「三峰編:プロローグ」
かの有名な枕草子ではないが、春の朝というのは趣があって良いものだ。
寒過ぎず、暑過ぎない。風の中に微かにある花の香りには、心の内にある詩人的な思考が刺激される。たぶんこれで一筆したら、さぞ立派な黒歴史が生まれることだろう。
カメラを抱えて満開の桜の下を歩く中、そんなことくだらないことを思ってみる。
川に沿ってしばらく下っていくと、三角州に出た。休日は恋人や家族連れで賑わう、この街の住人たちの憩いの場だ。
がしかし、春休みとはいえ一般的には今日は平日だからか、人は全く見当たらない。
どれ、たまには飛び石で遊んでみるのも良いだろう。
僕はそう思い立ち、川を切り裂くように作られた三角形の頂点へ向かった。
しかし、その目論みは一瞬で砕け散ることになる。
"それ"は、近所にある三角州の頂点にぶっ刺さる形で打ち上げられていた。
「なんだ、これ……」
"それ"こと地面に倒れた男は、長い白髪を砂利になびかせ、長い手足を大の字に広げて寝ていた。
そっと、乱れた前髪を除けると、少年のようなあどけない寝顔が見えた。しかも、なかなかに整った顔つきだ。
僕はまず、死人でないことにホッと胸を撫で下ろし、その場にあぐらをかく。
「……うん、一旦落ち着こう」
人は得体の知れないものに出会うと、逆に心が凪ぐようだ。自分でも、どうしてこんなに落ち着いているのかわからない。
しかし、なぜこんなところに白髪イケメンが転がっているのだろうか?
怪事件じみた事柄に首を突っ込む気は毛頭ないのだが、ひとまず起こしてやらねば。
と、手を男の肩に伸ばした途端。
「うはぁっ!?」とすっとんきょうな声を上げながら、男が勢いよく上半身を起こした。
それにつられて、驚いた僕も後ろに飛び去る。
「……だ、大丈夫ですか?」
僕が訊ねると、男は苦笑して
「いや、死ぬかと思ったぁ……」と砂利のついた頭を掻いた。
「まさか川で遊んでたら、空から赤べこが降ってくるなんて」
笑いながら赤べこを持つ彼に、僕は唖然とする。
なんだこの人……というか、どうして赤べこ?
「それより、君がボクを助けてくれたのかい?」
「え、いや ーー」
「ありがとう!!いやぁ、春とはいえどまだ寒いし、ここで助けてもらえなかったら死んでたよ!あはは!」
僕は何もしてないんだが……と言う隙を与えられず、ただマシンガンのように言葉が射出されてくる。
寒いならどうして川遊びしてたんだ……。
「だ、大事ないなら、何よりです……」
とりあえず、なんかヤバそうだなこの人。早めに話を切り上げて、ここから退散しよう。
「じ、じゃあ僕はここで……」
そう言い残し立ち上がった瞬間、手首を掴まれ重心がぶれる。
「ちょっと待って!」
僕は男の声が聞こえないふりをして、全体重を前にかける……がしかし、ビクともしない。
ゆっくり後ろを振り向くと、男は獲物を捕まえた肉食動物のような微笑みを浮かべた。
「ボクの拘束からは逃れられまい、八栄三峰くん」
「なっ!?」
こいつ、どうして僕の名前を!?
知り合いでもなければ、教えたわけでもないのに名前を呼ばれると、ここまでドキリとするのか……気持ち悪いな。
「ふふっ。信じられないって顔をしているね」
男は掴んだ手を離さずにヨイショと立ち上がり、爽やかな笑みを作り出した。
「もしよければ、この後ボクとお茶しないか?いい店を知っているんだ。なんならケーキを奢ってあげよう」
程なくして、僕たちは駅中の喫茶店に到着した。断じて、ケーキにつられて来たわけじゃない。
店内には数えるほどしか客がおらず、BGMとしてかかっているジャズがしっかりと耳に入ってきた。
先ほどから、やけに人と会わないと思っていたが、近くで催し物でもあるのだろうか?
周囲を気にしている僕をよそに、向かい側に座った男は、注文したケーキセットを撮影している。
「で、誰なんですかあなた。なんで僕の名前を知ってるんですか?」
そもそも、あの河原に寝そべってた時点でおかしかったのだ。
僕は警戒心剥き出しで訊ねた。
「まぁまぁ、そう急がなくていいじゃない」
軽くあしらわれ、僕の腹の底に赤々しい何かが溜まる。
「人を勝手に連れてきてなんですかそれ?」
「ついてきたのは君だろう?」
「それはアンタに手を掴まれてからだろう……!」
「あはは!そういえばそうだったね」
「チッ……」
ここぞとばかりに舌打ちをして睨むと、男は戯けたように肩をすくめた。
「ごめんごめん。ジョークだよ、ほらケーキあげるから」
小皿に乗せられたショートケーキを眺め、僕はしぶしぶ機嫌を治した。
「それで、本当に何者ですかあなた」
「ふふん……聞いて驚くことなかれ」
僕がケーキをフォークで刺し訊ねると、男は得意げな様子で口角を上げる。
「ボクはアメノ。この町の神様さ」
想定外すぎるセリフに、目測誤ってケーキが鼻の下にくっついた。
「………は?」
「驚くなっていったのに……ぷっ、クリームついてるよ?」
いや、これは驚きというより、呆れだ。
僕はクリームをティッシュで拭き取ると、笑いを堪えているアメノに向き直った。
シンプルな白いシャツに、ややダメージの入ったジーンズ。神様のイメージとはかけ離れたラフな格好に、僕の口からポツリと本音が溢れる。
「………いや、全然見えない」
「えぇぇぇぇ〜!?どこがぁ!?」
「うるさいですよ……」
第一、こんなのが神様だったら日本終わってるだろう……。
そんな胸中を垣間見たように、アメノはムッと眉間にシワを寄せる。
「あ、君……今失礼なこと思ったろ」
「いいえ、思ってませんよ〜」
面倒くさい。なんだこの人。突然お茶に誘った上に、自分は神様だとほざくなんて。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「……まぁいいさ。自分に神様っぽさがないのは重々承知だし」
あ、自覚はしてるんだ……。
僕は真っ先に思いついた疑問を突きつける。
「もし仮にあなたが神様だったとして、どうして僕にそれを言うんですか?」
アメノは鼻を鳴らすと、人差し指をピンと立てた。
「君がボクを信じるなら答えよう」
なんだそれ……。
あからさまに嫌な顔をする僕に、彼は余裕と優しさを感じる笑みをうっすら浮かべる。それが余計にうっとうしい。
「……まぁ、急に信じろって言うのも無理な話だよね」
僕はしかめっ面のまま、勢いよく首を縦に振った。
「でも心配はいらないよ。君はすぐにボクのことを信用するさ」
「それはどう言う……」
戸惑う僕を置いて、アメノは声のトーンを落とし語り始める。
「これは占じみているんだけど、ボクはその人の過去と未来を見ることができる」
「……へぇ」
この上なく胡散臭いな。
「まず、あそこの老人客」
アメノがそっと目線で示したのは、優雅にお茶を飲むなんの変哲もないちょび髭のお爺さんだ。
「普段はあんな感じだけど、実はボディービルダーの大会で優勝しまくってる」
いや、うん……それもう知ってる。
彼はこの町のメインストリートに店を構えている、カフェのマスターだ。実際、彼の店にはムキムキの男を象ったトロフィーがいくつもある。
おまけに、同じくカフェの経営者である僕の兄とよく話しているため、まぁまぁ顔見知りなのだ。
僕のすっかり冷めた目を気にも留めず、アメノは話を続ける。
「次はあの店員の女性」
今度は、食器を運ぶショートヘアの女性に視線を移した。
「彼女はあんなに可愛らしい見た目だけど、3日前に上司にブチ切れて机や椅子をひっくり返し、思いっきりその上司を殴った……あれは恐ろしかっ……」
そこまで言うと、先程のショートヘアの女性店員がこちらの席へ歩いてくるのが見えた。
「お客様」
凛としつつも可愛げのある声だが、その中には、腹の底が冷えるような恐ろしさをはらんでいるように聞こえた。
その声にアメノは肩をビクッと震わせ、恐る恐るといった感じで店員に顔を向ける。
「な、なんでしょうか……」
「あまり、他のお客様の情報を漏らさないでくれますか?迷惑ですので」
声には凄まじい覇気があるというのに、笑顔は完璧なのがまた不気味だ。
「す、すみません……」
「もし次そんなことがあったら……今度こそ、その首をねじ切りますから」
なんて大胆かつ物騒なことを言う人なんだろう。と、他人事ながら思った。
すっかり萎縮したアメノが「すみません……」とかすかに答えると、女性店員はとびきり可愛らしい笑顔をこちらに見せて、厨房へと歩いていった。
心なしかその後ろ姿は、どこかスッキリしたように見えた。
「知り合いですか?今の人」
「………いや、知らない……知りたくない」
もう完全にダメだな、この人。
机や椅子ごとガタガタ震えるアメノには、ため息すら出ないくらいの呆れを感じる。
「とりあえず、落ち着きましょう。あんまりガタガタ言うと、またさっきの人に文句言われますよ?」
僕の一言に素早く反応したアメノは、そうだね……と呼吸を整えた。
しばらくすると、体の震えも止まり顔色も元に戻った。
「さて。落ち着いたところで本題に戻るとしよう」
戻るのか……。
僕の様子を見て、アメノは苦笑する。
「あはは……全く信用されてないね」
「さっきのやり取りを見て、信用する方がおかしいですよ」
「それはごもっともです……」
アメノは、痛いところを突かれたと言わんばかりに口をギュッと結ぶ。
……はぁ、帰りたい。
そう思い、僕はふと窓の外に目を向けた。
今朝から少し怪しげだったが、本格的に蒼鉛色に濁ってきている。
これは一雨来るかもしれない。
「仕方ない。ここは最終兵器を出そうじゃないか」
覚悟のこもった声に目線を戻すと、手を口の前で組んだアメノがひどく真面目な表情を浮かべていた。
「また何かするんですか?別にやるのは良いですけど、他の人に迷惑かけないようにしてくださいよ」
実際良くないが、こっちは早く帰りたいのだ。もう面倒だし、適当に聞き流しておけば良いだろう。
「心して聞くがよい。今から君に起こる出来事を予言して進ぜよう」
おぉ、口調はそれっぽくなった。
内心そんなどうでもいいことに感心していると、アメノは僕に耳打ちする形で顔を近づける。
言い終わると、僕の口から一拍遅れて「はい?」とこぼれ落ちた。
次の瞬間。厨房からの冷たい視線を感じ取ったアメノが、ひどく慌てた様子で席を立つ。
「じ、じゃあ、ボクそろそろ行かないと!あ……あと当たったら神社に来てくれ!」
そう言い、彼は小走りでレジに向かった。
そこには、さっきの女性店員が笑顔で待っており、会計を済ませたアメノに何か耳打ちをした。
たぶん、「あとで覚悟しておけよ?」とでも言われているのだろう。
まるで嵐のような人だった……と、僕は安堵と疲労の混じったため息をつく。
窓の外には、混沌としていた空気をあらわすかの如く、どんよりとした雲が広がっていた。