序章 6
6
新笹子隧道と呼ばれていた全長三㎞に及ぶトンネルに足を踏み込んだ梶原平三は、漆黒の闇の中を音だけを頼りに進んでおりました。
足音と息づかいから金棒を持った男が背後をついてくるのがはっきりとわかります。
平三は武器はおろか足元を照らすものすら持っておりません。
それでもひたすら前進し続けるのは武者としての意地でございました。
時折行く手を遮る置き捨てられた廃車を、手探りで回避しながらジリジリと進んでいきます。
天井から滴り落ちる水滴が、ピシャン、ピシャンと音をたてておりました。
闇の中から低い唸り声のようなものが聞こえてきたような気がいたします。
こちらに気づいて走り寄ってくるような足音がしたような気がいたしました。
恐怖が幻聴を呼び、さらに恐怖を募らせます。
物凄い量の汗が全身から噴き上がり衣服を張り付かせました。
一体どのくらい歩いたのか……。
方向すらもままならぬ状況が随分と続きました。
平三がふと足を止めます。
後ろからくる男と軽く接触しました。
「どうした?」
男の声をシッと言って平三は制しました。
耳に全神経を集中します。
「……うー……うー……」
確かに声がしました。
後ろの男もそれに気づいたのかビクリとして立ち尽くします。
(どこだ……)
平三が耳を澄まし、必死になって声のする方角を確認しました。
しかし反響が強く定かではありません。
「……うー……うー……う、う??ひゃ……あああああ」
それが、歓喜の声色に変化したのがわかりました。
生きた人間の存在を発見したときのゾンビたちのリアクションだということは充分承知している平三でございます。
絶望を感じながらも相手の挙動を窺います。
おそらく傷口の血の匂いを嗅ぎつけたのでございましょう。
声の主のズルズルという足を引きずるような音が少しづつ大きくなってまいります。
「ヒャー!!!ヒャー!!!」
遠くでも数体の咆哮。
後方からも同時に聞こえてきたかもしれません。
(囲まれた……)
もはや自刃する術すらありません。
(いや、せめて戦って果てよう)
決意が固まり拳を握って前に一歩踏み込んだとき、空を裂き、背後からの一撃。
殴りつけてきた背後の男の金棒の先が平三の背中を打ったのでございます。
鈍い痛み、呼吸が止まります。
ドサリと平三は地面に倒れました。
この時もし平三が窮して立ち止まっていたら金棒は平三の頭を叩き割っていたことでしょう。足掻こうと前に踏み出した勇気が結果、平三の命を救いました。
手元すらも見えない視界の中で振るった一撃に手ごたえを覚えた男は、さっとその場を離れて前進します。
男の思惑では、頭蓋骨を割られて血だらけになって倒れた平三にゾンビたちが群がる予定でございました。
しかし、振るった金棒はそこまでのダメージを平三に与えられず、そうとも知らずに動き出した男が逆にゾンビたちの群れの中に突入していきます。
暗闇より伸びた腕がまず男の服を掴みました。
驚いて金棒を地に落とします。
カラン
無言のまま必死に抵抗する男の脚に、音を聞きつけた五体のゾンビがしがみつきました。
それでも尚無言で身体を振るって逃れようとするのですが、腕を掴まれ、腰を掴まれする中でいよいよ動きがとれなくなってまいりました。
やがて仰向けに引き倒され、よってたかって首や顔や耳や鼻を食いちぎられます。
それでも男は無言でした。
最後には顎を食いちぎられ、声を出すに出せない状態になってしまいましたが。
平三はようやく呼吸ができるようになり、息を整えながら出方を待ちます。
十体以上のゾンビの気配を感じました。
(なぜ、あれだけの騒音があったのにここのゾンビたちはトンネルから出てこなかった……なぜここを動かないんだ?)
競うように肉を頬張る音と歓声を耳にしながら平三は必死に考えます。
(どちらにせよ、この隙にここを離れねば……)
立ち上がると手探りで壁を探し出し、それに寄り添うようにして前に進みます。
カラン
足が何かに触れたかと思うと、それは高い金属音をたてて転がりました。鉄パイプのようなものに違いありません。
「ヒャー!!!!!!」
金属音に反応してゾンビたちが一斉に声をあげます。
平三は地面を這って鉄パイプを探します。
武器さえあれば……その一心でございました。
しかし、平三の両手はむなしく闇の空を掴みます。
焦る平三ですが、ゾンビたちは歓声はすれども、なぜか走り寄ってくる気配がありません。
そして何かを引きずるような音が至る所から聞こえてきます。
(あった!)
冷たい感触。
手頃な太さの鉄パイプでございました。長さもそこそこありそうです。
(どうせ死ぬならば、死にもの狂い戦ってからだ。見ていろ浩介)
そう自分に言い聞かせて、壁を背に構えます。こうしておけば敵を背後に迎えるようなことはなくなります。
フーっとひとつ大きく息を吐くと、突然足に縋り付いてくる腕が……。
平三が渾身の力を込めて振るうと、腕の主は首の骨を砕かれながら吹っ飛んでいきました。
さらに正面から足を掴む腕。
上段から一気に振り下ろします。グチャという何かがめり込む音がしてゾンビが頭を砕かれ這いつくばります。
もちろんこんなことでゾンビを倒すことなどできやしないことは、平三もわかっております。
ゾンビは「何をしても殺せない」と言われていますから。
それが不死者という名の所以だと。
左前方から足にしがみついてくる数本の腕。
平三は逆の足で強く踏み込むと闇の中、鉄パイプを地面と平行に振るってゾンビたちをなぎ倒します。
(なんだ、この手ごたえのなさは……こいつら本当にゾンビなのか……)
声も匂いも確かにゾンビそのものです。
しかしプレッシャーはまるで感じません。勢いもなく、なぜか皆、地を這って襲ってきます。
と、突然昼間のように眩しくなって、視界が開けました。
「まっ、こんなものか」
女の声。そのすぐ傍からは別の男の声が。
「やっぱりこの男が生き残ったな。茨木の見立て通りだ。さすが男を見る目があるな」
「いつ私がそんなことを言った?酒呑!いい加減にしな」
平三がようやく光に目が慣れて辺りを見渡すと、トンネル内の地面は這いつくばったゾンビたちで覆われておりました。
ゾンビたちは顔を見上げて真っ白な目を見開いて獲物を探しております。
しかし、腰から下がありません。
すべてのゾンビが上半身だけなのでございます。その数ざっと五十ほどでしょうか。
低い唸り声をあげて近寄るゾンビを平三は鉄パイプで払いのけます。ゾンビは簡単に転がっていきました。
「お前たちがやったのか?」
平三がやや離れたところに立っているこの男女にそう話しかけました。常に先頭をいっていた若者二人組の姿がそこにはありました。。
長身の男は三mはあろうかというほど長い大薙刀を片手で収めております。その足元にはビクビクと動き続けるゾンビの下半身が無数に転がっておりました。
パチパチパチ
女が拍手をして、
「その通りだよ」
と、まるでとるに足らないお使いでも済ませたかのように軽く答えました。
さて、この続きはまた後ほどとさせていただきます。