腹痛体質の俺に勇者なんてできるわけがない
気が付いたら、俺は真っ暗な空間にいた。
暗いだけじゃなくていやに静かだ。何も聞こえない。風が動く気配もない。
ただ俺が繰り返す、かすかな呼吸音だけが耳に入る。
いつの間にこんな場所に来たんだろう。
ガキの頃お仕置きで閉じ込められた祖父ちゃん家の蔵みたいな静寂だ。
底冷えするところもあの蔵に似ている。
静かで暗くて湿っぽい蔵の中でずっと座っていると、冷気と一緒に得体の知れないナニカが尻から這い上がって来るような気がして――ガキの頃の記憶が甦る。
途端に震えが来る。胃腸が痙攣し、脂汗が滲み出す。
「落ち着け……落ち着け」
自分に言い聞かせながら両腕を抱え――と、何故か全身濡れていた。
Tシャツの袖も腹も裾も、ハーパンもぐっしょりと重たい。
「汗? ……いや、んなわけない」
あちこち触ると衣服だけじゃなく、頭の天辺からつま先――サンダルまでもが水浸しなことに気付く。
「なんで俺――いてててて」
一体何があったのか記憶を辿ろうとした瞬間、刺すような腹痛が俺を襲う。
更にぎゅるぎゅると切羽詰まった音も立て始めた。
「でもこんな暗かったら、トイレ探すの無理じゃん。ヤバいな」
片手で腹を押さえながら、もう片方の手をついて立ち上がろうとすると、腹だけじゃなく全身がみしみし軋むように痛んだ。
長時間倒れていたんだろうか。
地面なのか床なのか、意外になめらかな手触りだった。だがやはり濡れてる上に冷たく、俺の腹は更に悲鳴をあげる。
「――今のはなんの音?」
突然、俺以外の声が聴こえた。声の主の姿は見えない。
多分若い女性の声だろうが聞き憶えがない。知り合いではなさそうだ。
「だ、誰……ってかあの、すみません、トイレどこですか?」
ぎゅりゅりゅりゅりゅ……
自分ひとりだと思っていたところに正体不明の声だ。
俺の、というより、俺の腹の緊張度合いが一気に上昇する。
まて……本当に聴こえてたのか? 頭の中で響いたような気もしたぞ。
「といれ……ああ、お前が頻繁に行くところだな。ふむ。しばし待つがよい」
声とほぼ同時に、俺の右前方に突然ドアが現われた。ドア全体が発光しているかのように明るく、そこから細い光の道が俺に伸びる。
ドアといっても未来の猫型ロボがポケットから出すアレじゃない。俺の自宅のトイレのドアそっくりなやつだ。
何故俺んちのトイレが?
と思うような余裕もなく駆け寄り――実際は切羽詰まっていたのでへっぴり腰でよたよたと――ドアを開けると、懐かしき我がトイレがそこに現われた。
一畳ほどの空間で、壁紙は白く、エンボス加工がされている。
ドアの上には突っ張り棚。そこには予備の買い置きトイレットペーパーを積んである。
便座の左側の壁には備え付けのペーパーホルダー。その下の壁際には小さなステンレスの棚を置き、洗剤などを収納している。
棚の一番上の段には、先週買ってまだ読み掛けの漫画雑誌もあった。
ちなみに便座は温水洗浄機能付きだ。
急いでドアを閉め、腰を下ろす。
はぁ、間に合った……と安堵した瞬間に、ふと、ガキの頃に熱を出すと必ず見ていた夢を思い出した。
真っ暗闇の中を、車の後部座席に乗せられてどこかへ移動するという、ただそれだけの夢だ。時折カーブするように横方向に重力が掛かる。時折街灯らしき白い光を通り過ぎる。
いつまでも続く柔らかく暖かい闇と静寂の中で、エンジンの振動だけが身体に伝わっていた。未だに印象的な夢のひとつだ。
そういえば今トイレが突然現われたのも、夢の中でよくあるご都合主義の展開に似ている。
「はは……まさかこれ、夢だったりしないよな?」
トイレの夢といえばちびっこ定番のものだ。
あちこち彷徨った末にようやく使えるトイレを見付け、用を足して安心した途端に襲い来る現実は、そう、おねしょだ。
しかもそのパターンでいくと今の俺の状態は――うわ考えたくねえ!
「夢ではないぞ。安心せい」
またあの声が響く。一体どこから聞こえて来るのか。
周囲を見回しても、見慣れた狭いトイレの個室だ。
普段ならここで文字通り腰を落ち着けて漫画を手に取るところだが、得体の知れない声が聴こえるこの状況では、まったくそんな気分になれなかった。
ひょっとしたらあの声は幻聴ってやつだろうか。
だけど、それならさっきまで俺がいた真っ暗な空間は?
俺が全身びしょ濡れな理由は?
これも全部幻覚の一種とか?
俺、なんかヤバいキノコとか食べたっけ?
「まだかえ? といれとはそんなに時間が掛かるものなのか? わらわをあまり待たすでない」
少しイラついた声が響き、俺の腹が驚いてまたぎゅっと音を立てる。だがもう腹具合は落ち着いているようだ。
「わ、悪い……もうちょっとだけ待っててくれ」
幻聴相手に果たして意思疎通ができるのか、という一抹の不安を抱えながら声に出すと、意外にも「そうか、わかった」という返事が来た。
急ぎつつもしっかり洗浄してから立ち上がる。
手も洗って、さて、とドアを開けると――
「え、だ、だれ? ……ですか?」
驚き過ぎて、思わず語尾が丁寧になる。
珍妙な恰好をした少女が俺の目の前に立っていた。
身長一七〇センチの俺の顎の高さに頭があるから、少女は一五〇センチそこそこだろう。結構小柄だ。
虹のような色合いの、ドレープが多く丈の長いワンピースを身に着けている。風があるわけでもないのに、裾やフリルがふわふわと揺れているのは何故だろう。
なんのコスプレだか知らんが、少女の頭からは角のような枝のようなものが二十センチばかりの長さで生えている。
それは木の枝や鹿などの角のような茶系の色じゃなく、銀色だった。光沢はあまりないが、いかにも金属めいた硬質な色合いだ。
少女の髪の毛も同じような色合いの銀髪。
最近のコスプレイベントではよく見掛けるタイプの髪色だが、ああいったウィッグが安っぽく思えてしまうようなしっとりした銀髪で、彼女の腰の辺りまで伸びている。きっと手触りもいいに違いない。
「本物……?」
うっかり手を伸ばし掛けて、刺すような視線を感じた。少したれ気味の、赤ワイン色の瞳が俺を睨みつけている。
大きな眼だ。だから余計に彼女が怒っているのがよくわかった。
俺は理性を総動員させ、慌てて手を引っ込める。
そして、何故暗闇であるはずの空間で少女が見えているのか、ということに今更気付く。いつの間にか俺らの、というより少女の周囲半径一メートルほどの範囲に光が満ちていたのだ。
「誰、とは随分じゃな。さっきから会話しておったではないか」
確かにさっきから聴こえていた声だ。
でも今度はちゃんと、目の前の少女の、色素の薄い唇から発せられているのがわかる。
少女は肌の色も薄く、頬は柔らかい桃色だった。ふっくらとした頬の輪郭はまだ幼さを残していた。
「しかもお前が望むから、といれというやつにも行かせてやったぞ。有難く思え」
「はぁ……」
茫然としながら振り返ると、周囲はまた暗闇に戻っていた。
「あれ? トイレどこ行った?」
手を伸ばしても空を切るばかりで、さっきまであったはずのドアに触れない。まさかと思ってまた前を見ると、少女の方は消えてなかった。
「わらわの名は『§㌔㍉@㌘▽㌢㌫♭㌻㌃∽㌶』じゃ」
「……はい?」
今なんつった? 名前って? 聴き取れねえ。
「この世界の女神にして、お前のますたーであるぞ」
「はぁ?」
ってかどういうこと?
まさかあれ? 俺って今、ラノベの主人公みたいな状況?
いやいやいや無理無理無理。夢ならとっとと覚めて欲しいんだけど。
* * *
「――ごめん、もっぺん説明してくれる?」
要領を得ない俺に、俺のマスターだと名乗るコスプレ少女は頬を膨らます。
「お前はどうやらハスレだったようじゃな。こんなに物わかりが悪いキャラが出るとは思わなんだわ」
「いや、物わかりが悪いとかじゃなくて、ちょっと信じられなくて」
「ふむ……? どの辺がなのじゃ?」
「どの辺っていうか、全部?」と頭を掻くと、少女はまた頬を膨らませた。
「だからの? 今流行ってるゲームなのじゃ――うぅむ、『ひゃくふんはいっぷんにしかず』というし、見せた方がわかりやすいかの」
そう言って少女は両手を胸の前で上に向ける。
途端にぼうっと淡い光の球が出現する。諺の間違いに突っ込む気にもなれず、俺はそのマジックだかイリュージョンだかわからないものに目を奪われた。
球の中に広大な土地が映し出されていた。
かなり上空から俯瞰しているらしく、端の方には冠のように雪を戴いた山々が聳えている。
そして広々した草原で、大量の何かがうごめいている。
「これはわらわの兄や姉たちもハマっておるんじゃが、年齢制限でわらわは今までできなかったのじゃ。昨日やっと誕生日を迎えたから、早速登録して――」
ずん、と軽く地響きがして、光の球の中で何かが破裂した。悲鳴と咆哮、歓声が入り混じって聞こえて来る。
「……で? 開始するとまず、ゲームの主要キャラがランダムに選択されるって?」
球の中の光景に見とれている少女に代わって、俺が説明を引き継ぐ。
ようやく我に返った様子で少女がうなずいた。
「そうじゃ。課金すれば、最初からスペックが高く強力なキャラクターが選べるのじゃが、わらわはまだ課金を許されておらぬでな。無料のキャラ――つまりお前が生成されたというわけじゃ。納得したかの?」
「――って、納得できるかっつの!」
俺は思わず叫んでいた。
彼女は驚いて目を丸くしている。
まあ、俺が少女の立場なら驚くのも当然かも知れない、けど。
「だって俺は生成されたわけじゃねえぞ? さっさと元の場所に帰してくれよ」
「も、元の場所とは……ゲームキャラが待機している『プール』のことかの? それは無理じゃ」
「はぁ? 無理だぁ? 大体なんだよその『ゲーム』って。俺がこの点のひとつと同じだってのか? ふざけんなよ。ってか俺の人生を何だと思ってんだ? これがもし大掛かりなドッキリだとしても俺は納得できねーよ!」
少女が片手を振る。光の球が消えた。
「残念じゃが、お前の居場所はプールには――お前が言う『元の場所』とやらにはもうない。プールのお前のデータは死亡、もしくは抹消となっているはずじゃ」
「……死亡? 誰が?」
血の気が引く。
少女がまだ何やら説明しているようだがまったく頭に入らず、言葉が耳をすり抜けて行く。
「――クに撥ねられ、自転車ごと川に――今濡れているのも、その時のデータがそのまま残っ――」
そういや俺、コンビニに置いてなかった雑誌を探しに、本屋まで行こうとしてた気がする。川沿いの道をちゃりんこで、一心に漕いで。
あの辺はヤンキーがバイク同士で競ったり、俺みたいなちゃりんこをわざと煽ったりしやがるから、普段は通らないようにしてたんだけどさ。
でも国道沿いの本屋までは一番の近道だったし、もう暗くなり掛けてたから急いでたし。
そしたら後ろから爆音とライトが近付いて来て――
「俺……死んじまったのか?」
「あちらではそういうことになるが、まあ所詮はデータの書き換えじゃ。そう深刻になることでもない」と、少女は苦笑する。
まるで俺の態度が大袈裟だと言いたげな様子だ。
「はぁぁ?」
その表情を見た途端、一気に怒りが湧き上がった。
「深刻になるなだって? 俺は機械でもデータでもねえ! 生きている普通の人間だっつの! 深刻になるに決まってんだろ! 何かデータだよ、勝手にこんなとこに連れて来やがって!」
衝動的に少女の胸倉を掴み、がくがくと揺さ振る。そのままの勢いで彼女の角を掴んで力任せに捻り取ろうとした。
「おまけにこんなふざけた格好しやがって。ガキのくせに女神だぁ? ってか喋り方も変だし一体なんのつもりで――」
「いたぁい!」
少女は悲鳴をあげた。
俺はその声にはっとして手を離す。
手に残る角の感触は金属的ではなく、生木を無理にへし折ろうとした時のものに似ていた。
俺から解放された彼女は、咄嗟に距離を取る。
「ひどいよ! あたしが何したってのよ! ばか!」
怒りが一気に霧散すると同時に、今度は小さい子をいじめて泣かせてしまったという罪悪感と冷や汗が噴き出して来た。
「ご、ごめ……」
「あたしが勝手に連れて来たわけじゃないし。プールで死んだキャラを転生させるための新しいプログラムとして開発されたゲームだから、あなたはここに来るより前に一度死んでんの! そういうキャラたちがランダムに引き当てられてるだけだし、あたしにどうこうできるわけないじゃない!」
頭を押さえながら、顔を真っ赤にして少女が叫ぶ。
さっきまでの口調はどこへやら、年齢相応の口調と表情で、またしても俺はぽかんとしてしまった。
「最近は、キャラが初手から暴走するトラブルが増えてるから注意しろって言われてたけど、こういうことだったのね。もういいわよ。運営に連絡してリセットしてもらうわ」
涙目のまま、少女はまた光の球を出現させた。片手で角の根元をさすり、もう片方の手だけで何か操作している。
「ちょちょちょちょっと待って、リセットって俺は?」
慌てて一歩近付こうとした途端に少女にキッと睨まれて、俺はその場に立ち竦んだ。
「当然、あなたはデータに戻るだけよ。ひょっとしたら暴走するキャラはデリートされるのかも知れないけど、そんなのもうあたしの知ったこっちゃないわ」
ヤバい。完全に怒っている声だ。
ほんとにデリートされるかどうかはわからないが、俺はそんなことを試すような勇気を持ち合わせていない。
「そ、それは……それだけはマジ勘弁してくれ! 俺が悪かったよ。つい、混乱して……あ、あのそうだ、さっきはトイレに行かせてくれてありがとう。ほんと助かったし感謝してる。だからその……」
じとー。
そんな音が聴こえそうな視線で赤ワイン色の眼が俺を睨む。
「……反省、してます。マスター。だからリセットだけは」
勘弁してください、と彼女に向け両手を合わせ、頭を下げる。
果たしてこのポーズが彼女に通じるかどうかはわからない。だけど、俺の精いっぱいの気持ちを伝えるには、こうするか、あとは土下座くらいしかないと思った。
できれば土下座は避けたかった――地面が相変わらず冷え切っているからだ。
既に俺の腹は、罪悪感と消滅の恐怖で痙攣を始めている。
「しょうがないわね」
やがて、ため息とともに少女は肩をすくめた。
「ほんとに反省しているみたいだし、今回は大目に見てあげる。リセットはいつでもできるし……別に、あなたがかわいそうになったから、ってわけじゃないんだからね?」
と、とりあえず助かった!
俺もほっとして力が抜ける。するとその途端――
ぎゅるるる……
「あら、また?」
途端に呆れたような表情で少女が俺を見る。
そうなんだよな。
俺は緊張してもほっとしても腹に来る体質なのだ。
ついでにいえば、寒けりゃ当然腹痛を起こすし、辛い物を食べた時も、ちょっと傷んだ物を食べてしまった時なんかも他の人よりも過敏に反応する。
そして定番の牛乳でも、やはり俺の腹は文句をいうのだ。
この体質のせいで、小学校の頃は結構いじめられた。
だけどあまりにも頻繁に腹痛で苦しんでいる俺を見たからか、いじめてた奴らにもそのうち同情されるようになった。
薬を飲めば腹痛は治まるが、「本当は腹痛を止めるのはよくない」と医者に言われてからは、なるべく飲まないように、腹を冷やしたりストレスを抱えたりしないように気を付けるようになった。
それでも、俺の腹に対するストレッサーは世の中に満ち溢れているのだ。
「すみません、あの……もう一回トイレを」
腹を押さえながら少女に頼むと、少女は片手を頬に当てて首を傾げる。
「困ったわねぇ。あれって、一時間に一回しか出現させられないし、一日五回までしか使えないツールなのよね」
なんだよそれ!
トイレが一日五回しか使えないとかどんだけだよ。
「そうねえ、悪いんだけどもうちょっと待ってくれる? あと……二十分くらい?」
光の球を操作した少女は全然申し訳なさそうもなく言う。
いやいや、この状態であと二十分って結構キツいぞ?
「しょうがないじゃない。そういうルールなんだから」
「ルールって」
「このゲームのよ。あ、リセットはしないけど、トラブルがあったことは報告するからね? あとその体質も困るのよねえ。いざ魔王と対峙した時に『お腹痛いからポーズ掛けといて!』ってわけにはいかないもん。あたしのキャラだけでパーティ組んでるんだったら、最悪やり直しが効くかも知れないけど、誰かと共同戦線張ってる時にそれやられたら迷惑掛かっちゃうし……」
少女はそう言いながらまた何か操作している。
やっぱ俺は、ゲームのキャラって認識なのか。
……って、え?
「あのマスター。今、魔王って聞こえたんだけど?」
「え? うん、そうよ。当然でしょ?」
「当然って、なんで」
「だってそういうゲームだもの。あなたにはこれから、魔王を倒す旅に出てもらうのよ。よろしくね、勇者さん」
彼女は満面の笑みで言い放つ。
「嘘だろ……」
嘘ならよかったのに。
俺の腹がひと際大きく抗議の声をあげた。