2章霧の中の生命(いのち) 1・指令
ふうせん本伝 「一族よ 深淵たれ」 (F.C.1C)
2章霧の中の生命
1 指令
F.C.八十八年 九月二十六日 午後七時 新都西区三十五・夜玉
バー『レッドアイ』店内
「この女性を三十時間護衛する。アトミナーに与えられた今回の任務は以上だ」
平静少将が店を去ってから、隊長の北条勇が改めて任務を確認した。
上層部の指示によって部隊は一年前に永久解散したままの状態のである。
任務を受ける資格が彼らにはないはずであった。
そんなことはお構いなしで北条は話を続ける。
「前衛に茨木、酒呑、真人、斥候に九郎、後衛に熊谷、梶原と私。殿に藤原。この布陣でいく。目標は今後、<真血>と呼び、後衛に配置することとする」
「<真血>?」
鎌倉九郎は目標の呼び名に違和感を感じながら、カウンターで幸せな顔で酔いつぶれている神楽神酒を見つめた。
夜玉の外の世界であればどこにでもいるだろう普通の女性である。
一年前の<永久解散>の命令を覆してまでアトミナーを再結成し護衛する目的は、九郎にはさっぱり見当がつかない。
事前に神楽神酒について調べるだけ調べたが、両親が政府関係者であること、以前交際していた男も政府関係者であることぐらいしか特別な点は見つけられなかった。政府関係者といってもどちらも格別高い位にいる超高級層というわけでもなかった。
それが三十五人ものプロの要人警護を連れてこの新宿に来た(本人は当然ながら知らない事実であるが)。
しかも、大和皇帝直属の超極秘組織アトミナーの兵士二人(九郎と真人)も念のために護衛に回されたぐらいの扱いだ。
過去に例が無いほどの特別警戒である。
皇帝警護と同等ともいえる力の入れようなのだが、諜報員として第一級の腕前を持つ九郎がとことん時間をかけても、神楽神酒と大和皇帝の関係は見つからなかった。皇帝落胤の可能性はゼロに等しい。
だが、真血の名称は皇帝直系の血筋に当てられるものであった。九郎が余計に混乱したのも無理からぬ話である。
九郎だけが入手している情報のなかには、<皇帝は不治の病で死の直前である>というものがあった。恐らく超高級層のなかでもごく一部の者しか知りえぬ極秘事項で、北条大佐はおろか、平静少将や平武衛大将すら気づいてはいない。
今回の任務には間違いなく『そこ』が絡んでいる。絡んでいるのは確かだが、なぜ神楽神酒なのか、なぜこの夜玉なのか、なぜ三十時間もの間を護衛しなければならないのか、繋がりが見えない。
政府の極秘機関が密かにこの夜玉に潜り込んでいるという情報もあった。
その中の名前を確認して九郎が眉をひそめたのが、沖田義男という男である。歳は二十七。政府の末端の役所勤めをしていたのが、急遽抜擢されている。そのこと自体は特に問題ないのだが、気になるのはこの男が神楽神酒と交際していた男であるということだった。
この作戦が実行に移される前に神楽神酒と沖田義男の交際は破局を迎えている。その絶望的な環境が神楽神酒をこの地獄ともいうべき夜玉へ足を向かわせることに繋がるのだが、破局した直後に沖田義男は極秘機関に組み込まれた。
意図的に交際は終了させられたと考えるのが妥当である。
むしろ交際自体がこの作戦のために始められたと考えたほうが的確であった。 しかも<沖田>というのは大和政権にとっては<忌姓>。最も忌み嫌う苗字なのである。
正体はまるで見えないが、相当な時間をかけ、入念な準備をしてこの作戦は実行に移されている。アトミナーに提示されている情報は全体像の1%にも満たないのかもしれなかった。
こうなるとどんな大国の機密情報も探り当てて来た自称<世界一>の諜報員としての血が騒ぐ。これは、上からの命令に<奴隷>のように従い実行するだけの他の隊員にはできない芸当だ。そして<真実>を知ることが今回の任務を成功させる大切な<鍵>を握っていると九郎は思い至った(この命令違反ともいえる向背行為を知れば真人あたりは容赦なく九郎を殺そうとしてくるだろうが)。
「布陣に異論はないんじゃが、目的地はどこなんじゃ?護衛をするのならば守りやすい拠点に籠るのが最適。しかし、この布陣は敵陣に攻め込むもの。勇はどこを目指すつもりなんじゃ?」
軍師役の熊谷法力が隊員の目の前で作戦について問うことは初めてだった。一年前であれば作戦実行に向けて北条と熊谷はかなりの時間をかけて煮詰めてから方針を示したものである。要するに今回の任務はそれだけ急な話だと言えるのだろう。
作戦自体は随分昔から実施されていたにも係わらず、現場に指令が下りてくるのが急すぎることも九郎には不思議であった。目標の護衛が失敗する可能性が高まるのは当然なことだ。それでは失敗させたくて任務を強行させているのだろうか。いや、神楽神酒を殺すことなど夜玉でなくとも容易である。ここまで大袈裟に準備する必要などまったくない。しかし護衛を成功させたいのであれば情報が少なすぎる。
つまり<どちらでもない>ということになるのだ。
「アー、もうわからへん。頭どつきまわされた感じやわ」
そう言って九郎は頭を抱えた。
「任務を遂行するうちに目的地は見えてくる。」
九郎がもがき苦しんでいる様など見て見ぬふりをして、北条は熊谷に対してそう答えた。
ようするに目的地は北条にもまだわからないということである。
当然ながら攻撃をかける対象も不明。
攻撃を仕掛けてくる相手も不明だった。何もかもが未知数。こんな目隠しの状態での任務遂行はアトミナーと雖も初めてのことである。
「難しい話はもういいや。とにかく向かってくる奴を倒せばいいんだろ?簡単な話だ」
女傑、<赤鬼>の異名で数々の戦士を倒してきた実績を持つ茨木がそう言って笑った。
(単細胞め)
九郎が心の内で舌打ちする。ここまで情報封鎖されているということは、アトミナーはただの道具ということだった。作戦遂行のための道具。間違いなく<使い捨ての道具>だ。作戦の裏に蠢く高級官僚たちのなかでアトミナーの成功など誰も願ってはいないだろう。
(そうか……アトミナーは当て馬。これは何かを試す実験なんや……)
とりあえず九郎はそんな答えに至った。一番妥当な線と言える。
北条が九郎たち隊員に任務の説明、補足をしている頃、夜玉は深い<霧>に包まれていた。