オウル襲来
イタチ達がリゾートホテルで束の間の休息を取って二日後の夜。
第九区域の外れに、一見すると廃墟にしか見えないビルが立っていた。
近所に人気は無く、一時は幽霊が出るとか云われ、ちょっとした心霊スポットになった事もあるビルだ。
だが数年前に、そのビルに入ったオカルトマニアがビルの天井の崩落で事故死。土地一帯を管理する不動産会社は、それを契機にビルに誰も侵入出来ないように、周辺を完全封鎖した。興味本意の侵入者は捕まえて、警察に突き出したりもした。きつめの罰金を取らせてここに来るのは無駄足でリスクが高い、と周知させるのに時間がかかった。今でもビルの周辺には管理会社が警備員を置き、不法侵入を警戒している。
たかが、一つのほぼ崩れかけたビルの管理にしては過剰ともいえるその警備には理由があった。
ビルには秘密があった。その地下には、建築計画にも乗っていない極秘の金庫があったのだ。そこはキリュウの個人的な所有物を保管する為の場所で、その事は他の九頭龍すら知らない。
「がはっっ」
低い呻き声が響く。さっきから自分以外の警備員から応答は無い。恐らくは既に殺されたのだろう、あの化け物に。
間も無く自分も同じ運命を辿るのだろう。現に、さっきの接触で相手に大腿部を抉られた。何をされたのか分からない程の早業だった。すれ違ったかどうかの一瞬――その間にやられた。出血が酷い。このままでは間違いなく失血死を免れない。
カララン。何かが転がる音が聞こえ、警備員は手にしていたウージーから銃弾をばら撒いた。
カラカラン。物音が今度は背後から聞こえる。即座に振り向き様に残りの銃弾を全て撃ち尽くし――気付いた。
物音の正体は空の薬莢。それを相手が故意に撒いたのだと。
そいつが姿をゆっくりと見せた。もうウージーに残弾が無いのを確信しているのか、ゆっくりとこちらに近付く。
「さて、君には選択する権利がある。どちらがいいかな?
このまま苦しみながら失血死か、一思いに私がトドメを刺すか?
さぁ、どちらがいい?」
そう言いながら近付く男の声はぞっとする程に優しく、何処か安堵すら覚える。そして、その両手には血をしたらせるナイフらしき刃物。男が警備員のほんの目の前まで歩み寄る。
「いいだろう、楽に死になさい」
瞬時にその両手のナイフが煌めき――交差した。
ブツリ、という音と感触。
警備員はこれで死ねると思った。だが――
「あぁ、すまない。君はゆっくりと死ぬ。優柔不断な君に相応しくね」
男はこれ以上無い位にその表情を崩し、笑顔を浮かべる。
警備員の首がブラリと不自然に垂れ、そのまま落ちるかと思われた。だが、首は半分だけ切り裂かれたらしく。その中途半端な状態のまま半ばぶら下がった。
ゆらゆらと揺れる視界の中、これ以上無い絶望と痛みと血を吹き出しながら、警備員は絶叫し――やがて死んだ。それは彼にとって、とてつもなく長い数秒間だった。
男はナイフの血を舌を伸ばし、舐めるとゆっくりと鞘に戻す。
静寂がこの場を支配し、彼は漂う死の臭いを堪能した。
それからおよそ三十分後。同場所。
同じビルの地下金庫に向かう無数の人影。
彼等は一応にウージーサブマシンガンやレミントンM870ショットガンを装備し、移動する。足音は殆どせず、それでいて素早く進む彼等は間違いなく訓練を積んだ兵士そのもの。
その集団の中心にいるのは、兵士達とは明らかに雰囲気の違う男――キリュウ。もうすぐ六十歳になるはずの男には見えない程に機敏なその動きは年相応とは言い難い。
九頭龍という云わば、いつ命を狙われてもおかしくない立場になった彼がまず実行した事は身体を鍛える事だった。別にプロの兵士並の強さを求めた訳では無い。欲したのは、いざという時に動ける身体と体力だった。
元々一つの事に熱中する気質も手伝い、護衛と一緒に鍛えた甲斐もあって、今の彼はこうして自身の護衛ともほぼ同じ速度で、同じ様に足音を立てずに動ける様になったのだ。
「ボス、お待ちを」
その声にキリュウは足を止め、それを目にした。
凄惨極まりない光景だった。
この金庫を守る為に組織にも秘密で用意した警備員達が全て殺されていた。
それもご丁寧にその殆どがナイフで心臓を一突きされている。ここの警備員は元軍人ばかりで、素人に毛の生えた程度のチンピラは勿論、傭兵崩れが襲撃をかけてきても返り討ちに出来るだけの守りのはずだった。
だが、警備員が死んだのはさして問題では無かった。ここにあるモノは彼にとって大事な【保険】だった。
組織内の機密から始まり、他の九頭龍の情報。更に大戦時の国家機密に至るまで。
それは、かつて大戦末期の国家プロジェクトとして始まったものだったが、大戦終結後も政府の残党により推進され、大勢の犠牲者を出した挙げ句――最終的には破棄された最悪のプロジェクトについての資料。
九頭龍のメンバーもその【実験体】の存在自体は知っていたが、そもそもプロジェクトについては理解していなかった。
ただ、例外的にキリュウはそれを知っていた。何故なら、それを知る男と――【マスター】とは個人的な付き合いがあったから。
『ここにあるのは、私とマスターの【保険】だ。この事は私と彼の間の秘密……マスターなのか?』
死亡した警備員達は、この金庫室は雇い主であるキリュウの個人的な美術品の保管場所だと思っている。それは今、彼を守っている護衛の兵士も同じく。
だが、侵入者は美術品用の金庫には一切手をつけず、金庫室の片隅に作った【隠し金庫】を開いていた。
嫌な汗が背中を流れ落ちた。そして、マスターの事とこの殺しの手口から犯人に思い至った。
「まさか、【オウル】が動いたのか?」
確信したキリュウは迷わずに連絡を取る事にした。相手は行方不明となった九頭龍――クロイヌ。その緊急時の連絡先。
そもそも、クロイヌとの関係は彼が九頭龍になるよりも以前から――彼が【掃除屋】を繁華街で始める前にまで遡る。
◆◆◆
その男――クロイヌは突然、姿を見せた。
「俺は、あの零区域を綺麗にする。その暁にはあんたの口添えが欲しい。いずれ、【九頭龍】になれるようにな」
クロイヌは、いや、当時は【ブラックドッグ】と呼ばれたその男はいきなり話を切り出した。
正直云って生意気な若僧だとキリュウは思った。
初対面の相手に対して、しかもそれが九頭龍の一員である自分を知った上で身の程知らずにも言い放ったのだから。
だが今、自分の護衛は全員、この若僧にのされていた。
見事な手際だった。たった一人で、いくら奇襲をかけたからとは言え、こう簡単に全ての護衛を無力化した実力は本物。間違いなく訓練を受けた人間、軍隊出身……それも恐らくは高度な能力を持った特殊部隊の出だろう。
「私にお前の後見人をして欲しいのか?」
「流石に話が早い。あんたにも悪い話じゃ無いはずだ、あの第零区域が安定すればな」
「馬鹿を言うな、お前はどうやら流れ者だな?
確かに、私の部下を簡単に倒したその手並みには恐れ入ったが、だからといっってあの第零区域を甘く見るな。あそこには……」
「……無数の売人や、武器のディーラーに、よその街の犯罪組織の縄張りがあり、おまけにアンダーからの流民が跋扈する悪魔の住む場所、だろ?」
「分かってるじゃないか。あそこは組織でも手に余る、そういう場所だ。だから、本来の第十区域では無く、何も無い場所――【零区域】と呼ばれているのだ」
キリュウは思わず言葉を荒げる。これ迄、組織も第十区域を取り戻そうと何度か作戦を練り、実行した事があった。
だが、そのいずれも上手くいくのは始めだけ。
普段の第十区域、つまりは繁華街を中心にした一帯は様々な勢力の入り交じる混沌とした場所だ。彼等は日々、殺し合いを繰り広げ、互いに出し抜こうと画策する。
だが、そこに塔の組織という【強者】が参入した時、彼等は一転して手を組むのだ。
彼等はそれぞれ単独では組織に到底対抗出来る実力は持たない。
だが、その力を結集した場合は話は別だ。
組織の力がいかに強大でも、繁華街は彼等の庭。
無法地帯であり、警察の力など微々たるそこでは何でも許される。そう考える犯罪者は、手段を選ばない。
戦争でも往々にして起きる事だが、敵軍との戦いでの犠牲よりも、寧ろ占領してからのテロや、ゲリラ的な反撃による犠牲の方が実害が大きくなるものだ。
死者の数が多い少ないではない。
云わば敵地の中、駐屯する軍隊には精神的な疲労が溜まる。
いつ襲撃を受けるか予測出来ず、死と隣り合わせの毎日。
敵は必ずしも銃火器を持っているとは限らず、その内に全ての現地の住民が敵に見えてくる。疑心暗鬼に駈られた者は脆い。
銃を乱射したり、緊張に耐えきれずに自殺者が多発する。
そうした事件や事故に、今度は兵士の家族が不満を爆発させる。
それを契機に、国中で厭戦の気運が高まり、遂にはその地を撤退する事になる。
これと似た状態に陥った組織は結局、繁華街から手を引かざるを得なくなる――この繰り返しだったのだ。そうして、第十区域は何も無く、何も得ることの出来ない零の区域になったのだ。
それを、目の前にいる得体の知れない若僧は組織の力も無く、綺麗にすると言っているのだ。
「そんな事は不可能だ、あそこは余所者がどうにか出来る場所じゃない。いかにお前が強くてもな!」
キリュウはその言葉をにわかには信じられなかった。吐き捨てる様に目の前の愚か者に向け言い放つ。
「なら、まずデモンストレーションを見せるとしよう。三日以内に第零区域にある繁華街から、大物を一人掃除してみせる。その後で、改めてあんたに交渉をしにここに来る。返事はその際に貰う」
ブラックドッグはそう言うとその場を立ち去った。
そして、宣言通りに三日目に繁華街を拠点にドラッグや銃の売買をしていた大物ディーラーの事務所が放火された。
その焼け跡からは、焼死体が一つ見つかり、ディーラー本人だと確認され、死因は射殺と判明。容疑者は多数過ぎて不明。
そこに保管されていた大量のドラッグは当然、火に飲まれて消えた。
「返事を貰えるか? 相棒はボランティアでもやるつもりだが、俺はそうはいかん。戦争には金がかかるからな」
ブラックドッグは、当然の様にまたキリュウの目の前に姿を見せ、交渉の続きを始めた。
今度はキリュウも相手の話を聞かざるを得なかった。
そして結果として、手を組む事になる。
こうしてキリュウとクロイヌは共通の目的の為に同盟関係となった。
いつかは、お互いに殺し合いの抗争をするのかも知れない。だが、それは今ではない。今は互いに正念場なのだから。
◆◆◆
バン。
突然、金庫室の照明が落ちる。
護衛は念の為に暗視装置を備えていた。
即座に装備し、銃を構えた。その動きに無駄は無く、彼等の訓練度の高さを容易に想起させる。だが――――
カランカラン。
甲高い音と共に彼等の足元に転がる筒状の物体。
一人の護衛がそれを間近で目視し、「グレネード!」と叫んだ。
瞬間、バァン。という音を立て、爆発し激しい光を放った。
暗視装置を着けていた護衛達の視界が一瞬で奪われ、呻き、もがく。そこに音も立てずに男――オウルが忍び寄る。
暗視装置を着けていなかったキリュウは他の護衛よりも視界が早く戻った。
朧気ながらに見えるのは、左右のナイフを指揮棒のように振るうオウルの姿。
彼の指揮棒が振るわれる度に華麗な演奏の代わりに、血が飛び交い、巻き起こるのは、オーケストラへの歓声ではなく悲鳴と断末魔の声。
まさに瞬殺だった。あれだけの訓練を受けた護衛が全滅。キリュウはあまりに一方通行な殺人ショーを目の当たりにし、動けなくなった。
「さて、これで話せるな。キリュウさん」
あれだけの動きにも関わらず、オウルは一切息を切らしていない。裏社会最悪の殺し屋の異名は伊達では無かった。間違いなく彼も常軌を逸した怪物なのだとキリュウは確信する。
「私の命が狙いか?」
キリュウはオウルに話しかけながらも、周囲の状況を冷静に確認した。ゆっくりと後ろに下がる。
「普通の奴なら、この状況ではもう全てを諦め懇願する。
それでもあんたは何としても生き抜く為に状況を分析する。
流石は九頭龍の一人、とでも云うべきかな。肝が据わってる」
オウルは満足そうに頷く。その言葉にキリュウが一瞬、気を抜いたその時。
オウルは既に間合いを詰め、懐に飛び込んでいた。
トン、その音は想像以上に軽い。
一瞬、何をされたのか理解出来なかった。
身体が熱い。何か熱いモノが溢れだしそうな感覚。だが、身体は正直だった。力は抜けていき、その場に立っていられなくなる。
「――痛みは無いはずだ」
オウルは、その場に倒れた相手を見下ろしつつ笑顔を見せる。そこから伝わるのは愉悦。
キリュウは始めて感じるその感覚に困惑した。
「お前がここにいるという事は……マスターは敵なんだな?」
「……そういう事だ、あんたにはメッセージを伝えて貰う」
そう言いながらオウルは腰に納めたナイフを取り出す。その刃先を舌で軽く舐め――振り降ろした。
「クロイヌに宜しく」
それが、血に染まったキリュウの耳に届いた――言葉だった。




