その3前編 39話:新しい侍女 裏話
「エマ、何か異変は感じていませんか」
「異変ですか? 特に何も」
「本当に何も感じていないのですか?」
ヘンリーに詰め寄られエマは訝しげな表情を浮かべる。
「何の話ですか? 私は至って健康ですよ」
「私が言っているのは妊娠しているのではないですか、という事です」
ヘンリーの言葉にエマはきょとんとした。しかしすぐ思い当たる事があり、彼女は慌てて思考を巡らす。
「そう言えば三ヶ月、もう四ヶ月? 確かに来ていないですね。ですがいわゆる悪阻もなかったですし、ただ遅れているだけだと思います」
「それならそれで問題だと思います。とにかく一度病院へ行ってきなさい」
エマは今までも三ヶ月くらい遅れる事は何度かあったのだが、あまりにもヘンリーの無表情の奥の瞳が怖かったので、渋々次の休みの日に病院へ行く事にした。
「ヘンリーさん、何故わかったのですか?」
病院で診て貰った日の夜、エマはヘンリーの部屋にいた。
「つまり妊娠していたのですか?」
「はい。四ヶ月だそうです。ですから何故――」
エマの言葉を遮るようにヘンリーは彼女を抱きしめる。彼女はあまりにも彼らしくない行動に驚き、目をぱちくりさせた。
「エマ、もう仕事はいいです。新しい侍女をすぐに手配しますから貴女はゆっくりしなさい」
「私は今まで大丈夫でしたから、仕事は続けられます」
ヘンリーは抱きしめていた腕を緩めエマの肩を掴むと、真剣な表情を彼女に向けた。
「六年でやっと授かった命です。大切にして下さい」
エマはヘンリーのあまりの真剣さに頷く事しか出来なかった。確かに子供には恵まれていなかったが、彼女は子供がいなくても二人で仲良く過ごせればそれでいいと思っていた。まさか彼がこんなにも子供を望んでいたなどとは思ってもいなかったのだ。
「ですが私は部屋でゆっくりすると言うのも気が滅入るので、適度に仕事させて欲しいのですけれども」
「わかりました。ではお茶会講座だけ続けて下さい。それなら身体をあまり動かしませんし、話すと言うのはいい気分転換にでもなるでしょうから」
「お茶会講座は仕事らしい仕事ではないのですけれども」
エマの反論を認めないかのようにヘンリーの眼差しは威圧的だ。彼女は仕方なく彼の言う事を聞くしかなかった。
「ですからメアリー、エマの代わりに仕事を宜しく頼みます」
「急にそのような事を言われても困ります。新人の侍女の教育もあって、私は大忙しではないですか。勿論お給料は上乗せして下さるのでしょうね?」
「そのような事があるわけないでしょう。サラ様はお嬢様方より手がかからない事は知っていますから」
ヘンリーに無表情でそう言われ、メアリーは黙るしかなかった。確かにクリフォードの異母姉達に仕えていた時よりも、サラに仕えている方が楽だった。気になるのは朝起こす時にクリフォードがサラに絡んでいる甘いやり取りが勝手に耳に入ってくる事だけで、お茶会講座と銘打って好きな紅茶も飲めるし、夜は着替えを運べば終わりだし、正直一人でも問題なかった。
「新しい侍女の手配は既に終わっています。明日から来てもらう事になりました。お茶会講座の時間に紹介して頂き、そこからエマと交代で入って頂きます」
「エマを贔屓し過ぎじゃないですか? 私が妊娠した時もこれくらい優遇してもらえると思っていいのですか?」
「メアリーは独身でしょう? ですがその時が来たら考えます」
ヘンリーは相変わらず無表情だ。メアリーは彼が苦手だった。何を考えているのかわからないし、表情が一切変わらない。エマに言わせると目を見ればわかるらしいのだが、それは全く理解出来なかった。
部屋をノックする音がして、部屋にエマが入ってきた。彼女は大きな洗濯籠を抱えていた。
「そろそろ終わりましたか? 仕事を手伝って欲しいのですけれど」
「ですからエマ。重い物は持たなくていいと言ったではありませんか」
ヘンリーは慌てて立ち上がるとエマの持っていた洗濯籠を取り上げた。
「乾いているものなので軽いですよ。心配し過ぎです」
「ですが躓いたら大変です。こういう仕事はメアリーに全て任せなさい」
メアリーは驚いていた。ヘンリーが慌てている所など初めて見たのだ。しかもあの無表情男がまさかエマに対してこんなに甘いとは知らなかった。メアリーがいくら聞いてもエマがはぐらかすので実は仲が良くないのではないかと疑っていたが、ヘンリーの威厳を保つ為にあえて話さなかったのだと納得した。
「ヘンリーさん。メアリーの前です。落ち着いて下さい」
ヘンリーははっとして咳払いを一つすると無表情に戻る。しかしメアリーは見てしまった。彼女はにやりと彼を見る。
「わかりました。私もエマには健康な子供を産んで欲しいので協力します。そう言えば欲しい茶葉があるのです。それは購入して頂けますか?」
「サラ様の為になるものでしたら構いません。旦那様から許可を貰っています」
「ありがとうございます」
紅茶はサラの為に淹れるのだが、お茶会講座の時間は自分も飲める。それ故メアリーは各地の茶葉を取り寄せて自分も楽しんでいた。勿論、サラが美味しく飲んでくれるので、よりよい紅茶を提供する為の研究でもある。
「ところで、新しい侍女とは誰でしょう?」
「アリシアと言う子爵令嬢です」
「子爵令嬢?」
エマが驚きの声を上げる。サラは男爵家の出身だ。いくら公爵家に嫁いだとしても自分より身分の低い者の所に娘を侍女として送り出すなど、貴族ならまずありえない。
「はい。サラ様の評判は上々ですからすぐに見つかりました。クリフォード様は相変わらずなのですけれどね」
ヘンリーは無表情だったが言葉はどこか嫌味っぽかった。クリフォードは一応仕事を淡々と真面目にこなしているようなのだが、あくまでもそれだけで飛び抜けて何かが出来る訳ではない。だから別段いい噂など流れるはずもない。一方サラは公爵家の嫁として他家の夫人達と積極的に交流をしており、聡明な彼女の存在はその女性達の中でも評判になっていた。
「まだ結婚して半年ですもの。気長に行きましょう。クリフォード様の機嫌はずっといいですし」
「機嫌よすぎですよ。朝のあのやり取り、その子爵令嬢に聞かせて大丈夫ですか」
メアリーの疑問にエマは困った表情を向ける。子爵家から侍女として来るのなら十五歳前後だろう。流石に少し刺激が強いかもしれない。
「事を始めなければ大丈夫だと思います。始めなければ……」
「そうね。サラ様は聞こえているとわかっていても抑えられないのでしょう。聞いているこっちが恥ずかしくて、私はそういう時は一旦部屋に戻ります。お湯の準備を兼ねて」
エマは頷いた。クリフォードとサラの仲はとてもいい。一見サラが冷たくあしらっているように感じるが、サラもまた心からクリフォードを愛している。それは言葉の端々やふとした態度、そしてその聞こえてくる声で十分にわかっていた。しかしこの事実を知っているのはこの二人だけである。それを知らないヘンリーは無表情ながら、どこか納得出来ないような雰囲気を醸し出していた。
「すみません。クリフォード様が毎朝サラ様に迫っているのですよ。サラ様は抵抗されているのですけれど、たまに負けて抱かれてしまうのです」
ヘンリーの表情が明らかに侮蔑の色に染まった。彼には嫌がる女性を無理矢理抱くという発想がない。しかしサラとクリフォードに関しては、嫌と言いながらもサラは本気で嫌がっているわけではないので、エマとメアリーはあえて聞き流しているのである。
「それは是非事が始まらないように対策を考えて下さい。子爵令嬢にそれは聞かせられません。最悪サラ様の評判が落ちてしまいますから」
「対策と言われましてもクリフォード様の問題なので出来ればマシューに言って頂けませんか?」
「マシューはこの手の話は期待出来ないと知っているでしょう?」
メアリーは小さくため息を吐いて頷いた。マシューは独身であり、女性の影もない。主の夫婦生活について意見出来るとは到底思えなかった。
「サラ様に頑張って頂くしかないのですね。サラ様はもう十分頑張っているはずなのですけれど」
「それはクリフォード様に嫁いでしまったが故の宿命として割り切って頂くしかありません」
ヘンリーは無表情だ。メアリーは心の底からサラに同情した。