トリップしたアイドル
「う~ん、困ったな……」
放課後の時間を利用してのレッスン中だったはずだった。ダンスを踊っていたはずだった。
自分を含めて5人のメンバーと一緒で。
あと、マネージャーさんと、ダンスの先生と居たはずだった。
ごく普通の、中学三年生の、ちょっと普通じゃないアイドル候補生としての日常を過ごしていたはずだった。
なのに、どうしてだろう。
気が付けば何時の間にやら仰向けに、大の字になって寝ころんでいた。
そこそこ狭いレッスン場の、それなりに高い天井は見当たらない。
目に入るのは、やけに鮮やかな青空。
背中に感じるのは冷たい床ではなく柔らで暖かな感触。
横目で左右を見ると、背の高い草が生い茂っているのがわかる。
一面に張りつけられた大きな鏡でもなく、白いクロスの張られた壁でもなく。
少女はとりあえず立ち上がった。
立ち上がって第一声が、先ほどの「うーん、困ったな」発言であった。
言葉とは裏腹に実際問題としてそれほど困っていたわけではないのであるが。
ここはどこだろう?
一緒に居たみんなはどこへ行ったんだろう?
どうしてここに居るんだろう?
さまざまな疑問が頭を駆け巡る。
「ステータス……オープン……」
少女は小さく呟いた。
異世界へのトリップを期待してのことである。
が、当然というべきかなんというか、何も起こらない。
(ステータスウィンドウ表示)と念じてみても、なんの反応も示さない。
とりあえず、普段読んでいるような無料小説でよくあるような、異世界への召喚では無いんじゃなかったんだろうか? と少女は思う。
足元に召喚用の魔法陣も無ければ、周囲に自分を喚びだした神官も居ない。
そもそも記憶にある範囲では光り輝く魔法陣なんてものは目にしていない。――トリップ物では、日常生活にそれが現れて召喚されるというお約束ぐらいは知っていた――。
年老いた魔法使いの老婆も周囲に存在しない。
魔法が苦手なツンデレ少女も存在しない。もっともそれならば自分ではなく男子が召喚されるのが筋――テンプレ――だとは感じるが。
目に入るのは見渡す限りは草原のようだったが、窪地に居るのか、遠くの景色は見えない――、石造りのお城なんて場所ではないようだった。
「となれば……、普通に地球で日本ってこと?」
それはそれで残念だとも思うし、常識的に考えて妥当だとも思う。
確かに小説であるように、異世界で生活するというイベントに憧れていないわけではなかった。
しかし、普段の生活は楽しいし充実しているし、仲間だっている。夢だってある。
どちらかと言えば夢に向かう階段を上り始めたところだ。
「じゃあ、とりあえずそれでいいとして…………。
ここはどこなんやろ?
日本にしては、なんだか大自然すぎるやん?」
夢を見ている――とは少女は考えなかった。
さっきまで――くさっぱらで寝ころんでいる時に――頬に当たっていた草の感触は紛れもなく本物だったし、暖かい日差しも仄かな熱を感じさせるほどだった。
心地よい風もまた、彼女の五感を刺激している。
(まあ、適当にぶらぶらしてみるか……)
彼女の生まれ育った街は、南には海が広がり、北側には山脈が聳えているような場所だった。
他所の土地の人間からは迷子になりようがないと評される地域である。
実際に、山と海に挟まれたその場所で方向感覚を失う人間は稀であった。
今のところ、周りに何があるか見えないけれど。
ちょっと高いところまで昇れば周囲が見渡せるはず――と彼女は考えた。
仮にここがレッスン場の近くなのなら――オフィス街にあるその場の近くだとは到底思えないが――、歩けばすぐに誰かと出会うはずだろうし、家の近所なら、高い山か潮風である程度の方向性はわかる。
とにかく現状を把握するためには、見通しのいいところに移動しよう。
そう考えるやいなや、とりあえず立ち上がって足が向いていた方向へと歩き始めた。
緩やかな坂を上っていると、前方になにやら建造物が現れてくる。
期待にも似た高揚感から彼女の足取りは早くなる。
「あっ、やっぱりあかんやつかも……」
彼女の目に入ってきたのはどこかで見たことのあるデザインの遺跡。
もちろん本物は目にしたことがない。
3Dグラフィックで、つまりはゲームで見たことのある古びた神殿。
「普通……ゲーム世界にトリップとかって、やり込んでたゲームとか……。
それなりに知識があるゲームが普通なんじゃないの?
あれってまだ発売もされてないはずだよね?
うん、来月発売だってはずだから」
少女は自問自答する。
確かに。とある事情でプレイしたことはあったが、ほんのさわりの数十分だけ。
進捗で言えば、プレイヤーのアバターであるキャラのプロフィールを設定したことがあるだけの発売前のゲーム。
その出発地点であったのがその神殿だった。
とはいえ、携帯ゲーム機でのプレイは容認されているが、PCを使ってのネットのMMO等は親から禁止されていた彼女である。
そもそもそんなゲームに興じている暇もなく、やり込んだゲームなんてものは存在しないに等しい。
ようやくその神殿が目に入るところまで昇りきると、ある意味では絶望的な風景が飛び込んでくる。
周囲は拓けた草原で、360度の半分ほどは森のように木々が生い茂っていて視界がそこで途絶えているのが見て取れた。
あとの半分は地平線。延々と草原が続いているだけだ。もちろん完全な平地ではないために、そこそこの距離を歩けば新たな風景に出会える可能性は無きにしもあらずではあるが……。
当たり前のように聳えていたビルも、高架道路も、電信柱も一切存在しない。
よほどの田舎であっても、日本である限りありえないような場所だという事実に無理やり納得させられる。
「しゃあないなあ」
ほんのさわりだけしかプレイしていないが、これがあのゲームの世界であるのなら。
スタート地点は神殿の中だったはずだ。
異世界に召喚された一般人として、神からの信託を受けて、世界を救うたびに出るという筋書きだったはずである。
他に目指す場所が見当たらない限りは、少しでも状況を発展させる可能性にすがるべき。
なにより、今のままでぼうっとしてても何も始まらないし終わらない。
「鬼が出るか、蛇がでるか……。
って、どっちも悪いことやんか!」
ひとりで自分に突っ込みを入れながら少女は神殿の中に入っていく。
その後をつける一人の男の姿があったことを彼女はまだ知らない……。