結婚の条件
「ジュリア。今日は一番いいワインを開けてくれないか?」
「かしこまりました。少々御待ち下さい」
ジュリアは一礼すると店内で一番高級なワインを手にした。客の中には支払いを渋ったり踏み倒そうとしたりどうしようもない者がいるが、声を掛けてきたウォーグレイヴはとても羽振りがいいので安心して高級ワインを出せる。
ジュリアはウォーグレイヴの横に腰掛けてワインを手際よく注ぐ。公爵家ならこのワインを買う事くらい何ら問題はない。ただ家に人を呼ぶのが好きではないのか、打ち合わせなどでよくこの店を利用していた。しかし今日は珍しく一人である。
ウォーグレイヴはグラスを手に取ると回して香りを楽しみ、ゆっくり口に運んだ。
「うん、美味しい」
「今日は珍しいですね、御一人なんて」
「自分に祝杯をあげたくてね。それにはジュリアの注いだワインがよかったんだ」
「ありがとうございます。一体何のお祝いですか?」
「長女の結婚が決まった。まだあと二人いるがそれもある程度固まった」
「それはおめでとうございます」
ジュリアは微笑んだ。公爵家の令嬢となると逆に嫁入りが難しい。この国には公爵家が三家しかなく、何代も同じ家に嫁がせるわけにはいかない。かといって王家に嫁ぐのもまた難しく侯爵家・伯爵家に嫁ぐ事になるのだが、その長男を狙うとなるとなかなかの倍率になる。上流貴族にとっては息子よりも娘の相手探しの方が大変なのである。
「ありがとう。これで仕事に専念出来る」
「でも確か御子息もいらっしゃいましたよね?」
「あぁ、あいつには好きな女性を選ばせるからいい」
「好きな女性? それで宜しいのですか?」
ジュリアは不思議そうにウォーグレイヴを見つめた。公爵家跡取りの嫁ともなれば確かに申し込みは多いだろうから選ぶ立場になれるだろうが、それでも公爵家なら政略結婚が一般的である。
「それがあいつの母親の望みだ。それくらいは叶えてやりたい」
そう言ってウォーグレイヴはワインを飲み干した。グラスをテーブルに置いてジュリアの前に差し出したので二杯目を注ぐ。
「そうでしたか。素敵な方と巡り合えるといいですね」
「ジュリアはどうなんだ? この店の客の何人かには口説かれただろう?」
「私には片思いしている方がいるのです。その方には全然相手をされないのですけれど諦められなくて。ですから私はきっと一生独身です」
本来なら客相手に自分の身の上話などしない。しかしジュリアはウォーグレイヴに好感を抱いていた。彼は個室で打ち合わせる時、政治的な話ばかりだが賄賂には無縁だった。誠実そうな雰囲気が彼女の口を少し軽くしていた。
「その相手は見る目がないな」
「えぇ。本当に」
「もしかしてその首飾りの相手なのか?」
ウォーグレイヴはジュリアの首飾りに視線をやった。それはケインに貰った首飾りだ。彼女は普段は身に着けず、店に出る時だけ着けていた。
「えぇ。ですが意味はない物らしくて。悔しいので店の中でだけ着けているのです」
「その男の前では着けないのか?」
ウォーグレイヴの問いかけにジュリアは微笑んで頷いた。彼女のせめてもの抵抗だったが、それがケインに伝わっているとは思えない。
「そうか。もしその男に愛想を尽かしたら私に相談しなさい。うちの屋敷で雇おう」
「そこは愛妾になれではないのですね」
「悪いが私は愚息の母親を愛しているのでね」
ウォーグレイヴは微笑んだ。ジュリアも微笑む。
「その方が羨ましいです。私もいつかそのように想って貰えたらどれだけ幸せでしょうか」
「素直になれない男もいる。ジュリアが愛した男はそういう類かもしれない」
ウォーグレイヴはそう言うとワインを口に運ぶ。ジュリアは切なげに微笑んだ。
「ありがとうございます。お客様に慰めて貰うなんて私もまだまだですね」
「人の話ばかり聞いているから、たまには自分の話をしたいだろう? 私で良かったらいつでも聞くよ。あまり暇はないのだけれどね」
「えぇ。ウォーグレイヴ閣下がお忙しい事は存じております。その言葉だけで十分です」
ジュリアは微笑んだ。少し気持ちが楽になった気がしていた。
「ウォーグレイヴ閣下は素敵な方ですね」
「何ですか、唐突に」
いつもの報告を終えた後、ジュリアはケインに話しかけた。
「私がここで務めるのが嫌になったら雇ってくれると仰ってくれました。きっと素敵なお屋敷なのでしょうね」
「公爵家ですからそれなりでしょう。公爵家で働きたいのですか?」
「それも悪くないかなと思います。いつまでも日陰の身というのも寂しいですから」
酒場で働いているので、ジュリアの生活は昼夜逆転している。昼過ぎに起きて準備をして夕方から店に出て、深夜に店を閉めて後片付けをすると寝るのは明け方の事もある。しかし彼女の部屋は地下にあるので明け方からでも問題なく眠れる。ケインが訪ねてくるのは大抵店に出る前の時間だった。
「ジュリアがこの店をやめたいのでしたら私は止めません」
ジュリアはやはり引き止めてはくれないのだと内心落胆した。公爵家に雇われれば二度と会えない。他家の使用人と交流などありえないのである。
「私はケインさんにとって従業員としても価値はないのですか」
「勿論この店にいてくれれば助かりますが、ジュリアの人生はジュリアの物です。私が口を挟む権利はありません」
「ケインさんの優しさは私にはとても冷たいです」
結婚してくれないのに話しかければこうして対応してくれる。しかしそれは決して彼女の望む答えではない。
「私は優しくなどありません。常に冷たいはずですよ」
「つまり私の事を好きになってくれないのですね」
ジュリアの問いにケインは応えなかった。ただ無表情で彼女を見据えている。彼女は視線を伏せた。
「本当に冷たいのでしたら、私を傷付けてはくれませんか?」
「それはお断りします」
「酷い人ですね。私の心を捉えたまま、受け入れずに逃げるだけなんて」
「最初に不毛だと伝えたはずです」
ケインの声色は淡々としていた。本当に不毛だとジュリアは思った。彼女がいくら水を撒こうとも肥料を与えても、愛情の芽は一向に出てこない。
「私の何がいけないのですか? 教えて下さい。ただ結婚出来ないだけでは納得出来ません。もっと明確な、ケインさんを諦められる理由を下さい」
ジュリアは涙を湛え、それでも流れないように必死に耐えながらケインを睨んだ。彼はそっとハンカチを彼女に差し出す。彼女はそれを受け取らず自分の袖で涙を拭った。
「ジュリアには幸せになって欲しいのです。ですが私は貴女を幸せに出来ない、ただそれだけです」
「どうしてですか? 何故幸せに出来ないと断言出来るのですか?」
「私は昔から表情が希薄です。人との意思疎通がとても苦手です。三十歳を過ぎていますから今更性格は変わりません。それに本職も忙しく決して貴女と共に過ごせる時間は多くありません」
ジュリアはケインを見つめた。彼は無表情だがどこか苦しそうだ。もしかしたら彼は自分を好きなのかもしれない、そんな風に彼女には思えた。
「それでも構いません。仕事が忙しい事を責めたりしません。何もしてくれなくてもいいです。だから私と結婚して下さい」
ジュリアは真剣な眼差しをケインに向ける。今押したらいける、そんな気がした。それを彼は感じたのか小さなため息を吐く。
「ですから幸せに出来ないと言っているではありませんか」
「私がケインさんを幸せにしてみせます」
強気なジュリアの言葉にケインは笑った。彼女は驚く。彼が笑う所など初めて見たのだ。
「私と結婚するのなら私の本職の場所で暮らしてもらう必要があります。そこの使用人寮に入って貰う事になりますが、部屋はあくまでも別々です。それでも宜しいですか?」
ケインの言葉にジュリアは瞬きを数回した。言われた意味を考えてみたものの、どうしても上手く理解出来なかった。
「夫婦生活はないという事ですか?」
「期待されても困ります。私は本当に独身でいいのですから」
ジュリアは長い戦いにやっと終止符を打てたと思っていたのに、それが何の意味も持たない気がしてきた。結婚という形を取っただけで彼女の職場が変わる、ただそれだけのようにしか聞こえない。相手が相手だけに甘い生活などは期待していなかったが、別々の部屋で暮らす事に何の意味があるのか、彼女にはわからなかった。
「ですから言ったではないですか。幸せになれないと。諦めはつきましたか?」
ケインは穏やかな表情をしている。ジュリアは悔しかった。ここまでの流れは諦めさせる為のやり取りだったのだ。ここで諦めたらもう終わり、それだけは嫌だった。
「いいえ。それでも構いません。宜しくお願いします」
「この条件で即決してはいけません。よく考えて下さい。ジュリアにとっていい条件ではありません」
そう言いながらケインは時計に視線をやる。
「そろそろ準備しないといけないでしょうから失礼します」
ケインは淡々とそう言うと部屋を出て行った。ジュリアは暫く彼が出て行った扉を見つめながら考える。自分にとって幸せとは何だろうか。彼の提示した条件で一生生活出来るだろうか。そしてその条件で彼を幸せに出来るだろうか。