その1 4話:変わる風向き 裏話
「あの坊は一体どうしたのですか?」
ヘンリーは珍しく不機嫌そうにそう言うと、前髪をくしゃっと崩しながらソファーに腰掛けた。彼は二年前執事から家宰になって以後、エマと二人きりの時はクリフォードの事を坊と呼ぶ。手のかかる子供だから仕事以外では様付で呼びたくないらしい。何故坊やとか坊ちゃんでないのかは、万が一口走った時に意味を悟られないようにする為のようだ。
「サラ様に振られたそうですよ」
「サラ様? 片思いしているという?」
「無理矢理唇奪おうとして大嫌いと言われたそうです。一応怒っておきました」
エマはヘンリーに着替えを手渡す。彼はそれを受け取った。
「何故片思いの相手にそのような行動に出られるのか、私には皆目見当がつきません」
「結婚出来ないならせめて口付けをしたかったらしいのです」
ヘンリーは大きくため息を吐いた。家宰であるヘンリーにとってクリフォードは悩みの種である。ウォーグレイヴ公爵家を将来任せられる雰囲気が一向にしない。
「それが叶わなくて娼館通いをする意味がわからないのですが」
クリフォードの態度が最近おかしくなったのは他の使用人からも聞いていた。しかし今日娼館から請求書が届いて驚いたのである。署名は間違いなくクリフォードの字だったが、その請求書の数がおかしかった。娼婦を変えて毎晩遊んでいたのである。娼館もすぐに請求書を回せばいいものを、絞り取れるだけ絞ろうとして溜めていたのだろう。ウォーグレイヴ家は裕福で有名である。踏み倒すなどありえない。しかし名家の跡取りが娼館に出入りするなどいいわけがない。露見すれば収入源を失う。ヘンリーはその娼館の浅ましさにも腹が立ったが、それ以上にクリフォードの態度が理解出来なかった。
「とにかく明日は娼館へ出向かないように捕まえておいて下さい。説教をしますから」
「わかりました。マシューや門衛にも伝えておきます」
「クリフォード様、何故今日私が伺ったかおわかりですか」
翌日、学校から戻ってきたクリフォードは従者であるマシューに捕まり、部屋でそのまま軟禁されていた。クリフォードはソファーの上で小さくなっている。
「わかるけど、今後どうしたらいいのかはわからない」
「この件については旦那様に既に報告済です」
クリフォードは悲しげな表情でヘンリーを見る。ヘンリーはそれを無表情で受け流す。
「たかが女性一人に振られたくらいで何ですか」
「たかがって言うな。サラは俺にとって唯一無二なんだよ。サラ以上の女性を探そうと思ったんだけど、見つからなかったし」
「探すなら娼婦ではなく、どこかの貴族令嬢にして頂けませんか?」
「嫌だよ。俺の事を妙な目で見るから嫌だ。サラはそんな目で俺を見ないもん」
「しかし振られたのでしょう?」
クリフォードは泣きそうな顔をした。それもヘンリーは無表情で受け流す。
「とにかく娼館通いはもうしないで頂けますか。妙な噂が立つとクリフォード様の所に嫁いでくれる人が本当にいなくなりますからね」
「別にいいよ。サラ以外は誰もこなくていい」
クリフォードはソファーの上で膝を抱える。まるで昔に戻ったようだとヘンリーは思った。クリフォードは人見知りが激しく自己主張も苦手な子供だった。エマが話し相手になってから少しずつ良くなり、アルフレッドが後見人をしているエリオットとも友人関係を築けた。そして学校へ行き、サラと出会った事で彼の性格は明るくなった。これなら次期当主としてやっていけるかもしれないと多少期待していたらこれである。
「そういうわけにはいきません。この家を潰す気ですか」
「知らないよ。父上がもう一人息子をどこからか連れてきたらいいんだ」
「クリフォード様」
ヘンリーがクリフォードを窘めるように睨むと彼は顔を背けた。ヘンリーはため息をぐっと堪える。
「結婚の件は一旦おいておきましょう。しかし娼館通いだけはやめて下さい。クリフォード様が望む相手は見つからないでしょうから」
「わかった」
クリフォードは頷いた。ヘンリーは失礼しますと言ってクリフォードの部屋を出る。クリフォードは上流貴族の生まれにしては珍しく素直だ。自分の行動が間違っていると指摘されれば、それを認める事は出来る。もう娼館に通う事はないだろう。問題は結婚の方である。
「ふむ、その女性と結婚させれば丸く収まるのではないか」
アルフレッドは普段城で生活しているので屋敷に戻ってくることは少ない。しかし今夜はクリフォードの件でヘンリーの報告書を受け取る為に帰宅していた。
「そう簡単に仰せにならないで下さい。彼女は婚約しています」
「それは適当に壊せばいいだろう。相手は子爵だし、何とでもなる」
「旦那様、それは少々クリフォード様に甘くありませんか」
ヘンリーは無表情のままアルフレッドを窘めるように言った。しかしアルフレッドは右口角を少し上げてにやりと笑う。
「それでもこの家を存続させるには他に手がないと思うが。このサラという娘は成績も優秀だし、彼女と会った事でクリフォードも変わったんだろう? 彼女の気持ちはわからないが、トーマよりはクリフォードの方がいい男だろうから、こっちに乗り換えるだろう」
「それはお答え致しかねます。外見と家柄はクリフォード様の方が上でしょうが」
「そこは贔屓しろよ。まぁいい、クリフォードを呼んで来い」
「かしこまりました」
ヘンリーは一礼するとクリフォードを呼びに行った。クリフォードは父親と話す事をあまり好んでおらず、今夜も怒られるのだろうと思ってか非常に渋ったが、それを強引にヘンリーは引っ張っていった。精神的に幼いクリフォードに結婚はまだ早いのかもしれないと思いながら、ヘンリーはクリフォードをアルフレッドの前に突き出す。
「クリフォード、娼館通いなどふざけた真似を何故した?」
「ごめんなさい」
クリフォードは頭を下げる。アルフレッドはため息を吐いた。
「娼婦を妊娠させたら面倒だ。絶対にもうするな」
「それは心配ないよ」
クリフォードの声は小さかった。アルフレッドは訝しげな表情を息子に向ける。
「心配ない事はないだろう。確実な避妊などないのだから」
「だって誰も抱いてない。出来なかったんだ。人が違うのかなと思って色んな人と接してみたけど、結局触りたいとも思えなかった。だから悪いけど、この家は潰すしかないよ」
「簡単に潰すと言うな。サラさんと結婚したいなら俺が手を打ってやる。どうする?」
クリフォードは思いがけない提案に目を輝かせる。ヘンリーは親子の会話をアルフレッドの後ろに控えて聞いていたわけだが、クリフォードの態度の変わりように内心呆れていた。
「勿論結婚したい。でもサラに婚約壊すなって言われたんだ。家同士の問題だからって」
「そんなのは露見しなければいい。うまくやってやる」
「本当に? そんな事が出来るの?」
「俺を誰だと思っている。それくらい何とでもなる」
「うん、そうして欲しい。俺はサラとしか結婚したくない」
「ただし条件がある。これから言う事を守れるか?」
クリフォードは困惑した表情を浮かべた。それを気にせずアルフレッドは続ける。この結婚を成立させるには大金が動くのでクリフォードはアルフレッドに借金する形になる事、その返済の為に卒業後は真面目に仕事をする事、この結婚が策略だと気付かれないように安易にサラに近付かない事、勿論サラには何も言わない事、言葉遣いを改める事。
「わかりました。従います」
素直なクリフォードは早速言葉遣いを改めた。アルフレッドはそれに満足して頷く。
「よし。後は任せておけ。半年くらいかかるだろうが、それは耐えろ」
「サラと結婚出来るなら半年くらい何とでもありません」
クリフォードは真面目な表情でそう言う。アルフレッドは笑った。
「どうでしたか?」
エマは不安そうな顔でヘンリーに尋ねた。
「旦那様が折れ、結婚したい相手と結婚させると約束をされました」
「そうですか。それではクリフォード様はきっと明日から元に戻りますね。よかったです」
ヘンリーは無表情でエマを見た。ここにもクリフォードを甘やかしている人間がいたのかと。
「男爵令嬢と言うのが少し気になってはいるのですが、クリフォード様が選ばれた方ですもの。きっと素敵な方ですよね」
「成績優秀と言うのはわかっていますが、それ以上の事はわかりません」
ヘンリーはアルフレッドに言われサラについて調べた訳だが、それについてエマに話す気はない。そして彼女もそれを理解しているので聞き出そうとは思わなかった。
「そうですか。それでも一件落着したのならよかったです。暫く忙しくて大変でしたよね。お疲れ様でした」
エマは優しく微笑んだ。それをヘンリーは無表情で返す。彼女は着替えを彼に渡した。
「ありがとうございます」
ヘンリーはそれを受け取ると部屋を出た。使用人寮には個別に浴室などあるわけがなく、備え付けられた浴場に出向かねばいけない。少し不便であるが、自室に浴室があれば自分で掃除しなければならず、それを考えればこれでいいと彼は思っていた。
入浴後ヘンリーが部屋に戻ると、エマはベッドに腰掛けていた。二人の夫婦生活は順調だ。彼女は空気を読むのが上手い。無表情である彼の心を的確に読み、彼に負担なく寄り添っている。彼は十四歳も年下であるこの出来た妻をとても愛おしく感じていた。子供には恵まれていなかったが、こればかりは授かりものなので致し方がない。
ヘンリーは柔らかく微笑みながらエマの隣に腰掛けた。彼女も微笑み返す。夜はまだまだ長い。
5話のクリフォードの台詞「さっさと破棄してもらお」はここからきています。
彼にしては珍しくサラに裏で進んでいた事を内緒にしていたのです。
サラに話したら結婚出来ないと思っていたので、頑張れたのです。