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第五話

 美鈴がようやくに落ち着くと、私は彼女を連れてキョウコさんと彼氏のいるベンチへ歩いていった。

「さようなら」

「元気でな」

 美鈴の声に涙はなかった。私は軽く手を挙げて応えた。

「トモキくん、行こ」

 美鈴は彼の手を握る。彼はまだ何か言いたそうだったが、キョウコさんが睨むとすごすごと引き下がり、美鈴に手を引かれて去っていった。

「何かしたんですか?」

「さあ?」

 キョウコさんは肩をすくめてはぐらかすと、顔を横向けに私を見上げ、フムフムとうなずいた。

「いい顔になったね」

「そうですか?」

「晴れやか。うらやましい」

 そう言うキョウコさんは、何度も何度もうなずきながら、ふらりふらりとベンチに座った。

「う……ん」

 酔いがいよいよ深くなったのか、キョウコさんはひざにひじ突き、うなだれに固まってしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

 キョウコさんの隣に座り、その背中をさすってあげる。

「うらやましいなぁ……」

「キョウコさんのおかげです」

 私は独りごちるキョウコさんの背中をさすりながら、感謝の言葉を述べた。

「……何が?」

 疑問に眉寄るキョウコさんの赤ら顔がこっちを向いた。

「キョウコさんに逢わなければ、自分に反省することもできませんでしたし、彼女に謝ることもできませんでした」

 さする背中は摩擦にじんわり熱を持ち、私の手にもぬくもりを与える。もし今日、キョウコさんと逢えていなければ、私はこうしたぬくもりの持つ意味をきっと知ることができなかったはずだ。

 そして、私が手を降ろしたあのときにキョウコさんが美鈴を呼び止めてなかったら、私のこの悔悟の想いは一生伝えることができなかっただろう。

「あのとき、どうして呼び止めたんですか?」

 先から気になっていた疑問だった。キョウコさんはとろけ気味の目を細くして答える。

「自分から別れといて、泣くなんてずるいから」

 赤い顔は前を向き、どこへともない視線を上げる。横顔に映るその頬は、わずかに紅潮にふくらんで見えた。

「泣かれたら、怒るわよ。泣きたいのは、こっちなのに」

 吐く言葉は息白く、虚空にこぼれて消えていく。

「なのに『ごめんな』なんて」

 青い光に影差したキョウコさんの横顔が、不意にこちらに振り向いた。

 そして笑った。

 弱く、切なく。

「カッちゃんは偉いよ。泣かせてあげるなんて、私にはできないもの」

 それはひどく痛ましく、今にも崩れそうな、とても華奢な笑顔だった。

「大丈夫ですよ。大丈夫です」

 けれどそれでもキョウコさんは笑っているのだ。

 何かに耐えて。

「大丈夫。大丈夫ですから」

 背中をさする手を強くして、私は同じ言葉を繰り返した。

「だから泣いたって構わないんですよ。無理になんか笑わないで。泣きたいのなら、誰に向かって泣いたって構わないんですから」

 私はキョウコさんに微笑み返し、背中をさする手を肩に回して、包み込むようにキョウコさんを揺すってあげた。

「……何それ。ずるいよ」

 キョウコさんの顔がくしゃくしゃ歪み、やがてぼろぼろと崩れていって、私のひざに倒れ伏せた。

 キョウコさんは泣いた。

 声を上げて泣いた。

 ひざが濡れる淡い熱に、私はキョウコさんの髪を撫でていた。

 梳く髪は、やはり手には残らない。

「優しいのは、やっぱりずるいんですかね」

「……ずるい」

 キョウコさんの声はぐじゅぐじゅに濡れていた。私の胸には寒さに震える子猫を抱くような慈しみがあった。キョウコさんはきっとそんな憐れみに似た優しさなんて求めてはいなかっただろうに。

 ホテルラウンジで、酔った私がキョウコさんにキスを迫ったときを思い出す。

 掴んだ肩がわずかに身悶えたように感じた。

 キョウコさんはこの抵抗を、乱暴に壊してもらいたかったのだろう。自分を汚して、戻れなくなってしまいたかったのだろう。

 なのに私は、優しく髪を撫でている。

 やがて泣き声はぐすぐすと弱くなり、ついには止んで、キョウコさんはむっくりと起き上がった。

「……ありがと」

 私の胸を軽く押して、キョウコさんは身体を離す。その顔は泣き腫らしたまぶたの赤さに濡れていた。

「大丈夫ですか?」

 キョウコさんはまっすぐにうなずき、そして笑った。

「もう、帰るね」

 その笑顔は先程よりも幾分か晴れやかに、自然にほころんで柔らかく見えた。

「私もちゃんと別れる」

 そう言って立ち上がったキョウコさんの身体が、そこで大きく前に傾いだ。

「あれれ?」

 倒れまいと踏み出す足が、二歩、三歩と進むにつれて追い付かなくなっていく。

「ちょ……キョウコさん!」

 キョウコさんは派手にすっころんだ。






 駅へ向かう通りは夜が更けてもいっこうに人を減らさず、イルミネーションに輝いている。夜風はいよいよ冷え研がれ、鋭さに肌を切り付けるが、私の背中にはあたたかい熱が重みとなって揺れていた。

「ごめんね、ごめんね」

 私は酔いにまっすぐ歩けなくなったキョウコさんを背中に負ぶり、駅へ向かい歩いていた。周囲の視線にやや好奇を感じたが、私は気にすることなく歩き続ける。

「……重くない?」

 酒に甘いキョウコさんの匂いが耳元から流れてくる。

「そんなことはないですよ」

 キョウコさんがくすりと笑う。

「カッちゃんは、ほんと優しいね」

 実際にキョウコさんは軽かったのだが、私が否定をする前に肩に回る腕を強くして、ギュッと私の背中を抱いた。

「カッちゃんが優しかったから、今度はちゃんと向き合える気がするよ」

 私の肩に頭を預け、頬に息触れるキョウコさんの熱は、しっとりと肌の冷えをあたためてくる。

「今度、お墓参りに行って来るね」

「えっ?」

 唐突なその言葉の意味に、私は思わず驚きを声にしていた。






「心臓発作」

 説明を求めた私にキョウコさんはそう答えた。

「倒れて、突然。それで、終わり」

 キョウコさんは背中を抱く腕を強くして、ぽつぽつと語り始めた。

「葬儀に出て、火葬場に行って、骨も拾って、四十九日にまで出て、お墓に入るのも見届けた。……なのにね、私の中で彼はちっとも死んでくれないの」

 背中でキョウコさんが微かに身をよじる。

「働き過ぎじゃなかったんだろうか、食事の面倒をもっとしてあげたら違ったんじゃないか、もっと毎日会っていたら何か気付いたんじゃないか、私が鈍かったから助けられたのに助けられなかったんじゃないか……そんな言葉ばっかり頭に回るの」

 そこでキョウコさんは息を区切った。しばしの沈黙に通りを走る車の音が響く。キョウコさんの沈黙は自分の中にある何かを絞っているようだった。

 そして再び言葉が溢れ出す。

「……だから、だから亡くなる前に予約したディナーに行ってみたの。彼が来ないのが分かれば、私の中の彼は死んでくれるって思ったから」

 そこでキョウコさんの声は濡れた。

「でもね、堪えられなかったの。認めたくなかったの。たくさんお酒飲んでも、堪えられなかったの。そんなときね、カッちゃんを見つけたの」

 私の背中に顔をうずめたキョウコさんの声はくもぐって、呟くように細く揺れた。

「裏切ってやれば、終われるんじゃないかって……。でもね、カッちゃんは優しいんだもん」

 そのまましばらくキョウコさんは泣いた。私は黙って歩き続けながら、優しくしたのは間違いじゃなかったと思っていた。

 他人頼みに裏切っても、傷が増えるだけなのだ。結局は自分が向き合わなければ前に進まない。

 たとえどんなに深い傷だったとしても。

「カッちゃん……ごめんね」

 キョウコさんが顔を上げる。

「いいですよ」

「うん……でも、コートぐちょぐちょ」

「えっ?」

 コートの襟は涙と鼻水に汚れ、キョウコさんは一生懸命に袖でゴシゴシ拭いていたが、キョウコさんのぐずぐずと鼻水を引く音はまだ収まらずに続いていた。

 いくら拭いてもまた汚されたら意味がない。私はとりあえず鼻をかんでもらおうと、ハンカチを探してポケットに手を入れる。

 固いものに触れた。

「あ……」

「何?」

 私は指輪の箱を取り出して見せる。キョウコさんは目をしばたたかせながら、手を伸ばして箱に触れた。

「どうするの?」

「捨てますよ」

 私はきっぱりと言い切った。

「もったいない」

「けじめです」

 安い指輪ではなかったが、売るのも他人にあげるのも、指輪を買ったときの自分の気持ちが安いものだったように思えて嫌だった。私は街路樹の裏に回り込んでガードレールに近付くと、支柱の上に箱をポンと置いた。

 それを見ていたキョウコさんは前に身を乗り出して、左手の指輪を抜いた。

「じゃあ、私も捨てる」

 箱の中に二つの指輪が並び、フタが閉じた。

 街路樹に街の灯りを遮られたガードレールの支柱の上で、箱は流れる車のライトに際限なく影を走らせながら、ぽつりと小さくたたずんでいた。

 私とキョウコさんは、しばらく箱に過ぎては消えていく影を眺め、赤信号に車の流れが絶えて、影に小箱が沈むまで、その姿を見続けた。

 箱が影に溶けた。

「さよなら」

 キョウコさんが手を振った。

 もしかすれば、誰かがこの箱を拾うかもしれない。そのときこの指輪は真っさらに新しい時を刻むのだろう。そうなればいい。私は再び歩き出した。

 その後は無言で駅まで歩いた。キョウコさんはずっと、指輪のなくなった左手を見ていた。けれどそこに鼻をすする音はなく、ただじっと指輪のなくなった左手を見ていたのだった。

「着きましたよ」

 やがて駅が見えた。私は地下鉄だったので、キョウコさんが一人で歩けるのならここでお別れだった。キョウコさんはとろんとした顔で辺りを見回している。

「大丈夫ですか? やっぱりタクシーにしましょうか? ここなら何台でもいますし」

「大丈夫」

「じゃあ、とりあえず階段の上までは」

 駅の改札は階段の上にある。私がキョウコさんを背負ったまま、階段を昇ろうとしたときだった。

「降ろして」

 キョウコさんは、決然として言った。

 私の背からキョウコさんは降りた。二本の足でしっかりと立つ。そして駅の階段をキッと見上げた。

「大丈夫」

 キョウコさんは強く、一度だけうなずくと、灰色の階段を、一段、一段、ギュッと踏み締め昇っていった。


最後までお読み下さった方々に、深く感謝を申し上げます。


ありがとうございました。

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