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元子爵令嬢と無表情男  作者: 樫本 紗樹
本編 元子爵令嬢と無表情男
7/11

無表情が崩れる時

 エマがウォーグレイヴ家に来てから一週間が過ぎた。この屋敷はたくさんの人が働いていて、休みも交代制で取れるようになっている。エマの仕事は複数人で対応しているものではないが、彼女にもきちんと休みがあったし、ヘンリーにも休みはあった。しかしエマはヘンリーがいつ休みなのかわからなかった。部屋も隣のはずなのに物音が一つも聞こえない。朝食の時は使用人が食堂で一斉に食べるので、顔を見る事は出来るのだが声はかけられないでいた。

 その精神的な苦痛からかはわからないがエマはせっかくの休みに熱を出していた。丁度休みだったので迷惑をかける事にならなかったのでよしと思うしかない。そしてきちんと今日中に治すしかない。彼女はカーテンを閉めてベッドに寝ていた。

「エマ、入ってもいい?」

「どうぞ」

 扉が開きレイが入ってきた。手にはトレイがある。彼女はそれを机の上に置いた。

「おじやを作って貰ったの。食べられそう?」

「わざわざありがとうございます。お手間を取らせてすみません」

「いいのよ。あとこれが薬。自分で持っていけと言ったんだけどね」

 レイは笑顔だ。これはレイではなくヘンリーの気遣いだったのだ。エマはそう思うと申し訳ない気持ちになってしまった。余計な心配をかけて、これでは妻失格である。

「いえ。本当にありがとうございます。薬を飲めばすぐによくなると思いますから」

「そう? 辛かったら別に数日休んでもいいからね」

「はい、ありがとうございます」

 レイは微笑むと静かに部屋を出て行った。レイはエマを何かと気遣ってくれている。口調もすぐに砕けて、エマもまるで母親のように思っていた。どうやらレイはヘンリーの事を息子のように思っており、彼が結婚した事がとても嬉しかったようだ。それを感じてエマはどうしていいのか余計にわからなくなっていた。

 エマは椅子に腰掛けるとおじやを食べ始めた。きちんと食べて薬を飲み、よく寝てとにかく治さないといけない。今はヘンリーに対する不安など考えてはいけない。それはきっと体調を悪くするだけだ。



 エマは額に何かを感じて目を開ける。そこには驚いた表情のヘンリーがいた。どうやら彼が額に手を当てていたようだ。

「すみません、起こしてしまいましたか?」

「いえ。今日は一日中寝ていましたから大丈夫です」

 部屋の燭台に灯りがついている。エマは昼から長い間寝ていたらしい。

「すみません、御心配をおかけして。それとありがとうございます。薬が効いたみたいです」

「そうですか。それならよかったです」

 ヘンリーは前髪を下ろしていた。髪型が整っていないという事は彼の仕事は終わったという事だろう。

「ヘンリーさん、少しだけ話せますか?」

「エマが大丈夫なら」

 エマは頷くと身体を起こし、ヘンリーにベッドに座るよう勧める。彼はそれに大人しく従った。

「せめて以前の頻度くらいでいいので、こうして話す時間を作って貰えないでしょうか」

 エマは部屋が別々なのは受け入れるしかないと諦めていた。それでもせめて話す時間が欲しかった。今の状況は夫婦ではない。ただ同じ職場にいると言うだけである。雇用主と従業員より縮まったとは思えなかった。

「忙しい時間をわざわざ割いてくれなくても構いません。朝か夜、数分でいいのです。何なら会話もなくていいです。少しだけこうしてヘンリーさんの側にいさせてくれませんか? ここでは隣の部屋の物音も聞こえません。それが思ったより寂しくて……」

 エマは視線を伏せる。久し振りにヘンリーの顔を近くで見て何だか泣きそうだった。今は触れられる距離にいるのに、怖くて手を伸ばせない。

「物音が聞こえないのは構造上です。飛び跳ねるくらいしないと音は聞こえないでしょう」

 ヘンリーの言葉にエマは笑った。彼が飛び跳ねるなど想像も出来ない。

「そうですか。公爵家は使用人の建物もしっかり造られているのですね」

「しっかりと言えばそうなのですが、私の部屋に関してはからくりなのですよ」

 エマは何故部屋にからくりがあるのかわからなかった。エマの部屋にはそんな雰囲気がない。

「私はこの部屋に入口から入ってきていません」

 エマは怪訝そうな表情をした。部屋は一階だが窓は閉じたままだ。他にどこに出入口があるというのだろうか。ヘンリーは無表情のままだった。

「歩けるのでしたら、からくりを教えます」

「歩けます。教えて下さい」

 ヘンリーは立ち上がった。エマもベッドから降りる。彼は燭台を手にすると彼女の部屋の壁を押した。するとその部分の板が動き、彼女は目を見開く。一週間この部屋で過ごしたのに気付かなかった。そもそも壁を押すという発想など持ち合わせていない。彼はそのままその隙間に入っていくので、彼女も慌ててその後ろを追った。壁と思っていた場所は細い道となっており、その先から灯りが漏れている。彼は構わずそこへと入っていく。彼女も恐る恐る覗いてみるとそこにあったのはダブルベッドだった。

「え? どうなっているのですか?」

「この二部屋の間はただの壁ではなく、壁と壁の間に細い通路があるのです。その空間があるので音は聞こえ難いのです。何故こんなからくりがあるのかまでは知りませんが、ここを通れば部屋の行き来が出来ます」

「それなら、朝か夜にこの道を使ってここに来てもいいですか?」

「エマが望むならこのベッドを使ってくれて構いませんよ。私はここで寝る事も少ないですから」

 エマは悲しそうな表情を向けた。何故ダブルベッドで一人寂しく寝なければならないのか。そしてヘンリーは一体どこで寝ているというのか。

「睡眠はとっていますよ。このベッドは旦那様が結婚祝いだと勝手に押し付けてきた物で、正直寝難いのです。ですから私は向こうの部屋にあるソファーで寝ています」

「それはいけません。ソファーで寝るなんて身体が休まりません。このベッドはとても高級そうではないですか。絶対こちらの方が身体にいいですよ」

「しかし落ち着かないのです。旦那様は金銭感覚がしっかりしている方なのですが、これはやり過ぎなのです」

 エマはやり過ぎと言われてもわからなかったのでベッドに腰掛けてみた。とても弾力性があり、彼女は嬉しそうな表情を浮かべるとベッドに寝転がる。今まで感じた事のない弾力性に彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「ヘンリーさん、これはいいですよ。このようなベッドは初めてです。絶対ここで寝た方がいいですよ」

 無邪気な笑顔を浮かべるエマにヘンリーはため息を吐いた。

「若いというのはいいですね。素直に喜べるのですから」

 エマは起き上がって首を傾げた。彼女は酒場で働いてはいたが娼館が併設されていたわけではないのでそういう事情には通じていない。一方ヘンリーは三十二歳の大人であり、流石に高級ベッドを贈られる意味は聞かなくてもわかる。そのあからさまなのが嫌で彼は部屋に入らなくていいと彼女に言ってしまったわけだが、それで彼女を悩ませていたのだとわかり、やむなく案内したのである。

「ヘンリーさん、ここで一緒に寝ましょう、ね?」

 エマは笑顔である。ヘンリーはため息を吐いた。

「女性はそういう事を気軽に言ってはいけないと前に言いましたよね」

「何故ですか? 私達夫婦ですよね? ヘンリーさんが望むなら私は何でもします。ただよく知らないので教えて貰えると嬉しいです」

 エマははにかんだ。ヘンリーは目を閉じると項垂れた。

「そういうのは大丈夫です。話す時間ならきちんと作りますから」

「私が未経験だから面倒ですか? 誰かに教わった方がいいですか?」

「それだけは絶対にやめて下さい」

「それならヘンリーさんが教えてくれますか?」

 エマの瞳は輝いている。ヘンリーは困惑を隠しきれない。

「それは追々考えます。今夜は大人しくして下さい。熱がまた上がったら大変ですから」

「わかりました。これから宜しくお願いします」

 エマは笑った。それをヘンリーは無表情で頷いて応える。しかし彼女は見逃さなかった。彼の瞳が嬉しそうな事を。

「少し待っていて下さい。今日届いたのを持ってきますから」

 ヘンリーはそう言うと部屋を出て行った。エマの部屋は仕切りのない一部屋なのだが、この部屋は明らかに寝室であり、彼の部屋は執事なので他の使用人よりも大きいのかもしれない。そんな事を考えていると彼が箱を持って戻ってきた。

「出来上がったのですか?」

 エマは嬉しそうに微笑んだ。ヘンリーは頷くと箱を開ける。そこには結婚指輪が入っていた。彼が手を出したので彼女は左手をそこに置く。彼は指輪を薬指にはめた。採寸したので勿論丁度いい。彼女は笑顔で彼の手から箱を奪うと自分も手を差し出した。彼は困っている様子だったが、そんな事は気にせず彼女は彼の左手を掴むと薬指に指輪をはめる。

「ありがとうございます、ヘンリーさん。一生大切にしますね」

 ヘンリーは頷いた。無表情でも嬉しそうなのがエマにはわかったので微笑んだ。

「ヘンリーさん、これからここで一緒に寝ましょう? それで寝る前か朝起きた時に少し話す時間を下さい。夫婦生活は追々でいいので」

 楽しそうなエマに対し、ヘンリーは相変わらず無表情だ。

「ひとつ約束してくれますか?」

「何でしょうか」

「私は私事について他人に詮索されるのが苦手です。私との夫婦生活について誰にも言わないと約束して下さい。ただでさえ旦那様の視線が嫌なのに、これ以上事情を知っている人が増えるのは嫌なのです」

「約束します。私は言うなと言われる事に関しては絶対に漏らしません」

「そうですね。そこは信頼しています」

 ヘンリーの表情が柔らかくなる。エマは微笑んだ。彼は彼女の手から箱を取ると脇机に置いた。彼女は微笑んだままベッドに横になると、彼もベッドに横たわる。彼女は鼓動が高鳴るのを感じた。こんなに至近距離は初めてで、どうしたらいいのかわからない。しかも彼の表情が何故か無表情に戻らない。柔らかく微笑んでいる。

「ヘンリーさん、どうしたのですか?」

「どうもしませんが、何か?」

「表情が違います。見慣れないから緊張します」

「それなら瞳を閉じて早く眠りにつけばいいのですよ」

 エマは腑に落ちなかったがとりあえず瞳を閉じてみた。ヘンリーの手が彼女の頬に触れる。彼女が驚いて目を開けるより先に彼は彼女に口付けていた。目を開けた彼女は何が起こったのか一瞬理解出来なかったが、目の前にいる彼が微笑んでいるので自分の判断は間違っていないだろうと思えた。

「ヘンリーさん、こういう事は嫌なのかと思っていたのですけれど」

「私も男ですから好きな女性には触れたいのですよ」

 エマは嬉しくて微笑んだ。気持ちは通じたと思っていたが、やはり好きだと言葉で聞くと違う。

「好きにして下さい。ヘンリーさんになら何をされてもいいです」

「ですから少し口を慎みなさい。気持ちがはやるかもしれませんが、私はエマとゆっくり歩んでいきたいのです。エマはここまで突っ走ってきたでしょう?」

 エマは別に自分が突っ走っているとは思っていなかった。ただヘンリーの為に仕事を頑張っていただけで、それはきっと今後も変わらない。それでも彼がゆっくり歩みたいと言っているのだから、その期待に沿おうと彼女は思った。

「わかりました。ヘンリーさんについていきます」

 エマは微笑んだ。ヘンリーも柔らかく微笑んだ。

ヘンリーとエマの話はこれで終了です。

次からはおまけです。【内緒~】の裏話です。

勿論視点はヘンリーとエマです。

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