1章狐狸風波 6・茨木と酒呑
6 茨木と酒呑
F.C.八十八年 九月二十六日 午後六時 新都西区三十五・夜玉
バー『レッドアイ』店内
カウンターの中央の席では神楽神酒が気持ちよさそうに眠っていた。両手を投げ出し、テーブルに頬をつけて幼子のような寝息をたてている。
その姿を酒のつまみにして、両側に座っている鎌倉九郎と熊谷法力がちびちびと酒を飲んでいた。
その目前では置行燈の淡い光を頼りに店のマスターの藤原中蓮がグラスを磨いている。
「おい九郎!いい加減に説明しな。そのお嬢さんはいったい何者なんだ?」
店内の奥のボックスの席からハスキーな女の声。声の主は女とは思えぬ大柄な体躯を黒の革の服で身を包み、虎のような大きく獰猛な目でカウンターを睨んでいる。
女はそう一声吠えてからテーブルのグラスを乱暴に手に取り、半分以上注がれていたスコッチを飲み干した。
同じボックスの席に座っているさらに大きな男が少し心配そうにその様子を見守っている。
「全員が揃ったら話すさかい、しばらく待っとけ。……そや、茨木と酒呑はおもろいイベントに参加しとったやないか、その話を聞かせてや」
席をグルリと回し、カウンターを背に向けて九郎がそう答えた。
その表情は明らかに挑発的である。それを聞いて茨木の眉が曇った。瞳の奥が怒りに燃え、歯ぎしりをしながら、
「クソゾンビたちの中を駆けずり回って何が楽しい?ああ?この場でお前を殴り倒したほうが百倍面白いわ」
「なんやごっつ被害者面やな。わしとの勝負に負けたから行くことになったんやろが。潔くないのー。赤鬼の異名が泣くで」
「それは九郎、てめえがいかさまやってたからだろうが!!」
そう怒鳴り、立ち上がってカウンターに向かおうとした茨木を長身の男が必死になだめる。
「離せ酒呑!あいつをぶちのめさないと気が済まん」
「そうやって九郎の挑発に簡単に乗るから足元すくわれたんだろうが。あいつのペースに巻き込まれるのはやめておけ。ろくなことが起きん」
茨木は粗らしい呼吸をしながら数秒間九郎を睨みつけていたが、やがて舌打ちして席に戻った。
「しかしお前たちはいつ顔を合わせてもぶつかり合うな。犬猿の仲という言葉もあるが……それにしても進歩がないの」
九郎たちのやりとりを見ていて、一番の年長者の熊谷がため息交じりにそう呟いた。
「それはそうとジイサマ、俺たちを集めてアトミナーを復活させるって話は本当か?ゾンビの中をレースさせられている時に茨木が言っていたが」
身長二mはあろう酒呑が、奥のボックスから割かし真剣なまなざしでそう尋ねた。
ジイサマと呼ばれた熊谷はグラス片手に、
「そろそろ勇が到着する頃じゃ。正式な発表はそこであるじゃろ」
と、入口のドアが開き、人影がひとつ店内に入った。
影は随分と細い。
「ま、まひと……」
その人物を確認して全員が唖然とした。
宝石が散りばめられた黒の革ジャン、細く長い脚には黒のパンツ。肩まで伸びた髪、そして青白い般若の面。先ほど神酒を暴徒の手から救い出した真人であった。
「初めてやろ、この店に真人が来るんは……」
九郎が呻くと熊谷も頷く。
ボックス席の二人も幽霊でも見るかのように驚愕の表情で真人を見ていた。そして真人がここに現れたことで事の重大さに改めて気がついた。
「眉唾だと思っていたアトミナー復活の話も、こりゃまんざらではないな」
そう酒呑が呟く。
真人は寝息をたてている神酒を確認すると、隣の席の九郎を強引に押しやり座った。そして神酒の背に優しく黒の革ジャンをかけた。意外過ぎるその行動に全員が目を丸くし、呆気にとられて言葉を失っている。
席からずり落ちた九郎はその光景に驚いて立ち上がることすらできない。
冷酷非情な男で人の心など持ち合わせてはいないと仲間たちに信じられていたからだ。
一方で与えられた使命や任務に異常なほど執着する性質も持ち合わせている。
これで真人の任務が神酒の警護であることが公になった。
命令を下したのは北条勇に違いない。
同様の指示を九郎は北条から受けている。念には念を入れ命令を重複するようなことは未だかつてなかった。神楽神酒がそれほど重要な目標ということなのか。
「揃いも揃ってこんな小娘に色目使いやがって。いつからお前らの仕事は子守りになったんだ。ああ?」
茨木が喧嘩腰でカウンターまでやってきた。
真人の黒髪を背後から鷲掴みにすると酒臭い息をしながら顔を近づけた。般若の面は微動だにしない。その奥で青い瞳がギロリと茨木を睨んだ。
それは一瞬の出来事であった。真人の右腕が動いた刹那、何かが空を斬った。
寸前で九郎が茨木を押し倒して事なきを得たが、そのまま立ち尽くしていたら今頃茨木の首は胴から離れていただろう。
「真人てめえ、今のは殺す気だったろ」
それを見ていた酒呑が怒りに任せて立ち上がる。その右手はすでに銃を抜いていた。
「よせ酒呑。ここで殺し合いをして何になる」
慌てて藤原が間に入る。
真人はじっとカウンターの席に座ったまま酒呑に背を向けているが、尋常ならざる殺気を放っていた。
「殺し合いしたがってるのはこいつだろうが」
「真人はすでに任務を受けているのじゃ。任務遂行を邪魔立てするものを消去しようとしたに過ぎぬ。お主も知っていよう。真人の任務遂行にかける思いを」
酒呑はしばらく銃口を真人の背に向けていた。
何度か引き金を弾こうと葛藤していたが、諦めて席について酒の入ったビンをグイと喉に押し込んだ。
「九郎、てめえはいつまでそうやってんだ」
押し倒された格好の茨木が鼻先の九郎目がけてそう言った。
やや表情は赤い。九郎は慌てて立ち上がりカウンター横のアルコール消毒液に手をかざした。
「おい九郎、それはどういう意味だ。まさかと思うけど、俺に触るとバイキンが移るとでも言いたいのか」
茨木の額に癇癪の筋がピクピクと浮かび上がる。九郎は頬をヒクヒクさせながら、
「いやー、なんかあるとほら、任務遂行に障害が起こるやろ。なんで一応……もしもってこともあるさかい」
「なにが、もしもだ九郎。クソ虫の分際で……ぶっ殺す」
「あははは。異名通りにさすがは赤鬼。顔が真っ赤や。おもろいな」
「ふざけんな!」
茨木が猛然と九郎にタックルしようとすると九郎はそれを華麗にかわした。そして奥のボックスの方へと逃げていく。
「酒呑、そいつを捕まえろ。今日という今日は絶対にぶっ殺す」
「それ、鬼は外、福は内」
九郎が挑発してつまみの豆を茨木に投げて来た。
九郎の傍らのソファーに座っている酒呑は、結局またか、といった諦めの表情で酒を飲み続けている。
茨木は床を踏み抜くのではないかというぐらいの足音をたてながら九郎を追うのだが、まったく捕まえることができないのであった。
やがて最後の客の訪問の時刻となった。
その三人の登場で店内は静寂を取り戻した。