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中編

 パブの客層はほとんどが日本人のようだった。

 一般的なバーよりも少々騒がしく、音楽が流れているかどうかわからないほどだ。ほとんどのお客さんはお酒や料理と一緒にお喋りも楽しんでいるようで、あちらこちらの席でいい笑顔が覗いていた。


 ところでザッカリーさんが言うには、パブの注文はキャッシュオンデリバリー、つまり先払い方式らしい。

 カウンターで注文をしてお会計を済ませたら、ドリンクはその場で手渡し。フードは後から席まで運んできてもらえる、とのことだった。お替わりが欲しくなったらその都度カウンターまで出向くというのが面白い。

「まずは俺が注文してくるよ」

 説明を終えたザッカリーさんがいち早く席を立つ。

「あ、私も行きます」

 私も慌てて腰を浮かせたけど、彼はそれを手振りで制した。

「初めてなんだろ? まずは任せてくれ。シェパーズパイと、飲み物は何がいい?」

 スマートに、しかし有無を言わさぬ調子で畳みかけられ、私は恐縮する。

 とは言えここで遠慮し続けるのはそれこそスマートじゃない。後でごちそうし返せばいいと思い直し、ひとまず答えた。

「飲み物はお任せします。初めてで、何が合うのかわからなくて」

「わかった。エールは大丈夫?」

「はい」

「じゃあ飲みやすいのを頼んでくるよ」

 そう言うが早いか、ザッカリーさんはカウンターへと歩いていく。

 混み合う店内は立ち歩く人もちらほらいたけど、慣れた様子ですり抜けて、ウェズリーさんが待つカウンターで注文を始めたようだ。


 出迎えたウェズリーさんは冷やかすような笑みを浮かべていて、それにザッカリーさんがしかめっつらで応じる。二人はいくつか言葉を交わし合った後、ウェズリーさんは肩を揺らして笑い出し、ザッカリーさんは渋々と言った様子で財布を開けていた。

 どうやらお二人はとても親しい間柄のようだ。

 会話は聞こえなかったし、そもそも英語か日本語かすら読み取れなかったけど、簡単に察しがついた。


 やがてザッカリーさんが、エールを注いだグラスを二つ運んできた。

 その後に続くようにウェズリーさんが、トレイを抱えてやってくる。トレイの上には白いグラタン皿が二つ載せられていて、これが噂のシェパーズパイだろうか。

「注文したばかりだぞ、早いな」

 ザッカリーさんの言葉に、ウェズリーさんは勝ち誇った顔で応じる。

「ザックなら絶対にシェパーズパイを頼むからな、顔を見てすぐ焼いておいた」

「頼まなかったらどうする気だったんだ……」

「その時は『サービスです』って出すつもりだった」

 用意周到なオーナーはそう言い切ってから、恭しくお辞儀をした。

「それではお二人とも、楽しい時間をお過ごしください」

 そしてウェズリーさんが立ち去った後、ザッカリーさんが大げさに溜息をつく。

「日本語でもお喋りな奴だろ?」

「ザッカリーさんと同じくらい流暢ですね」

 もしかすると、ウェズリーさんも日本に来て長いんだろうか。

 私の疑問にザッカリーさんは笑って答える。

「あいつもずっと昔から、こっちに住んでるからな」

「やっぱり。長いお付き合いなんですか?」

 どうもザッカリーさんは常連客のようだし、顔を見たらすぐに焼いておいてもらうくらいシェパーズパイがお好きだと知られてもいるようだ。

「俺と? ああ、そうだな」

 ザッカリーさんはそこで、何かを思い出すような間を置いた。

 それからふと気づき、テーブルを見下ろす。

「せっかくの焼きたてだ。まずは食べようか、泉さん」


 彼の言葉通り、シェパーズパイはテーブルの上で湯気を立てていた。

 見た目はやはり、パイというよりグラタンだ。おろしたチーズがたっぷりとかけられていて、こんがりといい色の焼き目がついている。

 乾杯を済ませた後、私は手元に置かれたフォークを手に取る。そして金色に輝く焼き目を割って、シェパーズパイを掬い上げてみた。

 説明を受けていた通り、パイの中身はマッシュポテトとひき肉の二層になっていた。マッシュポテトは真っ白くなめらかで、ひき肉は玉ねぎと一緒に炒めて味をつけてあるようだ。


「いただきます」

 ザッカリーさんが見守る中、私はシェパーズパイの最初のひと掬いを口に運ぶ。

 ふうふうと息を吹きかけてからまず一口。

 見た目の通り、マッシュポテトは驚くほどなめらかだった。雪みたいに口の中でほろっと溶けていく。ラムのひき肉は独特の風味があったけど、トマトソースのシンプルな味付けともあいまってマッシュポテトにとてもよく合う。ふんだんにかけられたチェダーチーズも風味がよく、一口目で実感した。

「美味しい!」

「……だろ?」

 途端にザッカリーさんが得意げな顔をする。

「そうだよ、美味しいんだ。シェパーズパイは自慢の逸品だ」

「とても素晴らしいです。これがザッカリーさんの故郷の味なんですね」

 食べごたえもあるし、濃いめの味付けがエールビールともよく合う。焼きたてを頬張ると外の寒さも忘れそうなほど幸せな気分になれた。

「そう、この味」

 ザッカリーさんもひと匙口に運んで、満足そうに呟く。

「懐かしいな。子供の頃はよく食べてたよ」

 それから匙を進めつつ、ぽつぽつと語ってくれた。

「家族が作ってくれるんだけどな、オーブンの電源コードを入れ忘れるんだ。"will be ready soon."って言うから音が鳴るまで待ってたら、オーブンを開けた時に出てきたのは溶けてないチーズの焼けてないシェパーズパイだったってことがよくあった」

「お腹を空かせて待ってたのにですか?」

「ああ。そこから更に待たされて、飢え死にしそうだった」

 おどけた顔で肩を竦めるザッカリーさんに、私は声を上げて笑ってしまう。

 そのエピソードが面白かったのもあったけど、彼の子供時代を想像したらさぞかし可愛かっただろうと思ったからだ。今の王子様然とした姿からは、焼けてないシェパーズパイで落胆する姿はちっとも想像がつかなかった。


 熱々のシェパーズパイを味わううち、先にグラスが空になった。

 そこで私は飲み物を買いに行くことにした。

「ザッカリーさんはお替わり要りますか?」

 彼のグラスも残りわずかだ。それを見て尋ねると、ザッカリーさんは頷いた。

「頼むよ。何でもいいからって、ウェズに言って作らせてくれ」

「わかりました」

 それで私は財布を手に、ウェズリーさんがいるカウンターまで向かう。

 店内は相変わらずの盛況ぶりで、注文までには列に並んで待つ必要があった。ようやく私の番が来ると、ウェズリーさんは青い目をにっこりと細めた。

「ようこそ、イズミさん。ご注文は?」

「飲み物をお願いします。ザッカリーさんは何でもいいから、って言ってました」

 私はまずザッカリーさんの注文を伝え、次に自分の飲み物を頼もうとメニューを見る。

 だけどエールの種類だけでもたくさんで、おまけに各種カクテルなども揃っているとなると、一つに絞るのが難しかった。

「私も、何かお薦めがあればそれを……」

 そう告げるとウェズリーさんは慣れた様子で応じてくれた。

「シェパーズパイに合うお酒? だったらいいのがある。イズミさん、紅茶は好き?」

「はい、よく飲みます」

「なら持っていくから、席で待ってて」

 そう言って片目をつむる悪戯っぽい顔が、どことなくザッカリーさんに似ている気がした。

 髪の色も目の色も同じだからだろうか。


 やがてウェズリーさんは私たちの席に飲み物を運んできてくれた。

「ザックはいつものロンドンバックだ」

 ザッカリーさんの前に置かれたグラスには、炭酸の泡が弾けるカクテルが注がれている。

 そして私のグラスには、アイスティーそのものの色のお酒に、くし切りのレモンと氷が浮かんでいた。

「イズミさんにはロンドンアイスティー。紅茶のお酒だよ」

 聞いたことのない名前のお酒だ。

 でも、似たような名前のカクテルは知っている。

「ロングアイランドアイスティーなら聞いたことがあります」

 私が言うと、ウェズリーさんも心得た様子で笑んだ。

「あれは紅茶に似せたお酒だね。ちなみにアルコール度数が高いから、ザックが飲ませようとしたら断らなきゃ駄目だよ」

「そんなことしない」

 ぶすっと、ザッカリーさんが口を挟む。

 その拗ねた様子が珍しくて、私はつい吹き出してしまった。

「でもロンドンアイスティーは正真正銘、紅茶のお酒だ。シェパーズパイにはぴったりだし、他の料理にも合うよ」

 説明を終えるとウェズリーさんは、先程と同じようにお辞儀をしてカウンターへ戻っていった。

 途端にザッカリーさんが低く唸る。

「あいつ、俺のことをどういう男だと思ってるんだ」

 不満げに言われるまでもなく、私はザッカリーさんが紳士的な上司であることを知っている。

 ウェズリーさんはきっと、それを見越した上でからかっているんだろう。

「すごく仲がいいんですね」

 私はそう言って、ロンドンアイスティーに口をつけた。

 微かな炭酸と共にしっかりと紅茶の香り、そして味がする。口当たりがさわやかな風味のお酒だった。これは確かにシェパーズパイと相性がよさそうで、それにとても美味しい。

「仲良く見える?」

 ザッカリーさんが聞き返してきて、私は顎を引いた。

「はい。とても大切なお客様って感じです」

「そうか……いや、そうなんだろうな」

 彼は腑に落ちたような顔をした後、すぐにまた顔を顰める。

「でも、女性を連れてきた客にあの言いようはないだろ? 酒場の店主ともあろう男が」

 少しむきになったその口調からは、ウェズリーさんに対する親しみと信頼が窺えた。


 もしかしたら普段から、あんなふうにからかわれているんだろうか。

 それとも今日は女性連れだから?


 何にせよ私はまた笑ってしまって、ザッカリーさんに怪訝な顔をされた。

「泉さんも、どうしてそこで笑うかな」

「すみません。何だかすごく楽しくて……」

 シェパーズパイもロンドンアイスティーも美味しいし、賑やかで陽気なパブの雰囲気も楽しい。

 それに、見たことのない表情を見せるザッカリーさんがいる。

 全部がとても楽しくて、私はすっかり浮かれていた。笑い上戸のつもりはなかったけど、指摘されれば余計におかしくなって声を上げて笑ってしまった。

「別にザッカリーさんがそういう人だって思ってるわけじゃないですよ」

「本当に? そんなに笑ってるのに?」

 恨めしそうに軽く睨まれたけど、笑っているのは気分がいいせいだ。

「ザッカリーさんこそ、随分むきになるんですね」

「なってない。泉さんがあんまり笑うから、調子が狂うだけだ」

「私は楽しいから笑ってるんです」

 シェパーズパイのお皿がもうじき空になってしまうのが惜しい。

 でもお腹はいっぱいで、気分だって幸せで満たされてて、おまけに目の前にいる好きな人は少年みたいな可愛い表情をしていて。

「こんなに楽しい場所なんですね、パブって!」

 私が上機嫌で告げた時、ザッカリーさんは驚いたようだ。

 青い目を大きく見開き、唇も微かに開いて、しばらくの間動きを止めていた。

 だけどその目がやがてゆっくりと細められ、唇も優しく笑んで、柔らかい顔つきになった彼は言う。

「……泉さんって、こんなに笑う人だったんだな」


 多分、酔いのせいでもあったと思う。

 それでも私はその夜、たくさん笑って、お酒も飲んで、いい気分で家に帰った。

 お店では笑顔のウェズリーさんに見送られ、ザッカリーさんは私を駅まで送り届けてくれて、別れ際にはお礼もちゃんと言った。


 翌日、私は酔いを引きずらずに出勤した。

 ただ体調はさておき、内心はとても焦っていた。

「おはよう、泉さん」

 オフィスでザッカリーさんとお会いした時は、心臓が跳ねるかと思った。

「お、おはようございます。昨夜はごちそうさまでした」

 そして間髪入れずに続ける。

「それと、すみません。昨夜はかなり酔っ払ってたみたいで……」

 失礼なことを言ったような気もするし、それ以前に上司の前でげらげら笑いすぎた。

 あんなに拗ねてるザッカリーさんを笑うなんて、失礼にも程がある。

「どうして謝る? 楽しかったよ」

 などと、ザッカリーさんはいつものように優しく言ってくれたけど。

「いえ、普段はあんなに羽目外さないんです!」

「確かに、飲み会でもあんな泉さんは見たことないな」

 憧れの上司の前では常に真面目な部下でありたい。

 そう思う私は、職場の飲み会でも真面目な態度を貫き通してきたつもりだった。

 それが昨夜は気が緩んだのかどうか、すっかり酔っ払ってしまって――。

「失礼な態度を取っていなければいいのですが……」

 平身低頭の私を、ザッカリーさんは一笑に付した。

「気にしすぎだよ。失礼なんてなかったし、謝らなくていい」

「はい……ありがとうございました」

 私は改めて頭を下げる。


 それでザッカリーさんも短く息をつき、踵を返して私の前から去っていく。

 ――と思いきや三歩進んだところで、何か思い出したように振り返って、早足で戻ってきた。


「泉さん」

「は、はい」

 囁く声で名を呼ばれ、どきっとしたのも束の間。

 ザッカリーさんは青い目で真っ直ぐに私を見据え、酷く真剣な面持ちで言った。

「また、誘ってもいいか?」

「え……えっ?」

「昨夜は本当に楽しかった。嫌じゃなければ、またあの店に一緒に行きたい」

 信じがたいことを言われた。

「改めて、っていうのも変だけど。駄目か?」

 照れたように付け加えられて、もちろん駄目なはずがない。

 だけど、いいんだろうか。

「ぜ、是非っ。いつでも誘ってください」

 うろたえながら、声を裏返らせながらも私が答えると、王子様然とした顔に嬉しそうな笑みが浮かんだ。

「よかった。都合をつけたら、また連絡するよ」


 そうして彼がこの場を、本当に立ち去ってしまった後。

 やっぱりまだ酔いが残ってるんじゃないかと、私は頬をつねった。


 憧れの人に、またしても誘われてしまった。

 これって――き、期待してもいいの、かな?

 いやいやまさか、そんなことは――。

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