序章 5
5
旧国道二十号はその昔、甲州街道として江戸と甲州や信濃を結んだ要路でございます。
大月には笹子峠という急な隘路があり、旅人を苦しめておりましたが、昭和の時代になって新笹子隧道という三㎞のトンネルが完成しております。
こちらが大和帝国西三十二域(旧日本国山梨県甲府市)と新都の道程の約半ばといったところでございましょうか。
梶原平三、中村浩介がここに辿り着いたのは夜の帳がおり、月明かりだけがわずかに道を照らしているような時刻でございました。
他に十一名いた男たちも散尻で、振り返って見ても確認できるのは二人ばかり。無灯の単車を静かに走らせてついてきておりました。
トンネルの目前はボロボロに朽ち果てた廃車が四十~五十台ほどひしめいております。トラックやバスなど大型の車が多く見られました。
あの日、二千十六年九月二十六日に避難をしようとしてここを通り、渋滞に巻き込まれて動きがとれなくなったのでしょう。
八十年あまりの月日が経ち、鉄の残骸だけが当時の状況を物語っておりました。
平三がリアシートを降り、単車の前を歩んで先導し、迷路のようになっている廃車の隙間を縫っていきます。
ゾンビの気配は至る所から感じられました。
低い唸り声、脚を引きずりながら動く音が虫の鳴き声に交じって聞こえて参ります。
何かを踏んで音をたてぬよう慎重になっていると、足元を動くムカデが目にはいりました。
アスファルトの割れ目から生えた雑草の周囲には無数の小さな虫たち。食われては消えるたくさんの命。そしてもっとたくさんの生まれてくる命。すべてが何の庇護もなく自由に逞しくその命が尽きるまで生きているのです。月光に照らされた自然の世界をぼんやり見ていると、平三は人間も同じようなものだなと妙に感傷的になっておりました。
目の前の道を向こうから進んでくる影があります。
平三は深く深呼吸をし、己の生を全うすべく刀の柄を力強く握りしめます。
廃車の車内を覗き込みながら歩んでくるゾンビを三歩踏み込んで斬りつけ、その首をはねたところで平三の刀は力尽き真っ二つに折れました。残骸が地面のアスファルトに落ちて金属音が鳴り響きます。
単車を押す中村も足を止めて息を飲みました。
満月に雲がかげり、辺りは途端に漆黒の闇に包まれます。
周囲のゾンビ六体ほどが音に気づいて唸り声をあげました。
ゾンビたちは、どちらに走り出せばいいのか耳を澄ませます。
平三も動けません。武器も無くゾンビと対峙することなどできるわけもありませんでした。
額や背中にぶわっと汗が噴き上がります。
死がすぐ隣に迫っていることを感じました。
「ドン、ドン……」という足音が右からも左からも聞えてきます。
「うー……うーうー……」という低く長い唸り声がすぐ左後方でしました。
走り出したい衝動に駆られます。
おそらく中村も同じ心境だったに違いありません。
しかし動けばあっと言う間に勘付かれてしまうでしょう。
そもそもこの暗闇の中を闇雲に走っても何かの障害物にぶつかって転ぶのが関の山です。
と、視界が急に昼間のように明るく照らされました。
背後の中村が単車のライトを点灯したのです。
目の間に立ち塞がっている横転したバス。その前にひとつの影がくっきりと浮き上がっています。
黒く汚れた全裸の身体に無数の緑の斑点。
大きく開いた口には歯が無く、石でも砕くほどに固く尖った歯茎が無数に並んでおりました。そこから白い涎がボタボタと地面を這い回る虫たちの上に零れ落ちているのです。
こちらを向くその目はまるで信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、その表情はどんどん歓喜の笑顔に変わっていきました。
そして絶叫。
それはまるで恋い焦がれたアイドルを見つけた女の子のようなかん高い雄叫びでございました。
「ヒャー!!!!ヒャー!!!!!」
脇目も振らず一目散で駆けてきます。
なんというダッシュの力でしょうか。やせ細った脚を地面のアスファルトに突き刺すようにしてがむしゃらに突っ込んでくるのです。
「乗れ!平三!」
その声で我に返ると、平三は単車のリアシートにまたがります。
勢いよく単車が走り出しました。
ハンドルを握る中村が体勢を低くして身構えます。
ゾンビは火に飛び込む蛾のように走り込んでくると単車のフロントを抱きかかえ、中村の頭にその歯茎をめり込ませました。
ギャリギャリギャリ!!!
単車が横転し、ゾンビと中村もろともバスに激突します。
平三はその前に地面に転げ落ち、激突からは回避できておりました。
「浩介―!!!」
平三が絶叫し、中村の名を叫びますが、静寂の闇からは返答がありません。
平三が立ち上がると、激突した単車が炎をあげ、辺りを照らしました。
火に包まれながらもゾンビは中村の頭に食らいつき、その皮や肉を満足げに頬張っております。食われている中村は僅かに動いておりました。
ドーン!!!
という爆音がしたかと思うと、中村もゾンビも跡形も無く吹き飛びました。
これによって笹子峠の山林に蠢く三百以上のゾンビたちが一斉に躍動し始めたことは言う間でもありません。
後方から平三の後を追ってきていた男が二人駆けつけました。
八方を塞がれ、バラバラに逃げることもできなくなったのです。
男のひとりは金棒を手にしており、もうひとりは槍を持っています。炎に浮かび上がったこのふたりの表情はまさに死人のように疲れ切ったものでございました。
全速力で駆けつけたゾンビたちは懸命に生きた人間を探します。
平三を含めた三人は近くのトラックの下に逃げ込み、息をひそめました。
炎に照らされアスファルトに映る無数のゾンビの影が、バタバタと交差するのが見えます。
荒々しい唸り声……臭気を調べる鼻を鳴らす音……。
包囲網が徐々に狭まっていきます。
五分気づかれなければ……。
呼吸をするのも忘れ、平三は祈るような気持ちで分裂するように増えていく影を見ていました。
「うわあー」
近くで悲鳴がしたと思うと、槍を持ってトラックの下に隠れていた男がゾンビに引きづり出されました。血の匂いが強かったに違いありません。
割れんばかりの歓声が起こり、あっと言う間に悲鳴はかき消されました。
蟻の巣に突っ込まれた虫のように、群がられ、生きたまま肉を噛み切られます。飛び散る血がさらにゾンビたちを興奮させている様子でございました。
平三はその隙にバスを這い出て、トンネルに向かいました。生き残ったもうひとりの男も後に続きます。
一瞬だけ振り返った視界には、血と肉を奪い合うゾンビたちが数百と重なり合い、山のようになっている光景だけが映っておりました。
月が僅かに顔を出し、足元を照らします。
百mほど走った先にはより深い闇を携えたトンネルが口を開いておりました。
三㎞ほど続くトンネルだということを平三は事前に中村から聞いております。
武器も無く、単車も失った状態では、到底生きて出口に辿り着けるとは思えません。
「誰も出てこない……」
金棒を手にした男がポツリと言いました。
確かにこのトンネルからはゾンビたちは出てきません。山林からは爆音や悲鳴を聞いて続々とゾンビたちが集結しつつありました。
(この中にはいないのか……なぜだ?獣の住みかなのか……?)
どちらにせよ選択の余地はありませんでした。ここに立ち止まっていればいずれゾンビたちに気づかれます。
進むしかないのです。
例えここ以上の地獄であったとしても。
平三は息を整えると、無言でトンネルに入っていきました。
金棒を持った男も少しだけ遅れて続きます。
炎を中心に祭りのようにはしゃぎまわるゾンビたちの歓喜の声だけが、二人の背中を追ってきました。
さて、この続きはまた後ほどとさせていただきます。