1章狐狸風波 1・神楽神酒
ふうせん本伝 「一族よ 深淵たれ」 (F.C.一C)
1章 狐狸風波
1 神楽神酒
白狸の筆の穂にたっぷりと墨を含ませ、和半紙の上にゆっくりと進ませる。この二十年欠かさず続けたきた構えと何ら変わらないが、筆を下ろす力が沸かない。心が止まっているのだ。穂から墨汁がポタリと落ちて半紙には黒い涙のような滴が浮かび上がった。
神楽神酒は筆を静かに硯の上に置いた。
無意識のうちにため息がこぼれる。
ため息をひとつする度に幸せがひとつ逃げていくからやめなさいとよく母に注意されたが、今の神酒には残されている幸せなど無かった。あるのは絶望だけ。ため息をしたとて失うものは何もない。
食事が喉を通らなかった。水すら飲む気になれない。
国営放送されている映像を見ていると場面場面で昔が思い出されて心が痛んだ。
生まれてきて二十四年、こんな気持ちになったのは初めてだった。身体の痛みには耐える術があっても、心の激痛には抗うことができない。いつまでも湧き上がる悲しみに心も体もバラバラに引き裂かれそうだ。気持ちを落ち着かそうと慣れ親しんだ書道を試みたものの無駄であった。書きたいという意欲が沸き上がらない。
自分がどれほどあの男を愛していたのかを痛烈に思い知らされていた。
この三年半の年月でどれほど深く結びついてきたのかを……彼との日々が自分にとって生きる糧、幸せのすべてであったことを改めて思い知った。
数えきれないほどの幸せな思いでの数々。誕生日、クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、付き合い始めての記念日、大晦日には深夜に神社の初詣に並び、夏は祭りに花火大会……。毎週水曜の夜は駅ビルで食事をした。たわいもない会話のすべてが楽しかった。それまでは興味もなかった映画や遊園地、ゲームセンター、カラオケなども一緒に楽しむと時間が過ぎるのを忘れて盛り上がった。
神酒の両親との約束で朝まで一緒にいることはできなかったが、夜のひと時をひとつの布団で寄り添っていると安堵ですべての悩みが吹き飛んだ。
優しいキス。
彼の唇が振れていないところなど神酒の身体にはどこにもない。文字通りすべてを捧げて愛した。
新しい女性ができたと別れを告げられたのは、毎週食事をしてきたレストランだった。
晴天の霹靂。
言葉の意味を理解できない。喋りながら涙を流している彼を見て終わりを知った。憎しみが湧き上がる。彼の不貞をなじる気持ちも当然ある。
だが、それ以上にこの三年半の彼との日々は宝物のように輝いていた。
愛おしさが憎しみを上回れない。自分自身、仕事との両立などかっこつけずにもっと彼の傍に居るべきだったと悔いた。
別れたくないと神酒は拒絶した。
心の底からそう思った。
なぜこの幸せを失わなければならないのか……なぜ捨てられなければならないのか……受け入れることなど決してできなかった。
年甲斐も無く喚き散らした。
泣きながら話続ける彼の言葉など何一つ残ってはいない。ただ、彼の泣き顔を初めて見たという驚きと、自分の知らない一面が実はたくさんあったのではないかという不安、焦り、後悔がごちゃ混ぜになって脳裏を駆け巡る。
三年半付き合って喧嘩など一度もしなかった。いつも笑顔と興奮の連続。怒ったことも悲しんだこともない。それが自慢だったが、結局は深い付き合いになれていなかっただけかもしれない。
あの日以降も何度も会った。
身体をあわせれば繋ぎとめられるとも思ったが、結果は変わらなかった。彼の意思の強さを思い知らされるだけ。会うたびに距離を感じた。
会えない日、彼は別の女性と幸せな時間を過ごしているのだと考えると狂いそうになる。空を見ても花を見ても時計の針を見ても、それにつながる彼との思い出がフラッシュバックして心を締め付ける。
一思いに恨むことができればどんなに楽か。
しかし、それができないほどに心から彼を愛してしまっている。
夜は愛憎がよけいに高まって眠れない。
どうすればこの苦しみから逃れられるのか……答えはひとつしかない。彼を取り戻すことだけ。しかしそれはどんなに望んでも叶わぬ夢。すべては終わったのだ。
やれることは感情を押し殺すことだけ。未練を捨てて、彼からプレゼントされたブランドもののバックもミュールもネックレスも、このピンクサファイアの指輪も……思い出とともに消し去ることだけだった。
わかっていたって、そんなことはできやしない。
手のひらに埋められたホクロ一つ分の大きさのカメラから目の前に投影される3Dの映像の数々。
映る神酒と彼の二人の表情は天使のように満面の笑顔。
切り替えてみると彼からのメールの数々が山のように残っていた。
「愛してる」の言葉が惜しげも無く至る所に羅列されている。
あれもこれもすべてを捨てない限り前には進めない。頭ではわかってはいるが、全身全霊でそれを拒絶している自分がいた。
と、着信の音が響いた。
以前であれば今日はどんなメールが来るのかと心待ちにしていた。この着信音を聞いてワクワクしていたのはつい一週間前の話なのだ。
しかし今は違う。
彼からメールは届かない。
今更といった感じだが、未練たらしくメールを送って彼に嫌われたくはなかった。だから神酒からもこの五日間送ってはいない。
送られてきたメールを開くと眼前に文字が浮かび上がる。
実際は眼球に埋められたカメラから映し出されているので、本人しか見ることのできない映像だ。
【ご当選おめでとうございます。このたびの抽選の結果、神楽神酒様に当ホテルの二泊三日無料宿泊券が当たりました。日付はF.C.八十八年九月二十六日からの宿泊に限らせていただきます。新都西区三十五夜玉内、富士屋ホテル】
神酒は何度もその文章を読み返して記憶をたどった。
一度も宿泊したことのないホテル名。
そもそも夜玉など危険すぎて立ち寄ったこともない。
一体何の抽選に申し込んでいたのだろうか。彼と過ごした日々のなかで面白半分に抽選に申し込んだことが何度かあった。おそらくその中のどれかに当選したのだろう。
彼との日々を思い出し、また神酒の心が強く締め付けられた。火に油を注ぐようなこの当選通知を恨んだ。
そもそも限定されている日付は明日だった。
ここ五日は会社から有給をもらって部屋に籠っている状態で予定など入っていないが、それにしても唐突すぎる。こちらの都合などお構いなしだ。
抗議と断りの電話でもしようかと思い、ホテルの番号を探そうと送信先をクリックする。
傍から見ていればひとりで指の運動でもしているようにしか見えないだろうが、自らの眼前に映し出された映像はその神経にも接続されていて指先でいくらでも情報を引き出せるようになっている。
「もしもし、お電話ありがとうございます。こちら富士屋ホテルでございます。どのようなご用件でしょうか……」
フロントの係りの声が聞こえた時点で、神酒は接続を解除した。
考えてみればこんな時だからこそ多少強引な誘いに乗るべきかもしれない。
犯罪者の温床になっている夜玉に近寄る一般市民はまずいない。いるとすれば絶望に駆られた自殺志願者か市民権を剥奪されて流民となったかのいずれかである。
一生で一度たりとも訪れることのないだろう場所。
もしかしたらこの苦しみを麻痺させてくれる唯一の場所かもしれない。
抑うつ状態の治療薬をしこたま飲んでここにいても苦しみは増すだけなのだ。
「行ってみよう」
神酒は頷きながらそう一言つぶやいた。
神楽神酒の部屋は超高層ビルの三十八階にあった。
地上まで百七十mはある。すべての建物とは磁力道で繋がっており地上に降りる必要はない。神酒自身地上に降りた記憶はなかった。
地上はゾンビに襲撃される危険を孕んでいるため、都市は上空で広がり、発展し、市民はそこで暮らしてきた。
磁力道は空間に存在する見えない道であり、人間の有する磁力にだけ反応する。
移動速度も自由自在で、その気になれば三百㎞先の大型都市まで二十秒で辿り着くこともできた。
最上空の赤い霧の内を通る磁力道は高級官僚しか使用できない。
神楽神酒がその次に整備されている緑の霧の内を通る磁力道を通過する権利を有しているのは、彼女の親が政府関係者だからである。ちなみに付き合ってきた男も政府機関に所属しており、休日には二人揃って緑の磁力道を通っていろいろな場所へ旅行に行ったものである。
この時代には一般的には車や飛行機、船や電車などの移動手段は存在していない。すべてこの磁力道を活用している。それで事足りたからである。
ちなみに緑の下は黄色、橙色など身分によって通ることのできる道が決まっており、最下層になると地上すれすれのところに僅かひかれた青の磁力道を使用することになっていた。青になると移動速度の自由はなく、徒歩と同じ労力を必要とする。
生まれながらに定められた階級による身分差別はかなり激しかった時代だといえる。
九月二十六日午前七時。
神楽神酒は久しぶりに髪をとかし化粧をし、今まであまり着ることのなかった比較的思い出の少ない洋服に身を包み部屋を出た。
持ち物は小さなカバンひとつ。中身はとるに足らない物ばかりだった。身分証明や電子マネーなどは全て手のひらに埋め込まれているコンピューターチップが代用してくれる。他にも道の混雑具合や気象の状況、自分の体温や心拍数、血圧まであらゆる情報が眼前に翳した指先ひとつで引き出すことが可能であり、どこにいても誰とでも連絡がとれる。
三十八階のドアを開き、緑の磁力道に足を踏み入れる。あっと言う間に手のひらに埋め込まれたCPが接続され、神酒は眼前で指を走らせルートを確認した。この時点で許可されていない道路に侵入した者は磁力を失い落下して死亡することになる。
新都西三十五までのルートは確保できるが、夜玉への一般市民の立ち入りを禁じられているので磁力道でのルートはない。ギリギリまで行って、そこからは地上を通って侵入するより他に手段がなかった。
親からは小さい頃から、絶対に地上に降りてはいけないと教わってきた。このことを父や母が知ったらどれほど驚き悲しむだろうか。そんな罪悪感に後ろ髪を引かれながら、神酒は出来る限り早い速度で西三十五を目指した。あれこれ考えだすと実行に移す勇気を失う恐れがある。
(考えることには、もう疲れちゃった……。とにかく考えるのはやめにしよう)
こうして神楽神酒はこの時代の最も重要な分岐点と言われるF.C.八十八年九月二十六日を、その発生地である夜玉で迎えることになる。