表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

帳の向こう

作者: 堂那灼風

 まるでボロ雑巾のような空だった。低くどこまでも垂れ込める黒雲が、何かが腐敗していくような臭気を閉じ込める。汚れた水槽の中にでもいるような、そんな錯覚さえ抱く夕べである。俺は雨戸も玄関も早々に締め切り、寝そべって読書に勤しんでいた。

 壁を打つ雨音だけが響く静まり返った夕暮れに、俺が読むのは決まって恋愛小説だ。雨音の心地良さに身を委ねていると、普段より物語に浸れる気がした。雨に隠れて一人静かに小説を読み耽る時間が、俺は好きだったのである。

 今読んでいるのは「伊豆の踊子」だ。世に溢れる昨今の安い恋愛小説より、こういった古典の名作の方が好みに合っていた。枕元の蛍光灯に照らされながら、俺は愛読書に没頭していた。……


 心地よい静寂が、不意の呼び鈴に破られた。しかし不思議と悪い気はしない。俺はどうやら暇を持て余し、某かの来訪を望んでいたらしい。

 読みかけの文庫本を枕元に置き、俺は玄関口へと急いだ。既に何度も読み返した本なので、栞を挟む必要もない。そんな瑣末なことに構うより、思わぬ来客によって俺の心は弾んだ。

 鎖を掛けたまま扉を半開きにすると、そこから覗いたのは見慣れた顔だった。

 名は皆本陽花、俺にとっては幼馴染の間柄で、幼稚園に入る前からの付き合いだ。友人連中には下世話な噂話を好む奴らもいるものだが、当人同士にそんな気は微塵も無いのでいい迷惑である。

 もっとも、こんな時刻に若い女が男の一人暮らしを訪ねている時点で、何を言われようとも仕方ないだろう。彼女にその辺りの自覚が無いというのが困りものであった。

「こんばんは。もちろん暇だったでしょ?」

 幼馴染とは恐ろしいもので、俺を訪ねてくる友人も、出かける用事も無いことなど全てお見通しらしい。とは言え、その原因は級友以外とほとんど交わりの無い俺にあるのが何とも情けない。

 対して彼女の方は、彼女一流の悪魔じみた外交術によって驚くほど交友関係が広い。そのため中高生時代はさほどの接点も無かったのだが、高校を出てうるさい級友から離れるや否や、また元のような気安い関係に戻ってしまった。

 鎖を外し改めて扉を開けると、彼女は勝手知ったる様子で無遠慮に上がり込んでくる。所詮は俺の一人暮らしのアパートなのだし、さしたる問題も無いのだが、ある友人はこれを指して「仲が良すぎる」と言う。どこかしら呆れた感じを交えた視線を向けてくる者もいるが、これが俺と彼女の関係なのだ。二十年近い付き合いがそうさせるのであって、これと言って特別な意味も無かった。

「で、今日は何しに来たんだ」

 俺は冷蔵庫から麦茶を出しながら尋ねた。わざわざ一人でいるところに足を運んで来たのだ。それもこのような雨の日である。何か故あってのことだろう。

「んー、別に。話したかったから」

 彼女の答えは単純だった。麦茶を受け取ると、もう一口飲んでいる。

「だったら電話でもいいだろ」

 俺は思ったままを口にした。彼女は少しむっとしたようだった。

「直接会った方が楽しいでしょ。電話したら料金かかるし」

 彼女は目を尖らせて反論した。直接会う方がいいというのには俺も同感だ。

「ああ、携帯の料金の話してたよな。すっかり忘れてたけど」

 俺の部屋には固定電話が一つあるきりで、携帯電話もパソコンも持っていなかった。どちらも俺には不必要に思えたからだったが、そう言えば以前、同じ会社の機種なら通話が無料だとか聞いた気がする。仮に俺が携帯電話を買ったとしても、ほとんど使わないのは目に見えているので放っておいたのだった。

「携帯って社会の常識だよ。持ってないと不便なんだから」

 言われなくても、いまどき携帯電話の一つも持たないのは少数派だという自覚はあったが、必要無いので仕方が無い。俺の住所も電話番号も、知っているのは家族と彼女、それと学校に新聞屋くらいであるという事実が何よりの証拠だった。

 そんな俺とは対照的に、彼女はパソコンと携帯電話しか持っていなかった。テレビの機能も賄えるので、それで全て事足りるらしい。固定電話が必要ないことに驚くような俺だった。

「でも迷惑メールとか料金とか面倒だろ。話す相手だっていないしさ」

 俺は毎度お馴染みとなった言い訳をした。本心と言い訳が五分五分といったところだ。本音を言えば、携帯電話のように不特定多数に開かれた端末は面倒の元だ、というのが俺の持論だった。インターネットを使わないのも同じ理由だ。善意も悪意も簡単に行き来させてしまう媒体など、どうも使う気になれなかった。

 そもそも俺が一人暮らしを始めたのも、鬱陶しいしがらみから逃れたいがためだった。高校を出ると俺は故郷を離れ上京したが、奇遇なことに彼女も同じ進路を採った。なるべく他人と違う進路を選んだつもりだったが、ここまでくると腐れ縁としか言えなかった。

「友達とか家族とか、すぐ連絡できて便利なのに」

 彼女はそう言うが、俺は必要以上の連絡などしたくなかった。連絡先もほとんど知らせず、その甲斐あってここでは彼女ともう一人、高校以来の友人がいるきりで知り合いも無い。メールのやり取りをするような相手は何処にもいなかったし、これで携帯電話が必要だと思えるなら、そちらの方が毒されていると言えるのではないか。

「便利なのは分かるけど、やっぱ必要ない。そのうち考えるよ」

 俺はもはや常套句となった台詞で論争を打ち切った。

「持っとけば良いのに……。まあ、会おうと思えばすぐ会えるけどね」

「それにしたっていきなり過ぎるだろ」

 俺がそう言うと彼女は微かに不安そうな表情を見せた。

「せめて電話の一つでも入れてから来たらどうだ」

 続けて文句をつけると、彼女は俺の顔色を窺うようにして言った。

「そんなに嫌だった……?」

 さすがに非難しすぎたかもしれない。無論、俺としても嫌だなどということはなく、むしろ喜んでいたのは前述の通りである。それどころか、彼女の来訪だからこそ嬉しい、という気持ちも少なからず持ち合わせていた。物心付いたときには隣にいた彼女との時間は、間違いなく俺の最も好きな時間の一つなのだから。

「嫌じゃない。お前は大丈夫かってこと」

「へ? 大丈夫って、何が?」

 これだから困る。人の心配事などどこ吹く風だ。

 さておき、俺も自分の麦茶を注ぐと彼女の対面に座った。

「もう夕飯食べた?」

「いや、まだ」

 帰宅してからずっと本を読んでいたので、夕食の支度もしていなかった。誰も来なかったならば、おそらくあと一時間ほどは読書を続けていたことだろう。

「だと思った。そんなあなたに支援物資です」

 おどけた調子でそう言うと、彼女は持ってきた鞄の中から二つの包みを取り出した。

「弁当なんか作ったのか?」

 俺は分かり切った質問をした。もし俺が夕飯を食べ終えていたらどうするつもりだったのだろう。しかし現実に俺は夕飯を食べてはいなかったわけで、それを見透かしていた彼女はさすが、伊達に長く付き合っていない。

「ありがたく頂くと良いでしょう」

 そう言ってまた麦茶を飲んだ。一体何をしに来たのか。まさか本当に夕食を食べるためだけに来たのだろうか。

「まあ、良いけどな……」

 たまには二人で食べる夕食も悪くない。彼女とならば尚更だ。俺の交友関係が狭い理由の一つは、彼女といると楽しいからかも知れない。

「ところで、一つくらい話題でも無いのか? 俺の方はさっきまで暇すぎて本読んでたんだけど」

 俺がそう言うと、彼女は少し興味を持ったようだった。「へーえ」などと呟いている。

「何の本読んでたの? って言うか、そんなに読書家だったっけ」

「今日読んでたのは伊豆の踊子だけど。家では読書家かもな……」

「川端康成? ふーん。本好き、内向的、前髪長い……なんか典型的な根暗だね」

 酷い言われようである。確かに特徴をあげつらえばそうかも知れないが、甚だ心外だ。

「お前、根暗ってなあ。大体、内向的ってなんだよ。俺ってそんなんか?」

「冗談だって。でも傍目にはそうかも。ちょっと暗いって思われてたとこもあるみたいよ」

 初耳だった。彼女は人付き合いが良い分、人の噂にも詳しくなる。その彼女の話なのだから、実際そういう評判だったのだろう。

「そうか。ちょっとショックだな……」

「私は別に気にしてないよ」

「知ってる。でも慰めにはならない」

「ま、そっか。あんま気にしなさんな」

 言われて、「そうしとく」とだけ返した。心配されるほど落ち込んでもいないので、向こうにもそれは伝わっているはずだ。

「暇だねー。何も無いよねー」

「知ってて来るなよ。じゃあ本当、何しに来たんだお前?」

 なんとなく、と笑って彼女は頬を掻いた。

「何か話でもしなきゃつまんないよな」

 俺はそう言って頬杖をついた。自分でも顔が歪んでいるのが分かった。

「あっははは、何その顔、変なのー」

 彼女は隠しもせずに笑い転げた。全くもって遠慮のない関係、というのが心地良かった。

「あ、そうだ」

 ぱたりと笑いを収めると、彼女はさも思いついた風に聞いてきた。

「伊豆の踊子ってストーリーは恋愛ものだよね? 何で恋愛小説なの? 読んでて理解できる?」

 口調は思いついた風なのに、その表情は訝しいほどに真剣だった。

「理解はできてると思うけど……。どうにか伝わるように書くのが小説家だろ」

 彼女の様子はどこか不審さも否めないではあったが、質問には答えておいた。何度も読み返している本だし、内容についても人並みに理解している自信はあった。

「へえ、そうなんだ」

 しかし彼女は、目を逸らして不満げな顔をした。俺に恋愛小説を理解できるわけがないとでも思っていたのか、とにかく期待を裏切られたような顔をしていた。

「小説はわかるんだ……」

 このとき俺は、彼女が何か言いたいのであろうことも、それを隠していることも容易に見破ることができた。目に見えて不機嫌そうで、そのくせ目は合わせようとしない。長年の付き合いの中で、こんな場面にはいくつも遭遇していた。

「もしかしてお前、俺に恋愛は無関係とでも言いたいのか? そりゃ人付き合いは下手くそだけどさ」

 この俺の言葉に、彼女は目を丸くしてこちらを見た。おそらく図星だったのだろう。考えていることも期待することも、仕草や反応を見れば大体の予想はつく。幼少からの付き合いの賜物だった。

「……はあ。自覚してるの……」

 たっぷり一呼吸置いて、さらに溜め息まで吐いてから、彼女は呆れたように言った。いや、実際呆れていたのだろう。その視線には恨めしささえ感じられた。

「そりゃあ、人付き合いが得意じゃないことくらい分かってるさ。ましてや恋愛なんてな……お前にもさっきああ言われたばっかだし……」

 言っているうちに、自分でも情けなくなってきた。確かに自分には友達と呼べる人は少なかったし、彼女のように気さくに誰とでも話せる、などということもなかった。俺が彼女を尊敬していたとすれば、一つはその点においてだったと言えるだろう。誰かを好きになるとか、ましてそれを打ち明けるなんてこと、俺にできるはずもない。

「直そうと思ったことはあったの? 分かってたんなら」

 彼女は尋問口調になった。これは俺にとって凶兆である。頭も口も、俺より遥かによく回る彼女に責められては、俺の敗北は必至だった。

「あったよ。当たり前だろ。人間、人付き合い無しには生きていけないわけだし……」

 取り敢えずは知った風な一般論でごまかしてみた。しかし、こんなことで引き下がる彼女でないことは、経験上よく知っていた。

「あったんだ。じゃあなんで彼女……と言うか、せめて友達作らなかったの?」

 ところが彼女の反応は、俺が予期していたものより遥かに弱かった。その眼差しには、責めるような強い光ではなく、何かを待つような弱い光しか無かった。

「作らなかったわけじゃないさ。お前も知っての通り、何人かは仲のいい友達もいるぜ。でもまあ、気の合う奴がいてくれれば俺は満足だったってとこかな。お前もいたし……」

 その言葉に彼女は目を輝かせた。友達が少なく、人付き合いに消極的だった俺を責めていたはずなのに、この変化は何なのか。珍しく俺は、彼女が分からないと思った。

「へえ、そっか。でもそれで良かったわけ? だって周りの人は皆、部活やってるか彼女捕まえるかしてたじゃん。つまらなくなかった?」

 急に質問の向きが変わったような気がした。彼女の言葉にも、多少の慎重さが出てきたようにも感じられた。

「うん、特につまらなくはなかったかな。あの頃のクラスメイトってうるさかったし。仲のいい奴と話して、自分は本でも読んでりゃ良かった。あいつらかお前か、誰かとは毎日話もしてたしな。クラスで目立たない奴なんて、どこもそんなもんだろ」

 他の学校のことなど知らなかったが、俺は半ば確信めいた気持でそう言った。今さら気付いたが、確かにこんな態度では根暗扱いされても仕方無かったかも知れない。だが人付き合いの上手くない俺にとっては、親しい友人らに加え、大人たちとの付き合いだけで一杯一杯だったのも確かだ。

「で、でもさ。気になる子くらいいたんじゃないの?」

 俄かに彼女は勢い付いた。女性は色恋沙汰の話で盛り上がるというが、こういうことなのだろうか。もっとも男同士でもその手の話はしていたので、彼女を特別視するのは偏見というものだ。

「いや、別に……。言ったろ、あの頃の奴らはうるさかったって。目立つような奴はそもそも合わんし、目立たない奴は関わりも無い。よって該当者無し、証明終了。どうよ」

「そう。誰もいなかったんだ。誰も?」

 彼女は確認するように繰り返した。俺も無言で頷き返した。そもそもあの頃の日々に俺は満足していたのだから、それ以上の何かを望むはずが無かった。

「ところでお前はどうなんだよ?」

 俺は彼女が止まったところで質問してみた。

「あんだけ顔広かったんだし、なんでお前こそ彼氏の一人も作らなかったんだ? 別にもてないってわけでもないだろ、お前なら」

 そうだ、彼女は決してぶすではない。俺は彼女をあまりに身近に感じているせいか、ほとんどそういうことを意識していなかった。しかし、彼女の容姿が悪くないのは確かだった。際立ったものはないが、街ゆく人と比べてみても見劣りはしないのである。

「そ、それは……どうでもいいでしょ。そんなのこっちの勝手だし……」

 やはり彼女は何かを隠しているようだった。あたふたしながらも素直に口を割ることはない。

「なんだよそれ? 俺はちゃんと話したろうが」

「ふん。あんたにそれを言う権利がある?」

 小さく、悲しい響きを持った言葉は、俺の心を突き放したようだった。この日の彼女は感情の変化が何時にも増して大きかったが、これほど氷じみた冷たさを感じさせることはかつてなかった。

「一つ教えてあげるとね。実はあの頃から」

 彼女の声がひときわ小さくなった。目線も俺を直視してはいなかった。

「あんたのこと好きな子がいたんだよ」

 え、と俺は間抜けな声を漏らした。彼女の突然の来訪も予想外だったが、この衝撃はそんなものを凌駕していた。

「なんでだよ。俺、ほとんど他の奴となんか話してなかったはずだ。なんでそんなことが起こるんだ」

 俺が聞くべきは、こんなことではなかったのかも知れない。しかし、まったく好かれる理由に心当たりが無いことも確かだった。人との交わりを最小限に留め、凡庸な生徒であったはずの俺がどうして恋愛対象になり得るのか。まったく理解の範疇を超えていた。

「自分が思ってる以上に、誰かはあんたのこと見てたってことじゃないの」

 彼女は、本当に悲しそうに微笑んでいた。

「……それ、誰だか聞いてもいいか?」

 俺はあまりの展開に追い付けずに、そして彼女の纏う雰囲気に圧されて、どうにかそんなことを問うていた。

「今更言っても仕方ないんじゃない? あんたは気付かなかったんだし……」

 言葉にこそ先の苛烈さは無いが、そこにあるのは紛れも無い拒絶であった。俺は彼女から何か、底知れない闇が滲んでくるのを幻視した。

「悲しいけどね。ほんと……」

 彼女はふう、と息をつくと席を立った。

「報われないよね」

 それだけ言い残して、彼女は夜闇の中へ消えていった。最後の最後に小さく、消え入りそうな声で「さよなら」と告げていった気がした。

 追いかけようにも、外は安普請など叩き潰してしまいそうに強い雨で煙っていた。漆黒の分厚い幕が俺を締め出している。傘も持たずに居なくなった彼女を追うこともできないまま、俺は呆然としていた。

 だがそれでも俺は、これが彼女との最後の思い出になろうとは、露ほども思ってはいなかったのである。……


 あの晩から三年、今年も雨の季節が巡ってきた。俺は今日も寝そべって「伊豆の踊子」を読んでいる。

 あの日と同じく、雨の降る夕暮れだ。思い出すなと言われても、俺にはあの日の出来事が思い出されて仕方無い。目は活字を追っているのに、頭はまるで別のことに思いを馳せてしまう。

 あたかも幕が引かれたように、彼女は忽然と姿を消した。彼女と最後に会ったのが俺だったらしい。否応なく、俺は警察の事情聴取を受けたし、彼女の父親に殴られもした。彼女の母親はそれを理不尽だと言って仲裁に入ってくれた。二人とも俺が子供の頃から世話になっている人たちなので、もちろん俺のことはよく知っている。だからすぐに親父さんは俺に頭を下げてくれたし、彼女を失った悲しみを共有する者同士、彼女という接点が消えた今でも懇意にしてもらっている。しかし皮肉な話だ。娘という接点が消えて初めて、俺とあの二人の繋がりが回復したのだから。


 思考を遮るように、ロックの旋律が流れだす。音源は枕元の携帯電話である。以前は音楽などほとんど聞かなかった俺だが、去年連れられて行った映画館で耳にして以来、この曲が強く心に残っていた。その名も歌詞も、俺に深い衝撃を与えたのである。

「もしもし」

 発信者を確認して俺は電話を取った。

「よう、ちょっと今良いか?」

 声の主は学友の仲野である。三年前、俺は彼女の失踪に関わっていると、端的に言えば犯人であるとも疑われた。そんな折、俺を弁護してくれたのが仲野だった。

「どうした。また何か面倒事か」

「いや、今晩泊めてくれない? 財布掏られちまって帰れないんだわ」

 聞けば、繁華街まで出たはいいが財布を盗まれ立ち往生だという。

「仕方無いな。俺の家までは大丈夫か?」

「ああ。それで、だな」

 妙に歯切れが悪くなった。こういうときはどうせ、面倒なことを提案してくるものと相場が決まっている。

「ついでにあと三人、そっち行ってもいいか?」

「朝まで宴会はやめてくれよ。怒られるのは俺なんだから」

 やれやれと、俺は大仰に溜め息をついた。仲野の馬鹿は今に始まったことではない。むしろ以前からそうだったため、三年前まで付き合いが無い人種だった。

 休日になれば仲野はこのように遊びに出ることが多く、身なりも言動も軽薄だ。だがそれでいて芯の通った男でもあった。かつて俺が謂れの無い誹謗に曝されていたところを助けてもらってから交流がある。

「分かってるって。ちなみにメンツだけど――」

「青崎、石井、杉沢だ」

 杉沢は高校からの馴染みで、あと二人は彼を介して友人になった。同じく学友なのだが、仲野と比べれば随分と真面目な奴らだ。

「おお、大正解。あ、ところで今度の合コンなんだけどさ」

「俺が行くわけないだろう」

「お前……やっぱり男が」

「切られるのと切れられるのとどっちが良い?」

 電話の向こうで仲野が苦笑いしている。あいつも馬鹿のようで人への配慮は上手いやつだ。俺の体験は知っているので、一線は弁えてくれている。

「悪い悪い。じゃ、また後で」

 そう言うと、仲野は電話を切った。雨音が大きくなった。

 俺がやたらと過去を思い出してしまうのは、きっとこのような天気だからだ。寝転がって雨音を聞いていると、彼女のことばかりでなく仲野たちとの出会いも蘇ってくる。やはりこの話と彼らの存在を切り離すことはできまい。俺は目を閉じ、記憶を辿る。


 俺と彼らが出会ったのは――正確に言えば、交流が始まったのは――彼女がいなくなってしばらく経った頃のことだった。

 ある日いつも通りに起床した俺を待っていたのは、不気味な手紙だった。

 新聞受けを何気無く確認した俺は言葉を失った。そこに投函されていたのは新聞だけではなかった。差出人不明の手紙が、ご丁寧に封筒入りで差し込まれていたのである。それも一通ではなく、何通もだ。

 封を開けてまた驚いた。そこにまともな手紙など入っておらず、代わりに入っていたのは写真と一枚のメモ用紙だったのだ。俺の写真や彼女の写真、一人で写っているものもあれば、二人で写っているものもあった。そしてメモ用紙一面に貼り付けられた文字。新聞や広告を切り抜いて作られた、ドラマのように典型的な脅迫文だった。そのような手紙が何日か続き、俺は耐えきれず杉沢に相談した。相談できる相手など、彼以外に居なかったのだ。

 杉沢の協力もあって、俺たちは犯人を突き止めることに成功した。手紙が郵便によって送られたものでないことは分かっていたので、俺たちは寝ずの番をしたのだ。犯人は言うまでもなくストーカーで、彼女には以前から付き纏っていたらしい。その余罪も合わせて、男は当然のごとく御縄に就いた。

 当時まだ人付き合いを嫌っていた俺に、明らかな悪意を持った相手と対峙するだけの勇気は無かった。杉沢はそんな俺の背を押してくれたのである。この一件以来、彼はそれまで以上に信頼のおける友人になった。

 しかし俺への悪意はこれだけに止まらなかった。

 俺に関する陰口や憶測が絶えなかったその頃、ついに俺は学校で面と向かって喧嘩を売られるという事態に直面した。その時間は講義も無く暇だったので、俺は適当な場所を見繕って読書していた。

「おい、お前か? 皆本のストーカーってのは」

 どすの利いた声で質したのは、見覚えのない男だった。

「何か用ですか?」

 ストーカーなどと根も葉もないことを言われ内心腹を立てていたが、それを言っても事を荒立てるだけなのは明白だった。だから俺は、できるだけ無感動に返事したのだ。

「お前、あいつに何しやがった?」

 その男はまるで見当違いな質問を寄越した。もちろん俺は何もしていない。俺を失踪の犯人とする噂はあったが、ここまではっきりものを言う奴は初めてだった。

「俺は何もしてない」

 本を閉じ、俺はそれだけ言った。真っ向から相手をするような度胸は無かった。

「あいつが最後に会ってたのはお前なんだろ? さっさと本当のこと言ったらどうだ?」

 男はさらに凄んできた。俺はせめて目を逸らさないようにしながら繰り返した。

「俺は何も知らない……」

 男は襟元へと手を伸ばしてきた。俺とは比べるまでもないほど太い腕だった。

「いい加減しらばっくれてんじゃねえよ」

 ボタンが弾ける音がして、俺の上体は僅かに持ち上げられた。

「や、やめろ……」

 俺はかつてない恐怖と物理的な圧迫から、蛙が潰れたような声を絞り出した。だが、それがかえって相手の嗜虐的な心を刺激したらしかった。

「吐けよ、痛い目見ないうちにさ」

 俺に抵抗する気力は無かった。まともに他人と話をするのも億劫がる俺に、喧嘩などとても無理な話だった。焦燥と息苦しさから、眼の端に涙が滲んできた。

「何してやがるてめえ!」

 その時だった。突然、聞き慣れた男の声が割って入った。

「ああ?」

 その声に気を取られ、俺を締め付ける力が少し緩んだ。その隙に俺は力の限り男を振りほどいた。

「おうこら新藤、モヤシ絞めてどういうつもりだ?」

 その口の悪い長髪が仲野だった。俺と同じゼミに居た学生だ。

「お前に関係ねえよ、失せろ」

 新藤というらしい男が、微かに動揺した。仲野はいつでも人の輪の中心に居るような奴で、人脈も人望も大したものだった。その仲野と事を構えてはまずいと感じたのだろう。

「残念。もう動画で保存しちまってんだなあ、これが」

 仲野はさも残念そうな風で携帯電話をひらひらと振った。

「野郎、汚えぞ。消しやがれ!」

 新藤は俺を放って仲野に食って掛かった。

「公開されたくないんなら、とっとと消えな。そうすりゃ見逃してやる」

 仲野は毅然として言った。

「くそ、覚えてろよ」

 忌々しそうな台詞を吐いて新藤は去っていった。

「お前こそストーカーだろうが」

 仲野は新藤の消えた方向を見やって毒づいた。そして俺に向き直ると、近付いてきてこう言ったのだ。

「このチキン、いつまでいじけてんだ?」

 俺は礼を言うのも忘れ、呆然と仲野を見上げた。

「お前だって自分の言われようくらい知ってんだろ? 何で言われっぱなしなんだよ。あんな馬鹿どもに絡まれて、やられっぱなしで良いのかよ?」

 俺は何も言えなかった。

「なんで黙ってんだよ、言いたいことぐらいあるだろうが」

 俺は、怯えそうになる自分を叱咤しながら、小さく声を出した。

「俺は……俺だって……」

「声が小せえ!」

 予想外の大声だった。俺は唇を噛んで俯いた。

「言いたいことがあるなら言え。お前が何も言わねえから変に誤解されるんだろうが!」

 その言葉は俺の心に突き刺さった。彼女の失踪以来、俺は暗く長いトンネルに居るような気分だった。仲野の言葉は、その暗闇に一条の光をもたらしたのだ。

 気付けば俺は、話したこともないような相手に心情を吐露してしまっていた。彼女がいなくなったことに対する悩みも不安も、仲野なら受け止めてくれるように感じたのだ。

「すまない、こんなこと言って……」

 俺は最後にそう付け加えた。けしかけられたとはいえ、いきなり話していい内容には思えなかった。全て言ってしまった後で、改めて後悔と羞恥に襲われたのだ。

「初めからそう言えや」

 予想に反して、仲野は気持ちよく笑っていた。俺の肩に手を掛けて仲野は言った。

「お前さ、一人でうじうじしてねえで誰かに話してみろよ。本当のこと言えば少しはましになるぜ、多分。多分な」

 仲野を誤解していた、と俺は思った。このとき俺は、一つの事柄に気付き始めていたのだ。そしてこの前進は、偏に彼の言葉に負うていた。

 俺とは決して相容れないと思っていた人間との、それが始まりだった。彼女が消えて一月くらい経った頃のことだったと思う。

 その後、俺は青崎、石井とも知り合った。気付けば彼らは、俺の最も親しい友人になっていた。仲野のように劇的な逸話は無いが、彼らもまた俺の支えになってくれた大切な友人だ。同じ目線で悩みを聞いてくれる相手がいる。その存在がこれほど嬉しいものだったなどと、それまでの俺は愚かにも気付きさえしていなかったのだ。

 この後更に数か月にも渡る、心ない誹謗中傷に耐えられたのも、彼らが共に在ったからだ。当時は決別の理由も分からず失意にあった俺は、親身になって俺を弁護してくれた仲野たちの姿に心打たれたのである。

 確かに仲野は軽薄でお祭り好きな、典型的な遊び人だ。そしてそれは俺が最も忌避していた種類の人間だということでもある。だが人とは分からないもので、こうして部屋に泊まりにも来る悪友になった。あいつの、あれでいて義に篤い一面も、面倒見の良い性格も、話してみなければ知り得なかったことだ。

 俺の高校以前の友人は、学校で話をする程度の浅い付き合いでしかなかった。俺は彼女を失って初めて、悩みを相談できる友人を持ったのだ。親友と呼んでも良いかも知れない。仲野たちは俺にとって、自分を素直にさらけ出せる、彼女を除いて初めての人間だった。

 しかし、その事実が俺の心を苦しめる。今では俺は、こうも感じているのだ。

 彼女を追いやってしまったのは、俺自身なのではないか、と。この結論に達するまで、俺は随分と悩んだ。思い至ったとき、俺は自分の愚かさに腸が煮え繰り返る思いだった。それだけ彼女は俺にとって大切な存在だったのだ。

 これが恋というものかどうか、俺は判断する術を持たない。世の人が謳うような、熱く燃えるような感情は俺の内には無い。そこにあるのは、暖かみであった。もしかすると長年連れ添った夫婦の情に通じるところがあるのかも知れないが、今の俺にはまだ分からない。だがもし、これがそういう類の感情であるとするならば、多分あれが初恋だった。

 もしかすると、いやきっと、彼女もそうだったのだろう。俺たちは昔から一緒にいて、おそらく互いを好きになった。だが、俺たちの間には決定的な違いがあったのだ。

 人と関わることを苦としなかった彼女。人付き合いが下手なのをいいことに、人との交わりを避けた俺。もし俺がもっと多くの人の中で十代を過ごしていたのなら、結果は違っていたのかも知れない。もっと早くに、自分の感情の正体に気付くことができたのかも知れない。

 おそらく彼女は解っていた。色々な人と関わる中で様々な感情に触れて、時には彼女自身が誰かからの好意を受けたこともあったろう。その中で彼女は、自分の気持ちに気が付いたのだ。

 この推論は単なる自惚れかも知れない。だがそう結論すると、全てに納得がいく気がする。中高時代に彼女と俺の接点が減ったことも、その後にまた彼女と親密になっていったことも。

 俺は誰よりも彼女を知っているつもりで、実は何も見えていなかったのだ。三年前、それが原因で彼女は俺の許を去った。俺がこのことに気付けたのも、仲野たちのお陰である。


 俺は携帯電話を置いた。

 やはり今日は過去を振り返ってばかりだ。だが、過去を振り返ってみて初めて見えてくるものもある。例えば、今も俺の胸に重く沈みこんでいる彼女の一言。その真意を、俺はしばらく量りかねていた。

 あの晩の去り際に、「報われない」と彼女は言った。それは誰に向けての言葉だったのか、俺はずっと考えていた。初め俺は、それが彼女自身へ向けられたものだと思ったのだ。かつて彼女は俺に好意を抱き、そして好意的に接してくれていた。ところがその思いは届かなかった。それを指して「報われない」と言ったのではないかと。

 しかし考えるにつれ、それは見当違いであることに気付いていったのである。仲野たちと知り合い、親睦を深めていくと同時に、他の人々との交流も増えていった。そんな中で気付いたのだ。

 かつては俺も、彼女に無意識下で好意を抱いていた。そしてそれは、自覚した今も変わらない。だが、不幸にもあの頃の俺はまだ、彼女への感情が何であるかを知らなかった。そして別離を通じて初めてそれを掴んだのである。

 まったく、なんと報われない話だろう。彼女の気持ちが愚かな俺に伝わるはずはなく。俺は全てを失って、初めて全てを理解し得たのだから。

 彼女はこの結末をも見越していたのだろうか。別れに際しても掌の上で踊らされていたのかと思うと、つくづく幼馴染という奴は油断ならない。

 

 そのとき、再び携帯電話に着信があった。今度は青崎からである。

「何度も悪いんだけどさ、お前晩飯食ったか?」

 俺は忍び笑いを漏らした。何という偶然か、青崎はあの晩の彼女と同じ質問をする。

「いや、まだだ」

 たまには誰かと食べる夕食も悪くはない。この思いもあの時と同じだ。だがあの頃は、自分が彼女以外にもこのような気持ちを抱くようになるとは思ってもみなかった。

「オーケー。じゃ、何かついでに買ってくよ」

 なんだ、金はあるんじゃないか。俺は内心で呟く。結局は友達の家に行く口実が欲しいだけなのだ、彼らは。もちろん、そんなものが無くても押しかけるのだろうが。

 俺はまた携帯電話を置くと、ベッドから立ち上がった。

 そう言えば、この携帯電話も彼女がいなくなってから買ったものだ。今の友人たちと付き合う中で、不便だからと購入を勧められたのである。しかし今となっては、もし俺が彼女のいるうちに携帯電話を手にしていれば、違う結果が待っていたのだろうかと、頭の隅で考えてしまう。

 いや、そういう思いがあったからこそ俺は携帯電話を買ったのかも知れない。

 もちろん初めは俺も、仲野たちの勧めに反抗した。誰とも簡単に繋がれる機械など、俺は昔から嫌っていたからだ。しかし青崎や石井たちと知り合った頃から、不思議と携帯電話に対する嫌悪感は薄れていった。俺の身に大きな事件が降りかかったわけではない。仲間たちに無理やり買わされたわけでもない。どういうわけか、俺の中には彼らの勧めを素直に受け入れる気持ちが生まれていたのだ。

 確か最後の一押しは青崎の言葉だった。

「お前さ、いい加減ケータイ買えば?」

 この言葉が決め手となった理由など、今となってはわからない。彼の、投げ出すような「ケータイ」の発音がやけに耳に残っているだけだ。

 俺はそのときこう答えた。

「そろそろ考えるかな……」

 結果として、彼のこの発言を受けて俺は携帯電話を購入した。手にしてみれば何のことはない、携帯電話など単なる電子機器の塊に過ぎなかった。俺はそれまで、携帯電話に何の幻を重ねていたのだろう。それは魔物でも何でもなかったのだ。

 そしてこのやりとりが不思議と、あの夜と重なって感じられてしまったのだ。

 もしあの時、俺がすぐにでも彼女を呼び止められたら、誰かに助けを求められたら、あるいは結果は違っていたのか。もっと密にやり取りができていたなら、そもそもあのようなことは起きなかったのか。今更取り返しのつかない思いが湧き上がってきた。

 俺は昔から携帯電話が嫌いだった。それはおそらく、携帯するという性質からくる束縛が、もしくは、常に誰かと繋がっているという逃げ場の無さが嫌いだったのだ。

 しかし携帯電話を持ってみて明確になったのは後悔だった。もう二度と、みすみす大切なものを失うような真似はしたくない。そんなこと耐えられない。俺が強く感じたのはその気持ちだった。だから俺は、自分のかつてのこだわりを捨て、携帯電話を持つことにしたのだ。それで万事がうまくいくわけではないことは分かりきっている。携帯電話など、あくまで人と人を結ぶ便利な道具でしかないのだ。

 今ならば気付く、彼女の思いがある。しつこいまでに何度も何度も、俺に携帯電話の購入を勧めていた真意である。

 何とも報われない話ではないか。彼女は俺に不断の繋がりを求め、俺はそれを拒み続けた、つまりはそういうことだったのだろう。愚かな俺は表面上の言葉のみを受け取り、その内に秘められた意図を汲もうとしなかった。俺の無神経は、彼女をどれほど傷つけてしまったのだろうか。それも一度や二度では利かない、何年にもわたって繰り返されたやり取りだ。その度に俺は彼女を無自覚のまま突き放してしまっていたのである。

 互いに姿は見え、声は聞こえる。それなのに何故、人はかくも難しいのか。これを思う度、俺はある考察に囚われる。

 曰く、例えれば俺たちは、それぞれが水槽に飼われる蛙のようなものだ。ガラス越しに隣を見ても、空気も水も共有することはできない。だからと言って俺たちは水槽を壊すこともできない。そんなことをすれば、幾ばくも無く俺たちは死んでしまうだろう。

 だから俺たちは、自分を閉じ込める境界を超える。それが天井であれ見えない壁であれ、俺たちは境界を跳び越える方法を探すのだ。この努力を怠れば、そこに在るのは上辺だけの幻影か、さもなければ鏡映しの自分の虚像だけである。

 人付き合いとはそういうものではないかと、彼女が消えてから俺は思うようになった。このことにあの頃の俺が気付いていれば。今更悔やんでも遅いことは分かっていた。

 俺たちは何故、擦れ違ってしまったのか。何故、こうも親しい間柄にありながら、かくの如き破局を迎えてしまったのか。何故、解り合えなかったのか。

 それはきっと、俺が誰かと通じ合おうとしなかったからだ。自分の気持ちを成長させることもなく過ごしてきた俺は、誰かと腹の底から通じ合う経験を持たなかった。気心の知れた彼女に対しても、それに甘えて本気の付き合いをしなかったのだ。上辺だけなぞったとして、そんなものは欠陥建築と同じである。ずれは年月を経て露見し、歪みを生じてしまう。

 それでも、決して俺は彼女と通じ合っていなかったとも思わない。彼女と共有した想いは確かに俺の胸に残っている。もしこの繋がりも偽物だというのなら、俺はこの先一生、誰かとの繋がりを信じることなどできないだろう。

 無条件の共感も幼少の頃の話だ。成長するに従って人格を確立してくれば、全く同じ感覚を共有することなどできないのは自明の理である。俺はそれに気付けなかった。俺は、どうしようもなく子供だったのだ。級友たちを幼稚だなどと切り捨てながら、その実本当に幼かったのはどちらなのか。

 つまるところ、俺たちの歪みはそこにある。自分の気持ちに気付くことも無く成長を拒み続けた俺と、自分の気持ちに気付きながらも伝えることを躊躇った彼女と。全ては解り合うことを怠ったが故だった。それこそが俺たち、いや俺の罪だったのだ。

 中高時代に俺から彼女を遠ざけていたのは、恐怖かそれとも羞恥か、それを窺い知ることはできない。だが俺は、気持ちに気付かないどころか、さらに罪を重ねてしまった。どうして彼女はこのような三流私立大学まで一緒だったのか、再び俺と親しく付き合い始めたのか。

 彼女は変わろうとしていた。俺をも変えようとしていたのである。それなのに俺は、彼女の勇気を悉く踏みにじったのだ。最後の夜はおそらく、彼女なりの審判だった。思い当たる節など幾らでもあったではないか。俺は愛想を尽かされて当然のことをしてしまったのだ。

 三年前を悔やんだとて既に遅く、俺に残されたのは前に進む道だけだ。

 

 もうじき仲野たちがやってくる。玄関に目をやれば、目に飛び込むのは鮮烈な橙色だ。

 今では、玄関先に置かれた異物を怪しむ友人も随分と少なくなった。初めて俺の部屋を訪れた仲野たちが驚いていたのを思い出す。

 三年という月日は、自分でも想像し得なかったほどに俺を変えた。仲野たちとの出会い、そしてそれ以上に多くの人々との出会いは、俺に変化をもたらし続ける。

 しかし、主を失くした傘のように、彼女の面影は俺の心に残留していく。あるいは荒れ野に咲く花のように、俺の心に根を下ろすのだ。この先何が現れようと、消えることなど無いだろう。

 俺は前に進まなければならない。それはある意味で彼女を捨てるということであり、而して彼女を想うことでもある。相反する両者は相克する螺旋のように俺の胸で渦を巻く。

「うわ、参ったな……」

 冷蔵庫を覗きこんで、俺は呻き声をあげた。困ったことに酒の買い置きを切らしているようだ。彼らが来る前に急いで買いに行くほか無い。俺は諦めて財布を引っ張り出した。

 降り続く強い雨は、まだ止みそうにない。まるで分厚い幕のように、辺りを闇に押し包んでいる。いつか仲野が俺に訊ねた。

「そんなに雨、嫌いか?」

 訊かずとも知れたこと。俺は扉に手を伸ばした。

 扉越しの雨音は今以て強く、濃い暗闇は俺の意気を削ごうとする。だがそれで外出できないかと問われれば、そんなはずはない。今この瞬間も仲野たちは俺の部屋へ急いでいるだろう。ともすると億劫がる自分の性根に活を入れながら、扉を開いた。

 ほんの少し道のりは遠いが、早足なら十分とかかるまい。泥水を撥ねながら、俺は酒屋へと急いだ。











2009年頃執筆。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ