
仲田さんは一度、口を閉じる。降りしきる雪の中、彼女は憂いたようにして、苦笑する。その顔は少しだけ、悲しそうだった。そして、また口を開く。
「たぶん、愛花は私たちのことを嫌ってたんじゃないかしら?」
「……やっぱり、そうだったのかな?」
「だって、転校してきて1年間ずっと私たちと同じクラスだったのに、ずっと友達もつくらずに1人でいたじゃない? 休み時間も1人で机に座ったまま本ばっかり読んでてさぁ。まぁ、だからこそ居心地が悪くて学校に来なくなったんでしょうけど」
そこまで言ってから、思い出したように彼女は言葉を付け足す。
「正直、みんなもクラスに馴染もうとしない愛花のことを嫌ってたじゃない?」
「……そうだね」
当時のことを思い出す。
あの頃、あの子――綾野愛花はクラスのみんなから嫌われていた。
わがままだとか、高慢ちきで態度が悪いだとか、人当たりが悪いだとか、みんなして、綾野のことをよく知りもしないくせに散々陰口を言っていたのを覚えてる。
同じクラスだったのにほとんど関わりがなかった俺が知ってるんだから、たぶん、本当にみんなから嫌われていたんだと思う。
実際、俺は綾野が他の誰かと楽しそうに話しているのを見たことがない。俺が学校でいつも見るあの子の姿は1人で机に座ったまま本を読んでいる姿だけ。
あの子はいつも1人だった。
それが、いつ頃からだったろうか。
気が付けば、彼女はなんとなく、いじめの対象になっていた。
正直、声をかける勇気はなかった。
なんて声をかければいいのかわからなかったし……子供ながらに、彼女に声をかけたら自分までもがいじめの対象になるという不安と恐怖を抱いていた。
あの子のことが気になっていたはずのに声をかける勇気がなくて……結局、俺もクラスのみんなと同じように彼女のことをなにも知ることなく、そのまま俺も彼女も小学校を卒業してしまった。
そこから先はもう会うこともないまま、今へと至る。
今更になって、酷く後悔している自分がいる。
今ならもっと勇気を出せるのに。あの子のために行動するし、いじめられていた彼女を庇いもする。
なにもできなくても、彼女のためになにかしてあげたかった。
だけど……。
「あ、でも、みんなって言っても全員じゃないわね」
仲田さんがジッと俺のことを見つめる。
その眼差しがなんだが俺をからかってるみたいで少しこそばゆい。
「少なくとも、杉崎くんは違ったんでしょう?」
「…………」
「杉崎くん、愛花のこと好きだったんだもんね?」
「……ああっ」
なんだか気恥ずかしくなってしまい、俺は短い反応だけ返して、つい目を逸らしてしまう。うろたえる俺の反応が面白かったのか、仲田さんはケラケラと笑う。
気恥ずかしさを誤魔化すようにして足早に歩く。すると、仲田さんが少し遅れてから、小走りで走ってきて、そのまま俺の横につく。
凍てつく寒さの中、お互いに並びながら歩く。
そして、ふと歩きながら、仲田さんが俺の顔を見ながら。
「ねえ……杉崎くんはさぁ、どうしてあの子のことが好きだったの?」
「どうしてって……」
「綾野愛花の、どこが好きだったの?」
「…………」
無言のまま、考えてみる。仲田さんの言葉を頭の中で咀嚼して、自分の気持ちを考える。
だけど、考えてみても出てくる答えはひとつだけ。
俺は絞り出すようにして、呟く。
「可愛かったから……かな?」
我ながら、ずいぶん安直というか……単純な理由だけど。
「たぶん、好みの顔だったんだと思う」
「見た目なの?」
少しだけ不満げに失望したかのように苦笑する仲田さん。
「ずいぶんと単純な理由なのね」
「さっき言ったじゃん。あの頃の俺は子供だったんだよ。男の子が女の子を好きになる理由なんて、そんなもんだよ」
「まぁ、女の子だって顔は重要視するわね」
「そうでしょ? それにさぁ……」
我ながら、単純な理由だけど……それでも忘れられない思い出がある。
「俺……綾野が1人きりで泣いてるところを見たことがあるんだ」
「1人で泣いてるとこ?」
「うん」
頷きながら、そのときの彼女の表情を思い出す。
「俺、上と下に1人ずつ姉と妹がいるんだ。だから女の子が泣く姿なんて、昔からさんざん見てるんだけど……あの子の泣いてる顔を見たとき、どうしても気になったんだ」
あのときの、綾野の泣いてる姿が忘れられない。忘れることなんて、できない。
すごく悲しそうで……だけど、とっても哀し気で儚げな泣き顔が。
嗚咽交じりにただひたすらに泣きじゃくる泣き声が。
あのとき、偶然見た彼女の素顔が俺の気を引いて離さない。
「……そのときかな? 彼女はみんなが言うような女の子じゃないって、そう思ったんだ。それ以来、彼女のことが気になって仕方がなかったんだ」
「……ふーん。そっか」
黙ったまま俺の話を聞いてくれていたは仲田さんはとても真剣な表情のまま俺の話を静かに聞いてくれていた。またもや気恥ずかしい気持ちになってくる。
「って言っても、さっき喫茶店の中で仲田さんに言われたように、小学校を卒業してから今まで、自分から綾野の連絡先を探してたわけでもないんだけどさぁっ」
俺は自身の告白を誤魔化すようにしてお道化る。
「それに……結局、俺は綾野の為になにもしなかったし」
そう。
彼女を守ってあげるなんてことはできなかったし、しなかった。
それが、俺の人生の数ある後悔の中でも、最も大きな後悔であった。
自分の気持ちを吐露することに若干の気恥ずかしさを感じた俺は話題を変えようとする。しかし、俺がなにか適当なことを喋る前に、それまで俺の話を静かに聞いてくれていた仲田さんが先に口を開く。
「ねえ。杉崎くんはさぁ、人生をやり直したいって、思ったことある?」
「え……?」
突然の質問に困惑してしまう。
「どういう意味?」
「いいから答えて」
真剣な表情のまま問い詰められる。
俺は少しだけ、たじろいでから、答えた。
「……あるよ。何回もある」
それこそ、毎日思う。考えてしまう。
人生をやり直せたらって。
そしたら……こんなクソみたいな底辺人生を変えられるのに。
綾野愛花という女の子のことを守ってあげられるのに。
俺の答えに気分を良くしたのか、仲田さんは少しだけ口角をあげて小さく微笑む。
「そうよね。みんな誰だって、過去に戻れたらって、思うわよね」
そう言ってから、思い出したように。
「そういえば高校生になって、久しぶりに愛花と再会したときも同じようなことを聞いたわねぇ」
「そうなの?」
「ええ。懐かしいわぁ」
「そのとき綾野はなんて答えてたの?」
「さぁ、昔のことだし、そこまでは覚えていないわ」
「なんだよそれ」
「女の子同士が話す会話っていうのはフワフワと軽いのよ。昔から言うでしょ? 女三人寄れば姦しいって」
「なんだよそれ」
意味が分からない。
「まぁ、こっちの話よ。気にしないで」
そう言って彼女はまた微笑む。どことなく、なにかを誤魔化すような素振りに見えた。たぶん、あんまり突っ込まれたくないのだろう。
「まぁ、でも、人生をやり直すだなんて、もちろん無理だってわかってるけどね」
「あら、そんなことないわよ」
仲田さんはケラケラと笑う。まるで幼い子供を諭すかのような様子で。
「人生はいつだってやり直しがきくわ。もちろん、今からだってね」
そう言ってから。
「人生に今更もう遅いだなんてことはないわ」
「……そうだね」
釣られて、俺も笑う。笑うというよりは苦笑するだけど。
「あ、見えてきたわ」
「え? どれ?」
「あれよ、あれ」
仲田さんが自身の仕事場であるマンションを指差す。俺は彼女が指し示す建物を見る。
「へぇ、あそこで働いてるんだ」
いわゆるタワーマンションというやつだろうか?
遠目から見ても、ずいぶんと綺麗で立派な建物だ。家賃的な意味でも階数的な意味でも、いかにも高そうな高級賃貸物件だ。俺は思わず感嘆の息を漏らす。
「ここまでいいわ」
「え?」
仲田さんは立ち止まり、俺に傘を差し出す。
「やっぱり傘は返すわ。この信号を渡ればあとはもうすぐだし。杉崎くんはこのまま品川駅に向かうんでしょ? だったら、あっちよ」
仲田さんは駅の存在する方角を指し示す。
「そっか……わかった」
自己満足でしかないお礼を強制する気もないので、素直に傘を受け取る。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
「こっちこそ、綾野の話を聞かせてくれてありがとう」
「どういたしまして」
なんとなく、お互いに無言になる。
目の前に存在する横断歩道の信号機は「赤色」に灯火している。道路を横切る車が彼女の行く手を遮っている。なんとなく、信号が青になるまでは待っていようと思ったので、そのまま立ち尽くす。
すると道路を眺めていた仲田さんがおもむろに。
「杉崎くん」
「ん? なに?」
「これ、あげるわ」
彼女はポケットに手を突っ込み……そこからなにかを取り出す。
彼女の手が俺の目の前に差し出される。俺はほとんど反射的に手を出した。
そして、それを受け取る。
「――指輪?」
「ええ。あげるわ」
彼女の小さな手が離れる。俺の掌には剥き出しの小さな指輪が。
指輪を見つめる。
リングの上の装飾品として施された極小の宝石は小さくも鈍い輝きを放っている。一目見るだけで、子供が縁日の屋台やデパートのおもちゃ屋で買うような安っぽい硝子玉の指輪ではない。
「え、いや……仲田さんの物なんでしょ? こんな高価そうなもの、貰えないよ」
ていうか、この指輪を売って息子のランドセルを買えよ。そう心の中で突っ込みを入れながら、俺は指輪を返そうとする。
しかし、彼女がそれを拒む。
「いいから、いいから。受け取っておいて。とっておきの御利益があるわよ」
「いや、本当に要らないって……これ仲田さんの大切なものじゃないの?」
「ぜーんぜん。なんの思い出もない、ただの安物の指輪よ。もちろん、売っても二束三文にしかならないわ」
「そうなの? ……ていうかなんで俺にくれるわけ?」
「まぁ、気まぐれってやつよ。ただの気まぐれ。いいから黙って受け取って」
「ちよ、ちょっとっ」
無理矢理、俺の着ているコートのポケットに指輪を押し込もうとしてくる。
ずいぶんと押しが強いな……などと半分どこか他人事のように感じながらも、彼女の腕をつかみ阻止しようとする。
しかし、彼女の押しは思いのほか強く、一歩も引こうとはしない。
「わ、わかったから、一旦止めてっ」
やがて、なんだが断ること自体が無下だとも、無粋だとも、さらにいえば、このままでは彼女が納得しなくて面倒くさいと思い始めた俺はわざとらしく大きな溜息を吐いてから、掴んでいた彼女の腕を離した。
俺は仲田さんの剣幕に押されて、指輪を受け取る。
「そうそう。それでいいのよ」
仲田さんが満足げな表情をよそに、俺は指輪を見つめる。
……うん、なんの変哲もない普通の指輪だ。
俺が怪訝に思っていると、彼女が俺の心を見透かしたかのように言う。
「もしも、きみが本気でそれを願うなら――その指輪が助けてくれるわ」
「はぁ……」
またしても、意味が分からない。
「あ、ちょうど信号が青になったわね」
「うん」
曖昧に頷く。見ると赤だったはずの信号機は青になっていた。
「じゃあ、私はこのまま仕事に戻るわ」
「うん。おっけい。お仕事頑張って」
「ありがと!」
そう言って、仲田さんは傘から飛び出す。背中を向けたまま、
「愛花のこと……頼んだわよ」
と言われた。
「……うん」
もう一度、頷く。今度は深く。
「私じゃあ、あの子のことを助けてあげられなかったからさぁ」
「え、それって、どういう……」
言いかけたところで、遮られる。
「なんでもない!」
仲田さんは大きな声を張り上げてから、横断歩道を渡る。
そして振り返った。
「今日は本当にありがとね! 久しぶりに杉崎君とお話ができて、楽しかったわ!」
俺も大声で返す。
「う、うん! 俺の方こそ、色々と教えてくれてありがとう!」
お互いに顔を見つめる。その顔は、なんだが憑き物がとれたかのように晴やかだった。
「気を付けて帰ってね! またね!」
「ああ、そっちこそ、仕事頑張ってな! さよなら!」
俺と彼女の別れの挨拶が交差する。
仲田さんはそのまま前を向いて、マンションへと歩き始める。俺はなんとなく、そんな彼女の後姿が見えなくなるまで見ていようと思い、眺める。
仲田さんの背中が少しずつ小さくなっていく。
その刹那。
「あ! そーだ!」
彼女が振り返り、口を開く。
「言い忘れてたことがあったわ!」
「なに?」
彼女は満面の笑みで微笑み、そして――。
「……が……を……なんて……思わない方が……いいわよ!」
それを、俺に忠告してきた。
「え、それってどういう……」
「じゃあ! 頑張ってね!」
再び踵を返して彼女はそのまま去っていってしまう。
「どういう意味だったんだ……?」
俺は首をかしげながら、去り行く彼女の後姿を眺め続けた。
いつまでも、いつまでも、いつまでも……。
あとになって、俺は何度も思い出す。
彼女のあの言葉を。
そして、その度に理解する。
彼女のあの言葉の本当の意味を。
そして。
あれこそが、俺と彼女の長い長い時間の始まりの時だったいうことを。