望まぬ命令と本心
それから暫くケインは顔を出さなかった。彼も本職が忙しい時は何日と来ない。そんな時は報告書を提出する事になっている。彼女はその報告書の端に彼を気遣う言葉を書いた。そもそも会いたいなどと書ける関係ではない。
「ジュリアどうした? 元気がないな」
「そのような事は。雨が続いているので少し憂鬱なだけですよ」
ケインが顔を出さなくなって三週間が過ぎていた。今まで間隔が空いても二週間くらいだった。もしかしたらこのまま会えないのかもしれないと彼女は不安になっていた。彼が会いに来てくれなければ、彼女には彼に会う術がない。
「夜の世界に生きていても雨は嫌なのかい?」
「勿論ですよ。雨雲より星空の方がいいではありませんか」
ジュリアはにこやかに微笑みながら空になったグラスにワインを注ぐ。
「確かに。雨は必要だが晴れている方がいい。うちの屋敷の庭もくすんで見えるし」
「ウォーグレイヴ公爵家のお庭はさぞかし素晴らしいのでしょうね」
「あの庭は国内一だと自負している。もしジュリアが望むなら庭師に推薦するよ」
「ありがとうございます」
ジュリアは微笑んだ。庭師として生活するのも悪くない気がした。
「ところでその後、その首飾りの男性との関係は進展した?」
「いえ。ここ三週間くらい会えていません。しつこく求婚したので、愛想を尽かされたのかもしれないのですが」
「何をしているのだろうな、その男は」
「多分仕事が忙しいのだと思うのですが、私は彼の事をあまり知らないのです。自分の仕事内容を軽く話す男性は好みではないのですが」
ジュリアの言葉にウォーグレイヴは笑う。
「確かに口の軽い男は信用出来ないな。だからと言って何も話さないのもどうかと思うが」
「いいのです。本当は彼が忙しい時に寄り添いたいのですが、それを望まれていないのなら黙って待っているしかありません」
ジュリアは切なそうに微笑んだ。
「じれったいな。もういっそ結婚の書類に強引に署名させたらどうだ? 私が立会人の所に署名して提出してもいい」
「そのような事は。お言葉だけありがたく頂戴致します」
ジュリアは慌てた。いくら何でも公爵当主に立会人になってもらうなど恐れ多い。そもそもケインに署名をさせるなど、どう考えても無理のように思えた。
「そうか? 遠慮しなくてもいい。私の権力が及ぶ範囲なら協力する」
ウォーグレイヴは右口角を少し上げた。公爵家当主ならジュリアが想像出来ないほどの権力を持っているだろう。しかしそれでは意味がない。ケインから求められないのに形だけ整えるのは今よりも辛い気がした。
「そのお言葉だけで十分です」
ジュリアはウォーグレイヴの機嫌を損なわないように気を付けながら微笑んだ。
翌日、ケインがジュリアの部屋を訪れた。彼は少し痩せたように見える。
「大丈夫ですか? よかったら仮眠でもされますか?」
「いいえ、今日はすぐに帰りますから」
ジュリアは寂しそうな表情を浮かべた後、淡々と仕事の報告をする。それをケインも淡々と聞いていた。報告を聞き終えると彼は小さくため息を吐く。彼女は彼が余程疲れているのだろうとは思ったが、だからと言って何かしてあげる事が浮かばない。彼女は料理も出来ないし、マッサージも出来ない。しいて言うなら黙る事だけだった。
「今日は大人しいですね」
「私はケインさんが好きなのですから、精神的に追い込む事はしません」
「ジュリア、私の主に見当は付きましたか?」
突然の問いの意味がわからず、ジュリアは怪訝そうな表情を浮かべた。
「その表情は見当がついていませんね。そうですか、偶然ですか」
ケインはまたひとつため息を吐いた。
「私は主の命令に背く事は出来ません。それなのに昨日困る命令を受けました。ジュリアを片思いの相手と結婚させろと」
ジュリアはケインを見つめた。彼は無表情だが瞳の奥の困惑は隠し切れていない。彼女が身の上話をした相手は一人しかいない。彼女は驚きを隠せなかった。
「まさか、ウォーグレイヴ閣下の執事だったのですか?」
「そのまさかです。主は以前から私に結婚を勧めてはいたのですが、適当にかわしているうちにこの命令です。しかも相手が私とわかっていて私には逃げ場がありません」
外堀が埋められたのならケインにとってこれほど面白くない話はないだろう。ジュリアも正直喜べない。昨日の言葉がウォーグレイヴに伝わらなかった事に彼女は落胆した。
「私がウォーグレイヴ閣下にこの件を水に流すようお願いすればいいのですね?」
ジュリアの申し出にケインは意外そうな表情をした。彼の中で彼女がこう言うだろうとは予測していなかったのだろう。
「私はウォーグレイヴ閣下には遠慮したのです。お言葉だけで十分ですと。まさかこのような事になるなんて思っていませんでした。私はケインさんに必要とされたいのです。求められてもいないのに結婚だなんて、それでは私も幸せになれません」
ここで断ればきっと永遠にケインと結婚出来ない。ジュリアもそれはわかっていたが、このまま結婚する事に納得出来なかった。そしてこれを断ればウォーグレイヴ公爵家で雇ってもらえる話もなくなってしまうだろう。この酒場でももう働けないかもしれない。彼女は自分の人生が積んだ気がしたが、どうせ子爵令嬢でなくなった時一度全てを失ったのだ。また失ったとしても何とかなるかもしれないと思い込もうと必死だった。
「ジュリアはそれでいいのですか?」
「他に道がないではありませんか。ケインさんは私を望んでくれないのでしょう?」
ジュリアはテーブルに伏せる。昂る感情を上手く制御出来なかった。このままケインが出ていけばいい、そう思ったのだがその気配は一向にしなかった。彼女は暫く伏せていたが、何とか心を落ち着かせ袖で涙を拭ってから顔を上げる。彼は何故か優しい表情を浮かべていた。
「私はジュリアの事を凄いと思っていますよ。子爵令嬢の肩書を失ったのに、自分の境遇を悲観せずここで働いた事。誰よりも上手く酒を注げるようになるまで努力した事。私がいくら冷たく対応しても挫けなかった事」
ジュリアは力なく首を横に振った。そんな所を褒められた所で今の彼女には何の意味もない。
「あれだけ言われて心が動かない男性などいませんよ。私にも心はあるのですから」
ジュリアはまだ赤い瞳をケインに向けた。彼は真剣な表情を浮かべている。
「十四歳も年下の女性に心を奪われるなど、いい歳をした大人としては失格です。ジュリアを幸せにしてくれるいい人がいないかと思う一方で、本当はボガード様を勧めるのも嫌でした。私は所詮執事です。この店に出入りする人達より稼ぎはありませんから、ジュリアに満足な暮らしをさせられません。それに自分の気持ちを言うのも非常に苦手です。貴女に側にいて欲しいと思っていますが、貴女を幸せに出来るかと言われると自信はありません。こんな男の所に嫁いで欲しいなど、口が裂けても言えないと意地になっているのを主に見透かされた、そんな情けない男です。それでもよければ私と結婚しませんか?」
ジュリアは涙が流れるのを止められなかった。言葉も発する事が出来ず頷くのが精一杯だった。ケインはハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取り、落ち着くまで両目にハンカチを押し当てていた。
「ケインさん、本当にいいのですか?」
「それはこちらの台詞です。仕事が忙しいのも部屋が別々と言うのも本当ですから」
ジュリアは怪訝そうにケインを見た。彼が嘘を言っているようには見えない。使用人寮と言っていたから別々なのは仕方がないのかもしれない。主の呼び出しにすぐ駆けつけるのが執事であり、屋敷の外で住まいを構えるのは一般的ではない。
「もしかして、今以上に会えなくなるのですか?」
「それは流石にないと思いますが、貴女の仕事次第でしょうね。家政婦長に相談をしますが、今侍女は空きがないのですよ」
「侍女でなくてもいいです。何でも覚えます。調理場でも洗濯でも」
ジュリアの言葉にケインは無表情に首を振る。
「それはさせません。本来なら仕事をしなくてもいいのですが、使用人寮を使う手前それは肩身が狭く感じるでしょうし」
「その辺はケインさんに任せます」
「そのケインというのも出来たらやめて欲しいです。偽名ではないのですが屋敷では誰もそう呼びませんから」
ジュリアは首を傾げた。偽名でないのに呼ばないという意味がわからなかった。
「私の名はヘンリー・ケインです。ケイン伯爵家の次男で今はウォーグレイヴ公爵家当主アルフレッド様の執事をしています。もう家を出ていますから家門名では呼ばないで下さい。わかりましたか、エマ」
ジュリアは頷く。久々に本名で呼ばれた事もとても嬉しかった。今まで親から貰った名前を封印して源氏名ジュリアで生活してきたが、これからはジュリアを封印して本名のエマとして生活出来るのだ。彼女はこれからの生活に期待して胸を躍らせた。