1章狐狸風波 2・鎌倉九郎
2 鎌倉九郎
新都西区三十五・夜玉内入口付近
オレンジ色の街灯の下に男がひとり。
ガードレールに腰を下ろしてぼんやりと空を眺めていた。星はおろか月すら見えないただ真っ暗な闇が広がる空。それは人工の夜空。
たくさんのポケットが付いた革のパンツに紫のカーデガン、黒のインナー。髪は短髪でそれを整髪料でツンとたたせている。あどけない少年の表情だが、目は切れ長でどこか気品を備えていた。耳には三連のピアス。そこに差し込んだイヤホンは旧時代の音楽演奏器に繋がれている。わずかに流れてくる音楽にリズムをとりながら、横に置いていた缶ビールを手にすると瞳を閉じてゆっくりと喉に流し込んだ。
外の世界ではめったに見ることのない自動車が時折背後の道路をけたたましい音をたてて通過していく。
人通りもまるでないが稀に通り過ぎる人影は殺気に満ちたギャングのような輩ばかりだった。獲物を探して徘徊している様子だったが、ガードレールに座るこの男の顔を確認すると慌ててその場を離れていった。
向こうから場違いな格好をした女がひとり、キョロキョロと辺りを窺いながら歩いてくる。
フォーマルな感じのブラウンのスーツ。黒のストッキングに黒のハイヒール。薄いブルーのスカーフ。髪は肩まででナチュラルな茶色。化粧は決して濃くなく、大きく真っ直ぐな瞳で興味深げに辺りを見渡していた。
この夜玉では数分で餌食になるであろう勘違いした観光客丸出しである。
男は失笑しながらフーッとため息を地に吐いて立ち上がり、がらりと表情を変えて手を振りながら女を迎えた。まるで彼女の到着をずっとここで待っていたかのようであった。
「……どなた……でしたか?」
女がじっと男を見つめながらそう尋ねた。
男は満面の笑顔を浮かべて女の目前に立ち、
「わしゃここの何でも屋や。姉ちゃん、ここは初めてやろ?」
「ええ。どうしてわかるの?」
ここに入れば決して認めてはいけないことを簡単に容認して、女は首をかしげる。
男であれ女であれ素人は目をつけられてよってたかってカモにされる。下手をすれば命を落としかねない。
ここで生き抜くためには相手をおびえさせなければならない。自分がいかに危険な存在であるのかをアピールし続ける必要がある。それが野生の世界の鉄則だった。
この女はそんなことまるで考えていないようで不思議そうに男を見つめていた。そもそも声をかけてくる人間をいちいち相手していたらきりがない場所だ。声をかけてくる連中は百%騙そうとしてくる。ここにはおしゃべり好きなお人よしなどいないのだから。
男は満面な笑顔を崩すことなく、
「道案内するさかい目的地を教えてや。安心せえ、これでも夜玉に隅々まで熟知しとる。大船に乗ったつもりで頼ってもらってええで」
「そうなんだ。よかったー、GPSも上手く動かないし困ってたんだよね。じゃあ、お言葉にあまえて……ええと、富士屋ホテルね。どう?知っている?」
「富士屋ホテル……もちろん!ついてきてや」
そう答えると男はすぐに反転して歩き始めた。
女は慌てながら、
「ちょ、ちょっと待って!あの失礼なこと聞くけど……」
「なんや?」
「あの……違ってたらゴメン。これって、あの、ナ、ナンパじゃないよね?」
「はあ??」
「ウウン。違うよね。いや、なんていうか歩いていて男の人から声をかけられるのって生まれて初めてだから……これが噂に聞くナンパなのかなーって……ゴメンね一応確かめたくて。」
「おもろい姉ちゃんやな。期待に応えられず申し訳ないけど、わしが声をかけたのはビジネスや。無事に目的地まで連れて行ったらそれ相応の見返りはいただくよって」
「見返り?高いのかな……。あんまり持ち合わせないんだけど」
「しゃあないの。まあここに初めて来たお客さんやからサービスしとくわ、富士屋ホテルの隣にあるバーでお酒奢ってくれたらチャラや」
「お酒?私も一緒に?」
「そうや。なんか問題あるか?」
「え……いや、ないけど。じゃあ、これってやっぱりナンパじゃないのかな……」
「ほら!ブツブツ言ってないでさっさと行くで!」
「ちょっと、待ってよ。まだ名前も聞いてない」
「なんや、外の世界はいちいち自己紹介せな仕事もできんのかい。まあええや。わしの名前は鎌倉九郎。九郎って呼んでかまへん」
「九郎……くん。」
「くんはいらん。九郎って呼び捨てでええよ」
「そっか。よろしくね九郎!私の名前は神楽神酒。神酒って呼んで」
「神酒……よし!それじゃ神酒ちゃん、行こう!!」
こうして神楽神酒と鎌倉九郎は共に富士屋ホテルを目指して歩み始めた。
もし神楽神酒が鎌倉九郎以外の人間に最初に接触していたら、そこで彼女の人生は終わっていたに違いない。彼女はこの危険地帯についてあまりに無知であった。
林立する寂れたビル。道にはゴミが散乱し、破損した乗り物や割れたガラスの破片などもそこかしこに見られた。
人間の姿はほとんどない。
僅かな街灯の光を頼りに進んでいく。
「ずいぶん静かな所なのね。聞いていた話とはまるで違うわ」
神酒が斜め前を歩く九郎にそう話しかけた。
九郎は頷きながら、
「ここはな。夜玉の中でここら一帯だけは特別なんや。うーん、なんて言えばええやろ……唯一の安全地帯ゆうところやろか。ここだけはどこの勢力の支配下にもおけんようになっとる。街の入口やさかい暗黙の掟で守られとんのや。もう少し行けばごっつ喧しくなるで」
「へーそうなんだ。楽しみねー」
「神酒ちゃんはここがどんな場所か知っとって来たんか?」
「ええ、大和帝国で唯一合法的に賭博行為が許されている場所。私、昔からルーレットやってみたかったんだ。九郎はやったことある?」
「まあな。けど、そうそう勝てるものじゃないで。わしの知り合いの茨木っていうアホな女は持ち金全部巻き上げられて泣く泣く外の世界に出稼ぎに行かされとったからな」
「怖いわね」
「……神酒ちゃん、怖がるポイントがちゃうやろ。ここは身分証の要らない世界や。外の世界で人を騙したり殺したりして居場所を失った人間が集まる場所や。ここには警察はおらんし、軍も一切介入せん。何をしようと法で裁かれることはないんやから悪人たちにとっちゃ楽園みたいな所やな」
「聞いたことがある。夜玉は大和帝国で唯一『自由』の守られた場所だって」
「自由って言ったら聞こえはええけど、ようは暴力と権力が支配する野生の王国や。弱い人間は徹底的に踏みにじられる。本当に好き勝手できるのは頂点に君臨する一部の人間だけや。まあ、それは外の世界も同じか……」
「ここって夜しかないって聞いたけど、本当にそうなの?」
「ん?そうや。だから夜玉って呼ばれとるんや。街全体が巨大な電磁シールドに包まれとってな、完全に外部の光を遮断しとる。永遠に夜が続く場所。それがここや」
「永遠に夜が続く場所か……なんだか寂しいね」
「そうでもないよ。住めば都って言うやん。慣れてしまえばこっちのほうが気楽やねん。昔から夜遊びは好きだったしな」
「夜遊びし放題ね」
そう言って神酒は笑顔を浮かべた。
未知の世界が一体この先どんな感動を与えてくれるのだろうか。期待感で胸が疼く。今のところ完全に過去を遮断できている。
そうだ。過去を切り離してこの場所を満喫しよう。新しい発見や経験がこの胸の空洞を埋めてくれるはずだ。
「そうや、何点か注意事項を伝えておくで」
九郎が立ち止まって神酒の顔を覗き込むようにして話し出した。神酒も足を止め頷く。
「九郎先生お願いします」
キラキラした瞳で九郎を見返した。
「お、おう。そやな……まず、誰に話しかけられても無視すること。誰に誘われてもついていかないこと」
「まあ。もうやってしまっているわ。どうしよう」
「ええよ。これからの話や。後は脇道には決して入らないこと。歩くのはメインストリートだけ。誰がどんな目にあっていようが係わらないこと。あとは……」
あとは初めての雰囲気を出さないことと言おうと思ったがやめた。おそらく神楽神酒にはそんな演技ができっこないことがわかったからだ。
「わかったわ。」
そう答えて神酒はルンルン気分で歩き始めた。
前方には夜の闇のなかにカラーネオンが浮かび上がっている。ピンクにブルー、グリーンにオレンジと色とりどりに夜を飾っていた。歩く人の数も確実に増えてきている。
二人は夜玉の中心街に近づきつつあった。