1章狐狸風波 5・藤原中蓮
5 藤原中蓮
F.C.八十八年 九月二十六月 午後四時 新都西区三十五・夜玉
「お待ちどうさん」
そう元気よく店内に入ってきたのは鎌倉九郎であった。
紫のカーデガンに黒のインナー、革のパンツ。耳には三連のピアス。ツンツンと立った髪型に切れ長の目。いつもはあどけない少年のような表情だが、今日は苦笑で歪んでいる。
「へー!こういうお店は初めて。おしゃれなお店知ってるね九郎」
九郎に続いて入ってきたのが神楽神酒。身長は百六十五cmほどで、細い身体をブラウンのスーツで包み、足元は黒のハイヒール、首元には薄いブルーのスカーフ。大きな瞳をさらに見開いて店内を興味深そうに見渡している。
ここは夜玉の中心街にある『赤い目 (レッドアイ)』というバーである。
カウンターには席が五つ。奥にボックスが二つ。観葉植物が所狭しと並べてある以外はいたってシンプルな内装である。特別目を引くのは照明がすべて置行燈であることだ。昔ながらに蝋燭を使用していて、淡いオレンジ色の光が店内を照らしていた。
カウンターには二mはあろう大柄な男がひとり黙々とグラスを磨いていた。九郎と神酒の声を聞いてわずかにその長い顔を向けただけで一言も発しない。
店内の客は三人で、いずれも奥のボックスの席で酒を飲んでいた。新たな客の登場にも冷ややかな視線を送っただけ。
九郎は先客の顔ぶれを確認して眉をひそめたが、すぐに笑顔になり神酒をカウンターの席にエスコートした。
神酒の上着をカウンター横の木製のコートハンガーにかけてあげる。
奥のボックス席からは失笑が漏れたが、九郎は意識的にそれを無視する。興奮している神酒はそんな異変など気づきもしない。
「さあ、まずはどれを飲もうかしら。九郎も好きなの頼んでね。今日は私のおごりよ。ホテルまで無事に到着できたのも九郎のお陰だから」
そう言って、メニュー表を見て袖をまくっている。
「藤原、わしはいつものや」
九郎がそう言うと、カウンターの藤原というマスターは軽く頷いた。
「いつもの?何を頼んだの?」
「トム・コリンズや」
「ジンとレモンね。美味しそう!!マスター、私も同じのを頼むわ」
藤原はチラリと神酒と九郎見比べた後で無言でシェイカーを振る。細長いグラスに注ぎ、そこにレモンスライスとマラスキーノ・チェリーを飾った。浮いた氷がカランと音をたてた。
「じゃあ乾杯ね九郎」
「そ、そうやな。神酒ちゃんの初の夜玉ご来場に」
「ありがとう。冒険と出会いに、乾杯!」
二人のグラスが重なりカチーンと鳴った。
「マスター!おかわり!!同じカクテルで!」
三十分と経たぬうちに五杯目。神酒は流し込むようにカクテルを口にする。それを横目に九郎は一杯目をまだちびちびと飲んでいた。
無色のカクテルがすぐに神酒の前に出される。
「マスター、この店いい雰囲気ねー!!ねえ、マスターは九郎と知り合いなの?」
真っ赤な顔をしながら神酒がさらにカクテルを口にしながらそう尋ねた。酔いで語尾が怪しくなっている。
「まあな。わしはここの常連の客や。貧乏臭い店やさかい、わしみたいな奇特な客がおらんかったらとっくに潰れてるわ」
藤原の代わりに九郎がそう答えた。
神酒はムッとした表情を九郎に向けると、
「マスターに聞いてるのよ!九郎は黙ってて!」
目が座っている。九郎は慌てて頷いた。
「このお店、レッドアイっていうんでしょ?どうしてそんな名前をつけたの?」
ふらふらしながら神酒が質問を続ける。
藤原はチラリと九郎を見たが、どうぞという表情なので渋々重い口を開いた。
「ここの名物カクテルさ」
「あら。低くて渋い声ねー。かっこいいわ。マスターモテるでしょ?」
「なんや絡み酒か……」
九郎がボソリと言うと、神酒はその表情に触れるほどに九郎を覗き込み。
「何か言った?」
「いや、何も言っとらんよ。そうや、神酒ちゃんせっかくだから飲んでみたらどうやろ。レッドアイ」
「む!?そうね……そうしようかしら。もうこのグラスも空になってしまったから」
そう言ってグラスを藤原の方に動かした。
藤原は口元をやや引きつらせながらウォッカのビンを手にとった。
レッドアイのレシピはモスコミュールに似ており、ウォッカベースのカクテルでライムとジンジャービヤ、特殊な薬品を入れてステアする。薬品の効果で色彩はやや赤みをさす。アルコールの度数も高いが、麻薬的な離脱症状を発生させる危険なカクテルだった。
「これがレッドアイね」
グラスを受け取ると戸惑うことなくあっと言う間に飲み干した。
「ちょ……ちょっと神酒ちゃん!」
九郎が慌ててそのグラスをひったくるたが、すでに空。唖然として神酒の表情を見た。
「うわー……」
神酒は頭をグラグラさせたかと思うと、カウンターにバタリと頭をつけて意識を失った。
「藤原……」
九郎が席を立ち、神酒の容体を確認する。まるで反応は無く眠りこけている。
「度数も随分下げている」
グラスを拭きながら藤原はそう答えた。
血を逆流させるほどの威力を発するというカクテルだった。
それを口にすれば誰でも目を充血させて酔い倒れることからレッドアイと名付けられていた。下手すればそのまま死に至るほどだ。
神酒に出されたこの時のレッドアイは通常の五十分の一に薄められていたが、それでも神酒を一発で潰すには事足りたようである。
「少しやりすぎじゃないのか?」
そう言いながら奥のカウンターから近寄ってきたのは、坊主頭に無精髭の熊谷法力であった。
酔いつぶれた神酒を挟んでカウンターの席に着く。
「そやな……」
神酒の顔を覗き込みながら九郎はそう答えた。
世界で一番危険地帯と呼ばれる夜玉で神酒は信じられないほど無防備な表情をして眠っていた。
九郎はふーっと大きなため息をひとつした。
「どこからどう見てもごく普通のお嬢様じゃな」
熊谷は藤原からビールの入ったグラスを受け取り、それをグイグイ飲みながらそう言った。
九郎はそれには答えず、カウンターの藤原に向けて、
「藤原はどう思う?アトミナーの殿として数えきれないほどの修羅場を潜り抜けてきたあんたや。いろいろと見極める目はわしと同じで確かなはずやと思うけど」
藤原は興味無さそうに
「さあな。女に興味はない」
その返答を聞いて熊谷がブッと吹き出す。
九郎は残ったカクテルをすべて飲み干しながら、
「確かに何の危険も感じさせない普通の女の子や。けどな、わしの目は誤魔化しきれん。普通どころか異常や」
「どういう意味じゃ?」
「この危険地帯にのこのこひとりで来る自体がおかしい」
「来るように仕向けたのは九郎、お主じゃろ」
「そうやけど……あとはこの天真爛漫な明るさや。おかしいやろ」
「そうか?わしには魅力的に映るがな」
「目の前で人が殺されとるんや。今の時代、確かに人が殺されることなんて日常茶飯事やから別に特別な事やないかもしれん。けどな、人が殺される場面を初めて見た時の動揺は半端なもんやない。一日、二日は何も口にできんかったりする。それがどうや。けろっとして切り替えとるんや」
「うむ……ここに住んでいると当たり前の話じゃがな……確かに順応が早すぎるな」
「感情の起伏は激しいが、実はしっかり自分でコントロールしとる。底が見えん。少しの間しか一緒にいてへんけど、わしは恐ろしく感じたで……」
「うむ……」
熊谷が口を真一文字に結んで唸った。
「ククク……九郎め、ついに女や子どもまで警戒し出したぞ」
奥のカウンターから笑いに近い声。
若い男と女がグラス片手に座っている。
「臆病者め。情けないやつだ」
ニヤニヤしながらカウンターを眺めていた。
九郎は目を合わせることなく、
「なんや、茨木に酒呑か。来とったのか。気づかんかったわ」
その口上を聞いて二人はまた笑い声を発した。
アトミナーの残党が少しずつこのレッドアイに集結しつつあった。
時刻は午後六時。
時もまた満つあった。