秘湯にて
もうもうと立ち上る湯気の中、俺は並々とした湯船にその身を沈める。思わず、ふぅ、と声を出す。
【風呂は命の洗濯】と言う言葉があるが、それは真実だろう。
それほどにこの身は今、心地よく温かい。
ガラララ、誰かがこの露天風呂に入りに来たらしい。
確か、宿泊客は今日は聞いていなかったはずだが、一体誰だ?
湯煙を手で掻き分け、その相手を見た俺は思わず溜め息をついた。
「久し振りだな、カラス」
「何だ、お前か。……クロイヌ」
どうやら招かれざる客だったらしい。
いつもとは違い、真っ黒な服装じゃないので、一瞬誰だか分からなったのが少し情けない。
俺が今いるのは、大戦時の戦友だった吾朗とその奥さんが営んでいる温泉旅館。奥飛騨山中にあるここは知る人ぞ知る秘湯で、かつては戦国大名も利用した【隠し湯】だったそうだ。
吾朗は、俺やクロイヌが戦地を離れるよりも前に戦傷で退いた。
酷い怪我をした吾朗は、手足が不自由になり、一時は日常生活にも苦労していたのを目にしていた。それから数年。俺が連絡を受けてここを訪ねると、そこにいたのはすっかり回復した吾朗と、奥さんだった。いつの間にか結婚していた、と報告を受け、思わず苦笑したのを覚えている。
奥さんは元々、ここの旅館を家族で営んでいたそうだ。
だが、父親が病気で重病で寝たきりになり、旅館が廃業寸前になったらしい。
そこに自分の手足の不調の治療に、ここの評判を聞き付けた吾朗が湯治に訪れた、というのが出会いだった。
ろくに面倒を見れないから、と金を受け取らない彼女に対し、吾朗は「なら、俺がここで働きますよ」と提案。
戦地でもよく色んな国の料理を学んでいた吾朗は、すぐにここらの山の幸を把握。料理のレシピを考え、更にボロボロだった旅館の修繕を施し、気が付けばすっかり彼女の父親にも気に入られ、後は怒濤の様な勢いで、結婚。ここを引き継ぎ――こうして居着いたそうだ。重病だったのが嘘みたいに回復した父親は今では呑気に各地の温泉を巡る日々。
たまに実家に戻っては、巡った温泉の感想とそこで気に入ったサービス、出された料理等について話をし、吾朗がそこからここでのサービスに使えそうな物は取り入れる、というスタンスで何年もしている内に、温泉をレポートしていた専門家が滞在。大満足した結果、ここを大絶賛する記事を書いたらしく、こういう僻地に有りながら頻繁に予約が入る様になったらしい。
一度に受け入れる人数は合計で十人まで。それ以上なら、近くでもう少し大きいホテルを案内するという形を取っている為に、ここら一帯の温泉自体が俄に活気づいているそうだ。
今の俺【達】は勿論、宿泊客じゃない。ここに滞在しているのは、負った怪我の治療も兼ねているが、何よりも今は【無職】だからだ。
俺のような男が世間で目立たずに働くのは厳しい。そこで、吾朗に相談した結果、「何なら、ウチで働けよ」とこうなったのだ。
確かにここなら、あまり人目にもつかない。
「ただし、安くコキ使うけどな」
そう言いながら吾朗は笑っていたが、給料はキチンと一ヶ月分渡されたし、ここも悪くは無い。
そうした矢先に、来たのが目の前で、心地良さげに表情を緩めるクロイヌだった、という訳だ。
「おお、始まってたな」
「私も混ぜてくれないかね」
声を挙げながら入って来たのは、全身傷だらけの厳つい男がまた二人。吾朗とマスターだった。頬を赤くしたマスターは御盆と熱燗と四つの御猪口を持っている。
やれやれ静かに楽しんでいた時間はもう終わりの様だな。
こういうのも悪くは無い、か。
◆◆◆
「悪いけど、アンタらには死んでもらうぜ」
ヤアンスウを仕留め、下に降りてきたイタチは開口一番そう言うと、オートマグの銃口をこちらへと向けた。
それを目の当たりにし、怒気を露にお嬢が思わず前に進み出る。
「ち、ちょっとイタチ君、何考えてるワケ?」
「どいてください、オレは二人を殺します。邪魔すンなら、レイコさんでも怪我させます」
「へぇ、上等よ。……ぶちのめす」
お嬢はそう言ったものの、イタチも含め、ここにいる全員が満身創痍だ。もう、マトモに殺り合う気力等無い。
そこで、俺は問いかけた。
「どうしてもか?」
その言葉に、イタチは黙って頷く。その目に浮かんでいたのは強い【決意】。何かを覚悟した男の目だった。
「ふーむ、なら殺されてやろうじゃないか」
マスターはそう言うと、進み出る。
「な、何考えてるのよ」
父親の言葉にお嬢は珍しく冷静さを欠いている。
「なぁに、すぐに済むさ……頼むよ」
そう微笑んでイタチを真っ直ぐに、射抜くような視線を向けた。
瞬間。
二発の弾丸が放たれ――。
俺達は【死んだ】。
◆◆◆
既に表向きこの世にいなかった俺だったが、これで裏社会的にも存在を抹殺されたという訳だ。
「お前が奴に頼んだんだろう?」
「何の事だ?」
折角だから目の前にいる【依頼者】に尋ねてみた。
流石に不意だったので、何の事か一瞬分からなそうだったが、俺の真剣な表情を目にして悟ったらしい。
「確かに俺が二人の始末を依頼した」
「あっさりと認めるのか?」
「隠していてもその内ばれる事だしな。ただ、俺が依頼したのは二人の抹殺だ。社会的な排除ではない」
「まぁまぁ、折角こうして裸の付き合いって奴を満喫してるんだ、そういう殺伐とした話は無しにしようじゃないかね。さ、飲めカラス、クロイヌ」
マスターがそう言いながら俺達に御猪口を手渡し、そこに熱燗を注ぐ。
俺達は黙ってそれを飲み干す。そこにマスターはすかさずに酒を継ぎ足していく。そうして、何杯飲み干しただろうか、湯に浸かっていた事も手伝って酔いが回るのが早い。
そうして、すっかり酔い潰された俺達は、そのまま風呂上がりで、泥の様に寝てしまった。
「うっ…………あいたた」
目を覚ましてまず実感したのは酷い頭痛だった。
柱時計に目をやる。針は、午前三時を示している。
かれこれ五、六時間は寝ていたらしい。
我ながら無防備にも程がある、と苦笑せざるを得ない。
以前なら、どんなに酒を口にしても酔い潰れる事は無かったし、寝るにしても、決して警戒を怠る等有り得なかったというのに。
『どうも、ここの平穏な生活に馴れてしまったのかもな』
そんな事を考えながら、酔いざましに散歩をすることにした。
この温泉旅館の周辺には、世間で言うところの娯楽施設等は存在しない。当然繁華街等は無いし、静かなものだ。
電話も固定電話は大丈夫だが、携帯電話の使用は基地局が不足している以上、ほぼ不可能。つまりは半ば世間とは隔絶された場所という訳だ。
こういう場所を楽しむのなら、一旦、現実世界の事は忘れるに限る。そう、マスターは言っていたな。
「う……行くか」
俺は昔から暗闇が苦手だった。勿論、拒絶反応が出たりするのではない。何となく、本能的に苦手だった。
俺の中で夜とは、光に包まれた時間だった。
戦地では、常に照明弾が打ち上げられていたし、砲弾は互いの陣地へと撃ち込まれ、その爆発は周囲を一瞬、昼間の様に明るく染めたものだ。
そんな場所に適応し過ぎたのだろうか、俺にとって、夜の闇はどうも得意にはなれなかった。
だから、だろう。俺が塔の街で裏社会で殺し屋を始めた頃、一番落ち着いたのが当時は無法地帯だった第十区域、別名【第零区域】。その繁華街だった。
下品な程に光輝き騒がしく、油断すればいつ寝首を掻かれてもおかしくない、そういう場所が、程よい緊張感が心地良かったのだろう。自分が生きていると実感出来て。
だが、だからこそ俺はもう、【そういう世界】から出ていかねばならないのだろう。もう俺は死んだのだから。
俺は意を決して、山道に歩を進める。
バサバサ、という草木を踏む度に音が聞こえる。
足音を殺す事だって当然出来るが、敢えてそうしない。
何故なら、ここには、この森には無数の気配が蠢いているから。
木の上に視線を向ければ、爛々と闇に浮かぶ二つの目の梟が、獲物を狙っているのか、それとも森を見守っているのか。よく分からんが静かに鳴きもせず見渡している。
木の幹を駆け巡るのは鼬か何かだろう。小さいなりをしているが、ああ見えて鼬は肉食だ。口には捕らえた鼠を咥えている。
足元に意識を向けると、兎や栗鼠が駆け巡っている。もしかしたら、鼬や梟に狙われていたのかも知れない。
そうさ、ここに存在するのは正しく、自然なのだ。
弱肉強食の掟が存在する、非情にして美しい場所。
思えば、ガキの頃から俺はずっと暗闇を恐れていたのは、自分がいつか大人に殺されるかもしれない、と理解していたからだろう。
生きる為に、俺はガキの頃から腕力で生き抜いてきた。
俺には暴力しかない、そう思いながら。
だが、本当にそうだったのか?
他に選べた選択肢があったのでは無いのか?
俺以外にも戦災孤児は大勢いたが、アイツらは全員俺と同じ道を選んだ訳じゃないだろ?
今ならよく分かる。俺が怖かったのは、他の【可能性】だったのだ、と。大勢の人間を痛め付ける以外の別の道を考えるのが怖かったのだ。
そして、そうした思いを想起させる暗闇を恐れていたのだ。
『だが……だからこそ、俺は暗闇と向き合わねば』
そうして歩を進めていく内に、いつの間にか森を抜けていた。
急に視界が開ける。
「こいつは――――!」
そこはせり出した崖だった。
そこから見えるのは、微かに朧気にぽつぽつと見える灯り。恐らくは人が住んでいる集落だろう。それはまるで、巨大な花畑に咲く花の様にも見える。
上を見上げれば、満天の星空が広がっていた。
こんなにハッキリとした星空がずっと俺の頭上にあったのだと、今さらながらに気付かされた。
「どうやら、気付けたかな」
背後から声をかけられた。どうやら今まで尾行されていたようだ。そして、いくら他の事に気を取られていたとは言え、ここまで徹底的に気配を絶てる人物はたった一人だ。
「何の用ですか?」
「いや、私も散策だよ。君と同じく、ね」
マスターはそう言いながら姿を見せた。
俺と同じく浴衣姿でここに来ている姿を、吾朗が見たら「山や森をなめないでください」と怒るに違いない。そう思うと、不覚にも思わず苦笑してしまう。
「それにしてもいい星空だ」
「ええ、確かに。俺はずっと余裕が無かったんですね。
……こんなに綺麗な物が、ずっと上にあった事に今更気付くなんて」
「だが、今、気付けた。それでいいじゃないか。それにしても驚いたよ、君が娘の……レイコの旅立ちを認めるなんてな」
「俺もあなたももう死んでますからね、相手が今更お嬢を狙う理由が無いですよ。もっとも、生きていれば、ですが」
俺はそう言うと、視線を横にいる人物に向けた。
その人は問いかけには答えずに、ただ笑った。
それだけで充分だ、伝わった。この人は自分の娘を俺に預けてからずっと戦っていたのだろう。俺以上に長く、辛い戦いを生き抜き、そして今に至っているのだ。
「私もだよ、星空がこんなに美しいのだと、今更知ったよ。
我々はこの世界の汚い部分をあまりにも見過ぎた。だから、当たり前の事にずっと気付けなかったんだな」
「それは……何ですか?」
「世界がこんなに美しい、という事だ。光があれば闇もある。
そんな当然の事実に目を背け、ずっと世界の裏側だけを見ていたという事だよ。少し、ほんの少し視点を変えるだけで物事の意味が変わる事にも気付けない位に、心も目も曇っていた」
マスターの言葉は、今の俺が感じていた全てだった。
だから、だからこそ、イタチは俺やマスターを殺したのかも知れない。だったら――。
「お互い、生きてみるのもいいかも知れませんね、表側を見る為に」
生き抜いてみるか。残った人生を……世界の裏側ではなく、表側から見届ける為に。……美しい世界を見ていくのも。
そして、いつか戦いをアイツが止めた時に立ち寄れる場所を作っておくのも悪くはないかも知れない。